鳴海璃生
−1− 天高くどこまでも澄み切った青空が、視界の先に広がっていた。陽の光は、ぽかぽかと暖かい。---というよりは、少し汗ばむくらいの暑さだ。耳には、谷町筋を通り過ぎる車の音に混じって、遠くから鮮やかな歓声が聞こえてくる。まるで放課後の学校を思わせるような、のんびりとしたうららかな気分…。
ベランダの手摺りに肘をついて私、専業推理作家の有栖川有栖は、ぼんやりと微睡むような幸福に浸っていた。時折吹く風が、物干し竿に干した毛布を軽く揺らす。毛布の隣りに干した蒲団からは、太陽の匂いがほんのりと香ってくる気さえする。
取り立てて急ぐ程の締め切りもなく、時間に追われることのない日常。空はどこまでも青く高く、天気は天晴れ見事な日本晴れだ。
---あぁ、幸福ってこんなもんなんやなぁ。
清々しい空気と光を胸一杯に吸い込み、ほんわかとした気分にどーっぷりと浸りきっている。髪を乱す風さえ、今日は心地よい。
「こんなのんびりするのは、久し振りやなぁ…」
望めば毎日が日曜日---決してそういうわけじゃないが、日々汗水垂らして働いている一般人のサラリーマンに比べれば、の話だ---の専業作家家業にとっても、天気の良い休日というのは、特別に特別なものなのだ。
もっともそんな日に、デートをするわけでも、出掛けるわけでもない。蒲団を干すとか洗濯をするとか掃除をするとか、嫌になるくらい極々日常的なことしかやることがない身というのは、情けないといえばこれ以上に情けないこともないかもしれない。だがそれを片隅に追いやって、ついでに丸めてゴミ箱にポイッてなぐらいに、今日の天気は清々しくて気分がいい。
「極楽やで、ほんまに」
欠伸と共に大きく伸びをして、空に向かって身体を思いっきり伸ばした時、リビングの電話機が唐突に自己主張を始めた。その音にぴくりと身を竦ませ、私は不機嫌に眉を寄せた。
こういうやたらと気持ちが良くて、めちゃくちゃ幸せ気分で、さぁ、これからゴロゴロするか…ってな時をまるで見計らったかのように、無粋に電話を掛けてくる人間を、私はたった一人しか知らない。そして、その無粋な人間からの電話ってのが、たいてい日常から大きくかけ離れた殺人現場へのお誘いだったりするわけだ。
いやしくも推理作家なんぞという職業を生業にしている私としては、普段ならば尻尾の一つや二つはぶんぶん振って、殺人現場へのランデブーについて行くとこだ。だが今日のように幸せ満杯状態に身を浸していると、電話の音に思わず眉を顰めたくなるのが人情ってもんだ。
---それにしてもタイミングが悪いっちゅうか、良すぎるっちゅうか…。
もう一つ大きく伸びをして、私は麗らかな日常から血に濡れた非日常の現実世界へとトリップする心構えを新たにした。
「は〜い、はいはい。今、出ますよ」
しつこく鳴り響くコールの数は、既に10回を超えてしまっている。電話を掛けてくる相手も、随分と根気強いというか、単に諦めが悪いというか---。
---こりゃ、出た途端に皮肉の嵐やな。
健気にも悲壮な覚悟を決めて、私は手にした受話器を耳元へと運んだ。
『まだ寝てたのか、お前は…』
予想に違わず、電話の主は英都大学社会学部に籍を置く新進気鋭の犯罪学者、火村英生助教授殿だ。耳に届くクールなバリトンの声は、いつもと同じで心地良く鼓膜を振るわせる。だがそれに相反するように、言葉の内容は、これまたいつも通りグサリと鋭く胸を突く。
電話の向こうの相手とて、これといった悪気があって言っているわけでもないし、大学時代からこうやったんやからと、寛大な心づもりをつぶさに発揮してみても、頭にくるものをどうにも押さえることができない。---畜生。このまま居留守でも使ったれば良かったわいッ。
「朝の苦手な火村先生と一緒にするなや。俺はとっくの昔に起きて、掃除洗濯蒲団干しと、一通りのことをきっちりと済ませたあとや」
