鳴海璃生
京都市および京都能楽会の主催により平安神宮で執り行われる京都薪能は、今年で既に51回目を数える。聴くところに因れば、日本で初めての薪能が、この京都薪能なのだそうだ。
私にチケットを渡してくれた婆ちゃんは、亡くなられたご主人とこの第1回目の薪能に行ったのだ、と嬉しそうに語ってくれた。微かに頬を染める婆ちゃんの姿はまるで少女のようで、私は当時の婆ちゃんと旦那さんとの仲睦まじい様子を脳裏に描き、少しだけ羨ましかった。
「なに笑ってんだよ。不気味な奴だな」
不意に耳に飛び込んできたバリトンの声に、私は意識の淵から現実へと引き戻された。いつの間にか婆ちゃんの微笑ましいエピソードを思い出して、一人でにやついていたらしい。ぱしぱしと軽く頬を叩き、私は居住まいを正した。
「何でもあらへん。それより、もう着くんか?」
「さっき丸太町通に入ったから、あと少しだな」
ついさっきまで鴨川に面した川端通を走っていたお陰で、窓からは心地よい川風が吹き込んできていたのだが、丸太町通に入ってからはそれも滞り勝ちだ。ふぅん、と曖昧に頷き、私はシートに身体を沈めた。
どうせなら良い席を取りたいから4時30分の開場前に行って並ぼう、と提案した私に、火村はにべもなく「嫌だ」と宣ってくれた。並んで待つなんてのは面倒くさいから、開演ぎりぎりまでに行けばいい、というのが、火村の意見だった。もちろんそれには、私がきっぱりと反対した。
互いに一歩も譲らなかった私達は、あみだくじという公正かつ厳正な方法で勝敗を決めた。その結果勝ちを得た私は、火村先生の運転するベンツで、意気揚々と平安神宮に向かっているという次第だ。う〜ん、何だかとっても気分がいいではないか。
いつ止まってもおかしくない老骨のベンツは、アートなボディを陽の光に輝かせながら桜馬場通に面した平安神宮の駐車場へと滑り込んだ。十分な広さを持つ駐車場には、2台の観光バスが先客として止まっていた。
「薪能を見に観光バスで乗り付けて来たんかな」
ドアを開けながらの私の問いに、火村はうんざりしたように眉を顰めた。
「修学旅行じゃねぇのか」
「修学旅行!?」
思いも寄らぬ単語に、思わず声が裏返る。いや、京都が修学旅行のメッカだというのは良く判っているが、今の時期には余りにも不似合いな言葉だ。
「こんな時期に、修学旅行なんてやってるとこがあるんか?」
修学旅行といえば、春か秋。私の認識の仲では、そうと相場が決まっている。斯く言う私も、まだまだ初々しい高校2年の秋に九州へと出掛けた思い出がある。
「あるんじゃねぇのか。そのせいで、街中ガキどもで溢れかえってるぜ」
ばたんと乱暴にドアを閉める火村の横顔は、心底うんざりとした様子だ。そういえばこの先生は、春秋の観光シーズンになると私の部屋に逃げ込んでくるぐらい、人で溢れた街並みが嫌いなんだった。
「お前、大学まで電車で来たんだろ。気づかなかったのかよ」
ボンネットを回り込み火村の方へと向かいながら、私は通り過ぎてきた駅や地下鉄の様子を思い起こした。確かに何となく制服の集団に出くわしたような気もするが、それが修学旅行と断言できるほどの数だったかというと、今ひとつ自信がない。
「う〜ん…。気ぃつかへんかったな」
「そりゃ幸せなことで」
ジャケットの懐からキャメルを取り出した火村は、早速煙草を口にくわえながら肩を竦めてみせた。
既に時刻は午後4時を指し示していたが、夏を思わせる陽射しはまだその威力を誇示していた。身体を包む空気は、湿度が低いためにさっぱりとして心地よいが、それでも暑いものは暑い。陽が落ちた時の用心のために持ってきたジャケットを脱いで手にしている私には、隣を歩く助教授が平然と上着を着込んでいる姿さえ暑苦しくて仕方がない。
