Let's Try 運動会 <後編>

鳴海璃生 




 ひと言も言い返せない。私は罰の悪さを隠すように頭をポリポリと掻き、目の前の光景をぼんやりと見つめた。---警察官達の運動会なんて滅多に見られるもんじゃないし、まぁラッキーと言えばラッキーなのかもしれない。それに警官がこういう風にのんびりしているってのは、世の中平和な証拠だ。己を慰めるように無理矢理そう思ってみても、本心は何となく虚しい。
「…なぁ、火村」
「なんだよ」
 カチリとライターの音が耳に響いた。普段からチェーンスモーカーではあるが、ここまで煙草の量が多いってことは、火村もこの状態を相当我慢しているってことだ。
 ---火村は火村なりに、お気の毒様ってとこやな…。
 傍若無人なこの男にも、人間らしい義理を感じる心はあったってことだ。
「まぁ今さら逃げようとは思わんけど、こうなった経緯ぐらいは説明してくれてもええんやないか。わけ判らんままに、俺、引っ張ってこられたんやで」
 溜め息と共に火村は紫煙を宙空に向かって吐き出した後、まだ長い煙草をいつも持ち歩いている簡易灰皿で揉み消した。
「欲しい資料があってな、朝っぱらから府警本部を訪ねたんだ」
 まっ、火村なら良くあることだ。
「行ってみたら、何やら府警本部がざわついててな、一課の人数も妙に少なかったんだ。俺に電話をくれた船曳警部もいねぇしな」
 その当の船曳警部が、丸いお腹を揺らして走っている。行く手には30cm程の高さの平均台。大丈夫なんやろかと、人ごとながら不安になってくる。
「また何か事件かと思って、こりゃ良いところに来合わせた、と内心ほくそ笑んでいたら---」
「…ここに引っ張ってこられたちゅうわけやな」
 よろよろと不安定な動作で平均台の上を歩く船曳警部の姿に思わず拳を握りしめ、私は火村の言葉のあとを続けた。---それにしても、ええ年齢したおっさんが危ないんやないか、あれは…。---って、またまた失言。いかん、いかん。どうも今日の私は心の窓が開きっぱなしだ。
「まっ、そういうわけだ」
 火村が大仰に肩を竦めてみせる。---何がそういうわけだ、や。気楽に言うな、気楽にっ。無関係の私まで引っ張り込んだくせに、こいつには罪悪感てもんが全くないのか。
「言っとくがな---」
 ニヤリと質の悪い笑みを作り、火村が私の顔を覗き込んだ。急にドアップになった男前の容貌に、反射的に私は後ろへと身を引いた。
「お前を誘おうって言ったのは、森下さんだぜ」
 顎でトラックを指し示す。それにつられたように、私も視線を移した。視線の先では、森下刑事が白い封筒をがさごそと開き、中に入っている小さな紙片を取り出しているところだった。
「借り物競走やな、あれは…」
 胸の前で腕を組んで、解説者よろしく私は重々しい口調で呟いてみせた。「判りきったこと言ってんじゃねぇよ」と、隣りで火村が笑う。
 紙に書いてある内容を読んだらしい森下は、キョロキョロと辺りを見回している。
「中身、なんやったんやろな」