ふふん、と鼻で笑うように応えを返す。言い返したいことは山ほどあるし、皮肉の一つや二つや三つや四つ---いかん。歯止めが効かなくなる---は懇切丁寧に織り込んでやりたいところだ。だがそれをやると、火村先生の皮肉の山、怒濤の悪口雑言を聞く羽目に陥ってしまう。長年の経験によって勝ち得た先見の明と、望みもしないのに培われた忍耐力によって、私は涙を飲んでそれらを諦めた。ともすれば口をついて出そう
になる返答への抗いがたい誘惑を理性の力で断ち切り、私は続く火村の言葉を待った。
『ほぉ〜、そりゃ困った。俺は、今日は傘を持ってきてねぇんだがな』
むっちゃ腹たつっ。ほんまに何でこんなに口が悪いんや、こいつは。人様の健気な努力をゴジラのように踏みつぶす行為においては、きっと火村の右に出る奴はいない。だいたい雨が心配なら、てるてる坊主をおんぼろベンツのルームミラーにでもつり下げておけっ。
『今そっちに向かっているから、下で待ってろ』
喉の奥で笑っているようなくぐもった声が消えた途端、簡単にそれだけを告げる。そして火村は、掛けてきた時と同じような唐突さで、一方的な通話を終わらせた。
いつものことながら、私が問い返す隙さえ与えてはくれない。いやそれどころか、人様に電話を掛ける時のマナーってやつを、この最高学府の助教授は一体どこに置き忘れてきたのだろう。ツーツーと不通話音の聞こえる受話器を握りしめ、私は小さく嘆息した。
---相変わらず自分勝手な奴やで。
さらに腹が立つことに、火村は頭っから私が閑だと決めつけてやがる。お愛想でも方便でも、時候の挨拶程度の意味の無さでもいいから、ちらっとはこっちの都合も訊きやがれ。
「…ったく、もう。ふつうやったら怒るで、ほんま」
相手の存在のない受話器に向かって独りごちると、私はコードレスの受話器を電話機本体に戻した。そして重い足取りで、ベランダへと踵を返す。せっかく干した蒲団だが、出掛けるのならこのままにしてはいけない。 恨めしげに青空を見つめ、私は一つ溜め息をついた。−2− 「なぁ、火村…」
目の前の光景が信じられなくて、私は隣りに仏頂面で立つ親友の名を呼んだ。
「何だよ」
煙草を口にくわえたまま、犯罪学者先生はぶっきらぼうに応えた。声音にどことなく苛立ちが混じっているのも、この状況では致し方ない。
火村からの唐突な電話を受けた私は、彼の指示通りマンションの下で火村のアートなベンツを待ち受けていた。10分も経たない内に、笑える程ポンコツのドイツ製高級車が私の目の前でゆっくりと止まった。
いつも通り反対側に回り込んで、助手席のドアを開ける。屈み込むように上半身を中に滑り込ませると、常には見慣れない人物の顔が視界に飛び込んできた。
「森下さん」
まだ若い府警のはりきりボーイが、トレードマークのアルマーニではなく、トレーナーにジーンズという珍しい恰好で後部座席に座っていた。
殺人現場に行くには奇妙なその服装に、私は微かに首を傾げた。訝しむように、火村へと視線を走らせる。口元にキャメルをくわえた助教授は、何とも形容しがたい仏頂面を晒していた。
「時間に遅れるんで、早く乗って下さい」
森下にしては珍しく、急かすような口調で口を開く。私はその奇妙な姿を問うこともできずに、助手席のシートへと身を沈めた。止まった時と同様に、ゆっくりとベンツが走り出す。バックミラーに写る森下の妙にウキウキとした、それでいて意気込んだ様子にチラチラと視線を走らせながら、私はそっと運転席の火村に耳打ちした。
「なぁ、火村。フィールドワークに行くんと違うんか?」
森下とは対照的な火村の仏頂面を見れば、どうやら私の問いは間違ってはいないようだ。正面を見つめていた火村は、ちらりと私に視線を走らせ、皮肉気に片頬を歪めた。
「行けば判るさ」
それっきりひと言も喋らない。何となくそれ以上は口にしづらくて、私はシートに深く身体を沈めた。そして、訳が判らぬままに連れてこられた先がここだったりするのだが---。果たして、一体なんと言えばいいのか…。