なるだけ隣を歩く火村を視界に入れないようにと、私は冷泉通沿いに並ぶ土産物屋へ視線を向けた。まるで縁日の屋台のようなテントの中で売られている品物は、凡そお土産というには少し寒々しい感じがした。この辺りには他に店らしい店が無いから、ぴしっとした土産物屋でも建てれば儲かるだろうに、などと少々せこいことを考えながら、私は火村の隣に並んで歩を進めた。
辿り着いた應天門の横には、まだ開場30分前だというのに、既に3列ほどの並びが出来ていた。1番目の人は一体何時に来たのだろう、とそのパワーに感心しながら、私達は係りの人に導かれるままに列の最後尾に並んだ。
周りに禁煙の表示が無いのを確かめ、火村は早速ポケットからキャメルのパッケージを取り出した。軽く睨め付けてみるが、当の本人はどこ吹く風とばかりに平然としたものだ。私は小さく溜め息を吐き、視線を火村から周囲へと移した。何せこういうことは初体験だ。チャンスとばかりにきょろきょろと、好奇心も露わに辺りの様子を見回してみる。
そうしている間にも列に並ぶ人の数はどんどんと増していき、あっと言う間に隣にも列が一つ出来上がってしまった。並んでいる人々は、老若男女と様々だ。イントネーションや話の内容から、旅行者らしき人も見受けられる。まさかわざわざこの薪能を見にやって来たのだろうか、と少しだけ舌を巻く。
確かにこの京都薪能は、6月の京都の風物詩の一つとして既に定着しているらしい。だが、全国区で大々的に宣伝をしているというわけでもないはずだ。事実私は婆ちゃんに話を聞いて、そういうものをやっているのだ、という程度にはその存在を知っていた。だが、今年の薪能が今日と明日だなんてことは、朝に婆ちゃんから電話を貰うまでは全く知らなかったのだ。話を聞いた時も、そういえばそんなのがあったっけ、というぐらいにしか思い起こさなかった。
私が興味深げに周りの様子を観察している間にも、どんどん人の列は増えていった。前に並ぶ人々の頭越しに首を伸ばしてみると、どうやらこちら側だけでは場所が足りずに、反対側の應天門正面の広場にも人を並べ始めたようだ。
「何や凄い人やなぁ…。やっぱ早うに来て正解やったやろ?」
こっそりと、でも勝ち誇ったように囁くと、火村は文楽人形のように眉を上下させた。口にこそ出しはしないが、「お前みたいな閑人が多いんだな」とでも言いたいのだろう。抗議の言葉の代わりに、私は隣に立つ男の肘をつついた。
「でも良かったやろ。向こう側に並ぶんやなくて」
そう言いながら、私は顎で應天門前の列を指し示した。私達が並んでいる場所は、上手い具合に木立の陰になっているのだが、反対側の広場に並ぶ列には真正面から強い西日が当たっていた。おまけに陰を作りそうな建物も、樹木の1本すらも無い。ちらりと正面に視線を送り、火村は軽く肩を竦めた。
「まぁな。あんな所に並んでいたら、不摂生な生活をなさっている作家先生は、あっと言う間にぶっ倒れちまうな」
「そんなわけあるかい」
ぼそりと呟き、私は鼻梁の高い横顔から周囲へと視線を戻した。
あれよあれよ、と言う間に増えていった人の列は、本当に様々な人達で構成されていた。人種、性別、年齢、職業---。そしてまた服装や恰好も、実に多種多様だった。粋に着物を着こなした老婦人もいれば、Tシャツにジーンズというラフな恰好の若者もいる。
「俺、こっち来る時、何着てけばええんやろ、ってちょっと考えたんや」
周りの様子をぐるりと一瞥し、私は少しだけ照れながらそう口にした。短くなった煙草を、いつも持ち歩いている簡易灰皿に捨てた火村は、にやりと笑って口の端を上げた。
「人をデートに誘おうってんだから、それぐらいの気遣いは当然だな」
平然とした口調で恥ずかしげもなく綴られた言葉に、私は唖然とした。全く何言ってるんだか、この助教