 好奇心に駆られてそう呟いた時、森下の視線と私の視線が見事にばっちりと重なり合ってしまった。途端、にっこりと微笑んだ森下刑事が、私の方へと一直線に駆け寄ってくる。
「お前めがけて走ってきてるみたいだぜ」
「ふ〜ん…。やったら中身は、ハンサムとか美声年とかやったんやろな」
「バカか。たぶん寝惚けた奴とか、もぐらみたいな生活してる奴とか、売れない推理作家とかじゃねぇのか。それ以外に考えられるのは---、ああ、奇妙な名前を持った奴ってのもあったな」
 真剣な表情をして、火村が失礼千万な台詞を呟く。---こいつ、何て嫌な奴なんだ。そんなこと、いちいち考えんでもいいわい。だいたい売れないってのは、余計だっちゅうねん。
 火村の顔を横目に睨みつけながら心の中で悪態をついているところへ、ハァハァと息を切らした森下が、頬を紅潮させて私の前へと駆け寄ってきた。その姿が微笑ましいというか、何というか---。見るからに、ジャニーズボーイの面目躍如ってなとこだ。
「…有栖‥川さん…」
 洗い呼吸を宥めながら、言葉を綴る。その真剣な姿に気圧されたように、私は「はいっ」と反射的に生真面目な程の威勢の立派な返事を返してしまった。
「…すみません、僕と一緒に来て下さい」
 火村の勘、大当たり。借り物の中身は、どうやら私に関係することだったらしい。もっともその中身が、先刻火村が口にしたような内容だったら、めっちゃ嫌だが---。
「森下さん。中、何て書いてあったんです?」
 ハンサムとか美声年とかは冗談としても、中身に興味をそそられた私は、これが競争であることも忘れて、森下に書いてある内容を問いただした。
「そんなん、ええやないでいか。それより早く行かないと、ビリになっちゃいますよ」
 おや? 何だか走ってきた時より森下刑事の顔が赤いような気がするのは、果たして私の気のせいなんだろうか。それに何だか妙に慌てているのは、1等賞狙いというには余りにも---。
 じっと森下の顔を覗き込んでいた私の視線を外すように顔を背け、徐に森下は私の右手を引っ張った。
「まずいッ! 他の奴らが戻ってきてる。有栖川さん、走りますよ」
 そう言った時には、私を引きずるようにして森下は走り出していた。突然のことに呆気にとられた私は、助けを求めるように火村の方を振り返った。薄い唇の端に新しいキャメルをくわえた臨床犯罪学者は、ニヤニヤと質の悪い笑みを口許に張り付かせて、ひらひら手を振っていた。---あんの野郎…。
「火村ッ。お前、俺を売りやがったな。この性悪っ、悪魔っ、薄情者っ!」
 私の怒鳴り声は、虚しく青空に消えていった。
 高い青空に歓声が響く。陽の光は眩しく、夏の名残を思わせる程に暖かい。髪を乱す風は心地よく、額に浮かぶ汗をひんやりと冷やして通り過ぎる。
 麗らかな…、麗らかな秋の1日。
 まるで絵に描いたような休日の1日を、10月10日の体育の日を、これ以上それに相応しい過ごし方はないってぐらいに、ふだん年寄り並の運動量を誇っている私は、それを補って有り余る程に健康的に過ごしてしまった。