私は青空に向かって、身体中に溜まった溜め息を吐き出した。
アートなベンツに揺られること約1時間弱。辿り着いた場所は、大阪府交野市。大阪市の北東部に位置するベッドタウンで、面積の約半分を生駒山系の山地に覆われた風光明媚な街だ。この街の山沿い、隣りの枚方市との境に接した東倉治に、警察関係者には極々馴染みの警察学校がある。そして私達がやって来たのが、正にその警察学校だったのだ。
別に連れてこられた場所が殺人現場じゃなかったからといって、気落ちしているわけではない。警察学校だって推理作家にとっては、大いに興味をそそられる場所の一つなのだ。
ただ---。目の前で行われているこれが、どうにも納得できない。
今日が10月10日、体育の日であることを考えてみれば、極々在り来たりの、納得できる光景なのだろうが---。だが、しかし---。
要するに今私の目の前では、俗に言うところの運動会ってやつが執り行われている真っ最中だった。ただそれが普通とちょーっと違うのは、走ったり綱引きをやったりと、キャイキャイ、ワーワーと歓声を上げているのが、可愛い小学生や茶髪の女子高生ではなく、むくつけき強面のおっさん---失礼---警察官だったりするところだ。
もちろん私好みのかわいい婦警さん達も、掃き溜めの鶴のようにその中に混じっていたりする。だが、駐車違反でかわええ青い鳥を何度か引っ張られたことのある私としては、とてもじゃないが彼女達を見ても素直には喜べない。いや、それより何より、貴重なぽかぽか天気の休日を潰してまで、一体なんで私がこんな所にいなければならないのだ。
せっかく今夜は、フカフカホコホコの蒲団で眠れると思ったのに…。
畜生。しがない推理作家のささやかな楽しみを、どないしてくれるんやっ。
「おい、火村。何とか言えや」
潰れた怠惰な休日とホコホコの蒲団の恨みは、ものすごぉーく大きいのだ。そのため眉を寄せた私の口調も、自然と険を含んだものになる。が、それに応える代わりに、火村は私の顔に向かって思いっきり紫煙を吹き付けてきた。
「何するんやッ!」
「仕方ねぇだろ。普段お世話になっているんだから」
「お世話って…。それは君だけやないんか。俺は警察のお世話になるなんてこと、早々覚えないで」
「ああ、そうだったな。失敬。アリスの場合、お世話じゃなくて迷惑かけてんだよな」
この野郎、失礼な。自慢じゃないが、私は駐車違反以外で警察のお世話にも、迷惑にもなったこともない。しかもその内の一つは、間違いなく火村のせいだ。
---思い出した。そう言えばジャバウォッキーを捕まえに新大阪駅へ行った時、私を唆した---ちょっと違うか---火村は、罰金の半額を払ってもくれなかったんだ。
あの当時は気が立っていたので、特に気にも止めなかった。だが今になって思い返せば、犯罪を未然に防ぐために頑張った私に対して随分な仕打ちじゃないか。おまけに友情も半分ぐらいは放棄している。せこいことを言う気はないが、返せ、私の5000円。
「普段フィールドワークでお世話になっている手前、断れなかったんだよ」
あらぬ方向を向いて煙草をくゆらしていた火村が、ぼそりと呟いた。本当は自分だって来たくなかったんだ、という心情が、言葉の端々に滲み出ている。
そう言われてみれば、確かにそうかもしれない。全てを語らずとも火村の言いたいことは、私にだって良く判る。となると、私がお世話のうえにご迷惑を掛けているってのも、---口惜しいことに---あながち完璧な間違いではない。
まぁ仏頂面をぶら下げながらも火村がここにいることを思えば、それは一目瞭然だったりするのだが---。にしても、私まで巻き込むってのは、どうにも…。
その私の心の内を読んだのか、火村がニヤリと皮肉気な笑いを口許に刻んだ。
「アリス。てめぇだけ逃げられると思うなよ」to be continued
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