授は---。
確かに今日は夏並みに暑いが、脳味噌がとろけるにはまだ早すぎる季節だ。こんな調子で、果たして京都の夏を無事に越せるのだろうか、この先生は。他人事ながら、夏の暑さにやられた助教授の人格崩壊振りが心配になる。もしそうなったら、1番に迷惑を被るのは夏休み明けに大学にやって来た彼の生徒達だ。
「何アホなこと言うてんねん。そうやなくて、能を見に行くわけやろ。幾ら外でやるいうても、ジーンズとかのラフな恰好やったらまずいんかなぁ…、って思うたんや。でも結構みんなラフな恰好で来てるから、俺ホッとしたわ」
「さすが作家先生は気配りが違うな」
作家云々は余り関係ないと思うが、気配りに関しては自信がある。小心者を自負する私にとって、気配りは必要不可欠なものなのだ。サラリーマンで営業をやっていた頃に培われた習性といえないこともないが、どこぞの傍若無人な大学の先生とはわけが違う。
「そんなん当然や。俺はTPOを大切にする人間なんやから」
えっへんと胸を張った私に、火村が軽く相槌をうつ。口許には、にやにやと楽しそうな笑い。嫌な予感が背筋をはい上ってきた。
「だったらさ---」
火村は軽く私の腕を引き寄せ、耳元に唇を寄せた。
「しっかり発揮してくれよ、そのTPOって奴をさ」
訝しげに眉を寄せる私に、どこか勝ち誇ったような視線を投げる。
「---今夜、蒲団の中でな」
甘く囁かれた言葉に、ぎょっと目を剥く。が、とてつもない台詞を吐いた火村は平然としたものだ。かっと頬に血が上る感覚を、頭を振って何とか散らす。
「アホんだら。何ぬかしとんねん」
勢い余って怒鳴った瞬間、列の並びがゆっくりと動き出した。◇◇◇ チケットを渡し、『入り口』と書かれた左手の門から中に入ると、本屋で使っているような白い紙袋と小さなリーフレットを手渡された。袋の中をちらりと覗いてみると、チラシの類が数枚入っていた。『京都薪能』と茶色の文字で書かれたリーフレットは、どうやらプログラムの代わりらしい。極簡単に上演される演目が記されている。
門の中に入った途端、他の人達は席取りへと駆けだしていたが、私と火村はのんびりとしたものだった。門の正面に組まれた櫓を回り込む。まず最初に目に入ったのは、でかでかと書かれた『禁煙』の文字。隣から聞こえた小さな舌打ちの音に、私は思わずほくそ笑んだ。
スロープになった木の板を上り、ぐるりと周りの様子を見回してみる。能舞台の正面には靴を脱いで座る桟敷席。その左右には、桟敷席より少しだけ高くなるように櫓が組まれ、パイプ椅子が並んでいる。それはまるで雛壇のようで、1列ずつ後ろにいくにつれて段差が設えてあった。
正面中央の桟敷席の後ろにも2列程度のパイプ椅子。そして、その後ろ。ちょうど私達が立っている場所は、緩やかな傾斜のついた椅子席になっており、縁台のような木の長椅子が並べてある。
能舞台の真後ろには、広場を挟んで平安神宮の太極殿。その後ろには神域の木立。東に当たる右手には山の緑。スクリーンのようにそれらを取り巻いているのは、目に染みるような青空。なかなか良い風情ではないか。
「なぁ、火村。前やなくてこっちでええやろ?」
舞台からは少し離れているが、靴を脱いで座るよりは椅子席の方が良いだろう、と勝手に決め込んで、私は大股に中央へと進んでいった。簡単に板木で組まれただけの櫓が、足を踏みしめるごとにぎしぎしと音をたてて、何とも心もとない。普通に歩いている分には壊れることはないだろうが、走ったりジャンプしたりと急激な力が一カ所に加えられたら、危ないかもしれない。
ゆっくりとした足取りで中央まで進み、ちょうど能舞台の真っ正面に位置し、なおかつ通路に面した席を選んで、私は腰を下ろした。もちろん通路側の席は火村に譲る。これなら煙草が吸いたくなっても、簡単に喫煙所に行くことができる。