−3−

「だーっ、疲れたぁ」
 リビングに入るや否や、私は倒れ込むようにソファに長々と寝そべった。私に続いて入ってきた火村は、いつもの定位置を私に取られ、仕方なさそうに私の横の独りがけのソファに座る。テーブルの上にある灰皿を自分の方へと引き寄せ、ゆったりと味わうように紫煙を吐きだした。
「火村、コーヒー」
 それを横目に見つめ、声を出すのも億劫な私はぶっきりぼうに呟いた。その私の様子に双眸を眇め、火村が態とらしい程に大きく息をついた。
「客にコーヒーを淹れさせるのか?」
「友人を売った奴が、なに偉そうに言うとんのや」
 府警の森下刑事と火村にわけも判らないままに引っ張って行かれた大阪府警本部主催の運動会で、私はめちゃくちゃ活躍してしまったのだ。---本音を言えば、やりたくもなかったのに、だ。
 借り物競争に始まり、二人三脚---おっと、これは火村も出たか---、綱引き、玉入れ、百足競争、エトセトラエトセトラ---。もちろんパン食い競争もやったし、玉転がしも、府警の猛者に混じって騎馬戦までもやってしまった。挙げ句の果てには400mリレーにまで駆り出される始末で、極度の運動不足を誇る私の身体は、あちこちでミシミシと軋んだ音をたてている気さえする。
 まぁ最初は確かに嫌々だったが、最後の方では私自身が楽しんだことも否めない。だから火村や森下達だけを責めるわけにもいかないのだが、とにっかくこれ以上は1歩たりとも動きたくない。---いや、動けないと言った方が正しいか。
 それに敢えて言わせてもらうならば、私が運動不足の身体に鞭打ってフィールドやトラックを駆けずり回っている時に、私をこういう羽目に陥らせた火村助教授は、悠然と来賓席で煙草をくゆらせていた。
 火村が競技に出なかったとは言わない。だが大元の元凶であるくせに、火村が出た競技は二人三脚の1個だけだったのだ。なぁーにが「昨夜、論文で徹夜して」だ。嘘つくな。そんな見え透いた嘘にころっと騙される船曳警部や森下刑事達も大問題だが、そんな戯言を飄々と告げる火村の極悪さは宇宙1だ。
 ぐったりとソファに張り付いた私に不躾な視線を注ぎ、火村はゆっくりと立ち上がった。
「仕方ねぇ。今日のお前の活躍に免じて、特別に淹れてやるよ」
 ケッ、何が特別だ。その程度、私の労働に対する当然の報いじゃないか。---ああ、それにしても、身体が痛い。日頃の己を顧みず、やっぱりちょっと無理をしすぎたみたいだ。
 火村の電話に誘われてこの部屋を出た時には輝く青空を写し取っていたガラス窓のキャンパスに、今は藍色の闇が深くたれ込めている。節々が痛む身体を持て余し、私はソファの上でゆっくりと目を閉じた。
 疲れがズシリと身体全体を包み、私はとろとろと微睡み始めた。しっかり汗をかいたし、こんなことしている間に風呂にも入らねば、とは思うが、如何せんくっつき始めた目蓋は、もう自力では開く事が出来ない気がする。
 海底に潜るようにゆっくりと沈み込み始めた意識の中で、カタンと硬質な音が耳に響いた。ついでコーヒーの芳ばしい香りが、柔らかく鼻孔をくすぐってくる。
「アリス、寝るなよ」
 火村のバリトンの声が緩く鼓膜を振るわせる。それはまるで眠りを誘う子守歌のようで、疲れ切った身体には妙に心地良い。
「アリス…」
 低い呟きと共に、柔らかな温かさが頬や項に触れてくる。その感触が心地よくて、気持ちよくて、私の意識は徐々にその流れの中に引き込まれていく。が、不意に膚に触れた冷たい掌の感触に、私は心地よい微睡みの中から急速に引き戻された。
「ちょっ…、火村。何してんねん?」
 明確な意志を持って触れてくる掌の動きに、私は慌てて身体を捩った。その途端、身体の節々から脳天を貫くような痛みが走り抜ける。
「いっ、いっだぁ〜〜っ!」
 大声を上げた私に、火村が驚いたように動きを止めた。
「まだ何もしちゃいないぜ」
 何言ってんのや、こいつ。歳とるごとに恥を忘れているんじゃないのか。---ぬけぬけととんでもないことを言い放つ助教授を下から睨め付け、私は精一杯の険悪な声音で呟いてやった。
「今日の運動会のおかげで、身体中が痛いんや。これ以上何かされたら、俺、連休の間起き上がれなくなってしまうわ」
 が、私の言葉に怯むことなく、火村は唇を寄せてくる。痛む腕に力を込め、私は変態性欲を発揮する助教授の若白髪混じりの髪を力任せに引っ張って、その端正な顔を正面から見つめた。
「だから、休みの間はエッチなしやで」
 助教授の男前の容貌に向かって、これ以上はないってなぐらいにニッコリと微笑んでやる。思いっきり不機嫌そうに眉を寄せた火村の表情を満足げに見つめ、私は再び微睡みの中へと意識を彷徨わせた。
 それからの2日間、私の言葉通りに火村と私が清く正しく過ごしたかどうかは、神のみぞ知る---だ。


End/2000.11.06




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