鳴海璃生
「いっだーッ! アホんだら、へたくそ。もっと優しうせんかい」
煌々と明かりの灯った寝室に、私の雄叫びが響き渡った。脇腹の両脇に膝をつき、私の背中を跨いだ恰好の火村が、チッと小さく舌打ちする。
「るせぇな。十分優しくしてやってるだろうが」
「してへん。うわーっ、そこ止めぇて。痛い、痛い。くすぐったいーッ!」
「痛いのかくすぐったいのか、どっちかはっきりしやがれってんだ。馬鹿馬鹿しい、もう止めるぜ」
「あかん。そこは気持ちええんやから、もっとやって」
「全く、我が儘な奴だな」
大仰に溜め息をついた火村が、私の背から離した手を再度肩胛骨の辺りに当てる。そうしてゆっくりと体重を掛けるようにして押し始めた。
「あ〜、めっちゃ気持ちええ。君、マッサージの才能あるんと違うか」
余りの心地よさにうっとりと呟く。そんな私の様子を見下ろしながら、火村はケッと小さく吐き捨てた。だが凝った辺りを揉みほぐしている指先はそのままなのだから、助教授もなかなかご親切様なものだ。
夜の夜中、辺りはすっかり寝静まった時間に、何故マッサージなどをして貰っているかというと、これはひとえに今日の私の大活躍に対するご褒美なのだ。
火村に無理矢理引っ張られていった大阪府警本部主催の運動会で、私はそりぁもうご立派な大活躍を披露してみせたのだ。そして普段使わない筋肉を目一杯使った私は、当然の結果としてあちこち筋肉痛を起こしてしまった。そんな最悪の状態にある私に向かって、変態性欲元気一杯の助教授は不埒な振る舞いを仕掛けてきた。
だがしかし、極度の運動不足を誇る身体を襲う筋肉痛。そんな私が、いつも通りのあれやこれやをできるわけがない。腕を上げるのも億劫、足なんて触られようものなら闇をもつんざく悲鳴、雄叫びの連続だ。
喘ぎ声ならまだしも---男のそんなもの聞いて楽しいかどうかは、未だに私には不明なのだが---、叫び声や雄叫びにはさすがの変態性欲を誇る助教授も閉口してしまったらしい。いやそれだけならまだしも、下手すれば警察が来てしまう可能性だって無きにしも非ずなのだ。
運動不足の推理作家を襲う筋肉痛を甘く見た助教授は、渋々己の変態性欲と折り合いをつけてマッサージ師に早変わりしてくれたわけなのだが、いやぁこれがなかなか---。火村にこんな隠れた才能があったなんて、掘り出し物もいいとこだ。偶に指先が不埒な動きをするのが今ひとつ難点なのだが、そんなことに目を瞑ることぐらい、極楽浄土なこの気分を補って余りある程に些細なことだった。
「火村、君天才やん。これから偶に我が家にマッサージしに来ぃへん?」
俯せに寝ころび、枕を抱えてうっとりと呟く。少し冷たい指先が適度な強さで痛む箇所を押してくる。このまったりとした心地よさ。眠りかけていたところを叩き起こされ、お風呂に入ってしっかりと覚醒した意識が、再び微睡みの中に沈んでいく。
「冗談言ってんじゃねぇよ。誰がこんなくそ面白くもないただ働きするもんか。ほら、次はどこだ」
助教授の口の悪い言葉さえ、今は極上の子守歌にすぎない。
「う〜ん…、足の裏とふくらはぎ」
「へいへい」
おざなりな返事を返しながらゆっくりと移動していく火村の気配を、背中越しに感じる。
「ただ働きやなんて、そんなせこい事は言わへんて。ちゃーんと労働に対する報酬は払ってやるで」
寝言のようなぼんやりとした口調で呟くと、ふくらはぎを揉んでいた指の感触が不意に消えた。膝を折り、踵でトントンと軽く火村の背中を小突いて、マッサージ師に仕事の続きを要求する。
と、その途端、俯せになっていた身体を、ぐるりと勢いよくひっくり返された。その勢いの良さといったら、絶叫マシンも真っ青ってな程だ。突然のことに心地よく微睡み始めた意識が、くっきりと覚醒する。
「何すんねん!」
怒鳴りつけた大声に、火村がニヤリと不適な笑みを返した。マッサージ師の魔法の指は、パジャマのボタンを一つ二つと外していく。一体なんなんだ、この変わり身の早さはッ!
「お言葉に甘えて労働の報酬を払って貰おうか、と思ってな」
歌うような楽しげなリズムで綴られた言葉が、行いの極悪さを余計に際だたせる。エロ親父仕様の火村先生が天下無敵だってのは、貴重な経験から良く判ってはいる。いるが、この変わり身の早さは、私的には大問題だ。冗談じゃない、せっかくの連休をこのままむざむざとパァにしてなるものか。
「止めいって。俺が言うた報酬ってのは、食事を奢ったるとかそんなもんや。身体で支払うなんて、ひとっ言も言うてへんぞ」
「気にするなよ」
「するわ、アホ。嫌やって、止めんか。筋肉痛で連休を無駄にするのは、ぜーったい嫌やッ!」
パジャマのボタンを外す火村の手を止めようと腕に力を込めただけで、あちこちの筋肉痛が痛みを上げる。普段なら情け容赦なく繰り出せる抵抗の数々も、今日はこの忌々しい筋肉痛のおかげで3割引きってとこだ。おまけにこの変態をベッドから蹴り出そうにも、がっちりと腰の辺りに体重を掛けられているせいで、口惜しいことにそれもままならない。
---神様、哀れな子羊の俺を守って下さい。
困った時だけの神頼み。殊勝な気持ちで祈ってみても、信じてもいない神様相手じゃ悪魔な火村の方がどうやら効力は上らしい。
どたんばたんとベッドの上でプロレスごっこのような攻防を繰り広げていたのも束の間、あっと言う間に私のなけなしの抵抗は火村に押さえ込まれてしまった。頭の横に両手を押さえつけられ、極悪な男前が口許に艶やかな笑みを刻む。
「心配するなよ。全身運動で、筋肉痛はまんべんなく解してやるって」
「嘘つくなーッ!」
怒鳴り声は口付けに消えた。目に写るのは、煌々とともる部屋の明かり。「せめて明かりは消してくれ」と、口付けの合間の訴えも、交わす吐息の中に溶けていく。結局全ては火村の手の内だなんて、私の昼間の努力に対するご褒美は一体どうなってしまうんだ。
翌日、全身を襲う筋肉痛のせいでまともに動くことのできなかった私は、出来うる限りの悪態を吐き捲り、掃除洗濯食事の用意と思う存分助教授をこき使ってやった。2日後、京都へと帰る火村の背中に向かって、最後の仕上げとばかりに「出入り禁止」のひと言を投げつけた。
End/2000.11.11
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