私達の座った場所は、最後列に近い、舞台からは結構離れた場所だった。だが、会場全体がそう広いわけでもないので、舞台が見えない距離でもない。ちょうど舞台と同じぐらいの高さで、全体の様子が見渡せる良い位置だと思う。細い木の長椅子は、余り座り心地が良いとは言えない。が、この急ごしらえの場所で、そこまで望むのは贅沢というものだろう。
次から次へと途切れることなく人が入ってきて、三々五々空いた席が埋まっていく。並んでいる時にちらほらと見掛けた外人の数も、ここから全体を見通してみると結構な人数であることが判る。果たして、外国の人が能なんて見て理解できるのだろうか、と他人事ながら少々不安になる。だが、実際のところは、私だって彼らと同レベルみたいなものだろう。いやもしかしたら、こんな所に来るぐらいだ。私なんかよりずっと、日本文化に造詣の深い人達なのかもしれない。
そんなことを思いながら、見回すように辺りの様子に視線を向ける。席取りをする客の波に混じって、学生のアルバイトらしい男の子達が、通路のそこここでパンフレットを掲げながら売り歩いている姿が目に入ってきた。そういえば、外で並んでいた時にも大声を上げながら売り歩いていたことを思い出す。時給幾らのバイトなのかは知らないが、この暑い中全くもってご苦労様なことだ。
「なぁ、火村。パンフレット買うか?」
足を組み、膝の上で頬杖をついている犯罪学者に訊いてみる。
「俺はいらねぇよ。欲しけりゃ、お前が買いな」
ひらひらと左手を振る火村を見つめ、私は少しだけ逡巡した。記念にもなるし、もし婆ちゃんが欲しい、と言うのなら、お土産代わりにあげてもいい。
「んじゃ、1部だけ買うとこ」
私は右手を上げて、近くにいたアルバイトの学生を呼んだ。タタタッと勢いよく駆けてきた学生にお金を渡し、B5サイズのパンフレットを受け取る。
水色の地にオレンジ色の文字の入った表紙は、映画や演劇等のパンフレットに比べると、素っ気ないほどにシンプルだ。ぱらぱらと軽く捲ってみる。表紙同様、中のページも文章とモノクロの写真だけというシンプルさだ。最後までひと通り目を通してみて、改めて最初のページを開いた。
表紙を捲ってすぐのページには、京都能楽会理事長の挨拶文。それをざっと読み流してページを捲ると、見開きで今日と明日の演目が書いてあった。並んでいる演目を見ても、一向に何なのか判らない。順番に目を通し、1番最後の行に至ったところで、私は「あっ」と大きな声を上げた。
「何だよ?」
頬杖をついた火村が、胡散臭げな視線を送る。
「終了予定9時やて」
いや正確に言えば、演目の並んだ左端。最後の行に小さな文字で、『終了予定9時頃』と書いてあるのだ。『頃』というからには、9時を過ぎてしまうこともあるわけで---。
「おい、飯どうするよ?」
ぶっきらぼうな口調に、私は溜め息をついた。火村に訊かれずとも、私だって真っ先にそのことを考えた。そんな時間ともなれば、食事ができる場所など限られてくる。
「三条京阪まで出れば、食べれるとこあるんやないか」
「車だぜ」
あー、そうだった。
食事に意識が向いてすっかり忘れていたが、私達は火村のベンツでここまでやって来ていたのだ。まさか置いて帰るわけにもいかないし、かといって車で三条京阪まで車で出たら、駐車場探しだけで時間を喰ってしまうことは目に見えいる。不便なことにあの辺りには、適当に車を止めておけるような場所がないのだ。空いている駐車場を探すにしても、それはそれで面倒臭い。駐禁覚悟で路上駐車、なんて提案しても、火村が首を縦に振るわけはない。踏んだり蹴ったりとか、泣きっ面に蜂なんて言葉が、電光掲示板のように頭を過ぎっていく。
「持ち込みできると判ってたんなら、ビールと弁当でも買ってくるんだったな」
火村が眼差しで指し示した方向に目を向ける。多分、この薪能に何度か訪れたことのある人達なのだろう。それぞれにコンビニの袋やデパートの紙袋を携えている。中には、どうみても寿司折りが入っているような立派な包みを持っている人や、手作りの弁当らしきものを持っている人もいる。さらには、長椅子の上にレジャー用の簡易座布団を引いている人。何だか上級者と初心者の違いを見せつけられたような気分だ。
「俺らもビールと弁当。それにマイ座布団を持ってくるんやったな」
座り心地が悪そうにもぞもぞと尻を動かした私に、火村は微かに苦笑を零した。
「まぁ、マイ座布団はどうでもいいが、ここで呑むビールは美味いだろうな」
「そやなぁ…」
火村の言葉に頷き、私は視線を上げた。頭上には抜けるような初夏の青空。目の前には木立の緑に映える朱塗りの平安神宮太極殿。西に傾いた柔らかな陽の光も、頬を撫でる緩やかな風もすっきりと心地よい。こんな場所で呑むビールは、さぞや美味しいことだろう。想像しただけで、思わずごくりと喉が鳴る。
「さてと---」
突然聞こえたバリトンの声と振動に、私は慌てて意識を隣の男へと戻した。立ち上がった火村が、空に向かって軽く伸びをしていた。
「何してんねん。もうすぐ開演やで」
腕時計の指し示す時間は、午後5時5分。あと25分で開演という時刻だ。それにこんな所で立っていたのでは、他の人のじゃまにもなる。座れ、とばかりにジャケットの裾を引く。そんな私の仕種に苦笑を零し、火村は煙草を吸うジェスチャーをしてみせた。
「これから3時間30分の禁煙だからな。ちょっと煙草を吸ってくる」
どこか気障にも見える仕種に、私は握りしめていたジャケットの裾を離した。
「何やったら一度外に出て、ビール買うて来てくれてもええで」
この調子でいくと、夕飯はコンビニの弁当か、火村の部屋の冷蔵庫に入っている残り物になってしまう。ならばせめて、この絶好のロケーションで、きゅっと冷えたビールの1本でも楽しみたいものではないか。からかうような、でもどこか期待したような眼差しに、火村は柔らかな微笑を零しながら軽く私の頭を小突いた。
「ばぁか、何言ってやがる。この辺にビール買える店なんてねぇだろうが。贅沢言ってねぇで、家に帰るま
で我慢しな」
くるりと踵を返し、肩の辺りでひらひらと手を振る。それを横目に見つめ、私もお愛想程度に手を振ってやった。まぁ、本気で買って来て貰えるとは思ってなかったが、少しだけは期待していたのだ。はぁ…と溜め息をつき、視線を火村の背中から会場へと戻す。
板張りの桟敷席は、いつの間にか隙間無く人の頭で埋まっていた。能舞台の横に設えてあるパイプ椅子の椅子席も、その大半がカラフルな色で埋まっている。能舞台に向かって右手、東側に位置する椅子席にやや多くの空席が目立つのは、きっと西日を正面に受けて眩しいせいなんだろう。
私のいる正面後ろの椅子席も、前から順番に人で埋まっていた。でもどこも、ぎゅうぎゅう詰めというわけではない。アナウンスでは盛んに「詰めてください」と繰り返しているが、言うほどに混み合っているわけではなく、空席もちらほらと目に入るのだ。特に私のいる後ろに辺りは、人の数より空席の方が目立っていた。週末の金曜日とはいえ、平日の5時30分開演では一般の社会人は早々来れないに違いない。
ぼんやりと辺りを見回してから、時計に目を落とす。時間は既に5時20分を回っていた。会場のざわめきが、始まりの期待と興奮に膨らんでいく。少しずつ膨らんでいく風船がパンッと割れる瞬間を待つような、不思議な緊張感。
このわくわくするような一種独特の雰囲気が、私は大好きだ。胸が高鳴るような高揚感は、私を別の世界へと導いてくれる。遠足や運動会。楽しい行事の前には眠れない子供だった私は、今もまるで変わりがない。始まりの前の期待と興奮は、いつの時でもまるで麻薬のように私を虜にするのだ。
「そろそろ開演時間やけど、あいつ何やってんねん」
ニコチン補給に出向いた先生の姿を探して、きょろきょろと視線を彷徨わせる。ちょうどその時、右手の通路から、見るからに女子大生と思しき数人を引き連れた犯罪学者の姿が目に飛び込んできた。
姦しく「きゃあ、きゃあ」と騒いでいる女子学生に、仏頂面の助教授。一見華やかなその集団は、嫌が応にも周りの注目を集めていた。気の毒に、と火村に同情するより先に、唖然としてしまった。同時に、一緒にいなくて良かった、とホッと安堵の息を吐く。幾ら何でも、あの一団の中に身の置き所なく混じっている自分、なんてのは、想像するのも御免被りたい。
能の前の前座でも見るかのように、私はじっと火村達へと視線を注いだ。一緒に周りの様子も観察してみると、みんながみんな興味津々の眼差しを彼らに注いでいる。確かに他人事である限りは、なかなか面白い見物であることは否めない。いや、同性にとっては、垂涎ものの羨ましい光景なのかもしれない。
大股に進む助教授を引き留めるように、腕に手を掛けた女子学生の手を、火村はぴしりと容赦なく叩き落とした。そして不機嫌丸出しの表情で、まるで虫でも追い払うかのように邪険に手を振る。
「えーっ、冷たい」
「先生、ひどぉーい」
どこか媚びを含んだ高い声が、風に乗って微かに聞こえてきた。だが彼女達の態度など意にも介さぬ様子で、火村はひと言ふた言、何かを告げた。学内1の人気者の助教授に、思いも掛けない場所で出会えたことを単純に喜んでいた女子学生達は、火村の様子に渋々ながらも引き下がることにしたらしい。
「それじゃ先生、学校でね」
「月曜日にお会いできるのを、楽しみにしてまーす」
火村の冷たい態度にもめげない女子学生達は、それぞれに名残惜しげな別れの言葉を口にして、わいわいと賑やかに桟敷席の方へと下りていく。振り向きもせず、おざなりに手を振った火村は、うんざりした様子も露わに私の待つ席へと戻ってきた。
「よっ、お帰り」
愛想良く迎えてやった私の言葉に応えることなく、火村はどすんと乱暴に腰を下ろした。犯罪学者の不機嫌な横顔に、私はにやにやとからかうような笑みを送る。
「相変わらずモテモテやんか、センセ。ゼミの学生なん?」
「選択の犯罪学概論の奴らだ。全く冗談じゃないぜ、こんな所で会うなんて」
忌々しげに呟く様子に、私は漏れる笑いを噛み殺した。学内にファンクラブまで存在する---らしい---人気No.1の助教授は、年齢を重ねるごとに女性嫌いに拍車が掛かっていくようではないか。
「でも、君ん所の学生が何で能なんて見に来てるんや?」
犯罪社会学と日本の古典芸能の間に何らかの接点があるとは、とても思えない。
「能楽研究会だとさ」
「能楽研究会!?」
聞き慣れない会の名前に、私は先刻の女子学生達が座った辺りへと視線を移した。たぶん周りにいるのは、その能楽研究会とやらのメンバーなのだろう。何人かが膝立ちをして、こちらの方向を伺っている。中にはオペラグラスまで持ち出している女子学生もいて、私は少々憂鬱な気分で隣の犯罪学者を振り返った。
「そんなええもんが、うちの大学にあるとは知らんかったわ」
「俺も今日初めて知ったぜ」
どこか投げやりな口調で呟く。
---ご愁傷様やなぁ。
整った横顔に浮かぶうんざりとした様子に、少しだけ同情の念が湧く。とその時、開演を告げるアナウンスが、ゆったりとした風に乗って会場を満たしていった。to be continued
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