夏の月 <1>

鳴海璃生 




−1−

 青い空に向かって、思いっきり背伸びをする。
 ここ数ヶ月窮屈な思いを我慢しながら身を包んでいた紺色のスーツを脱ぎ捨て、私はまるで背中から羽根が生えたかのような解放感に思いっきり深呼吸をした。同時に、夏の太陽に熱せられた空気が一気に肺の中へと流れ込んでくる。いつもだったら不快に感じるそれさえもが、今日は何故か心地良いと感じてしまう。
 直視できない程の陽光に輝くドラえもん色の空もうっとりする程きれいだし、このうだるような暑さも妙に気分を高揚させる。思わず叫び出したいようなこの解放感。身体の奥が堪えきれない興奮に、むずむずと疼く。
 ---ほんま、夏が終わらんで良かったわ。
 たった今、ド〜ンと肩に乗った荷物を下ろしてきた私にとって、世界はまさに輝いていた。---そう…。何を隠そうこの私、英都大学法学部4回生の有栖川有栖は、今から5分ほど前に就職課に内定の通知を報せてきたとこなのだ。
 「おめでとう、良かったわね」---就職課のマドンナの心地良いソプラノの声。例えそれが万人に向けられるものであっても、思わずうっとりしてしまう華のような笑顔。
 「内定を取り消されんよう気を抜くなよ」---余計なお世話じゃい、と思いながらも、胡麻塩頭の就職課長のダミ声さえ、今の私には鳥のさえずりに聞こえてしまう。
 「ありがとうございました」---殊勝にぺこりと頭を下げて、後ろ手にドアを閉めた途端、口をついて出たのは万歳三唱。これでもうここに足を運ばないで済むかと思うと、幸せ気分も倍増する。何てったって今の私は人生の勝利者、就職戦線の覇者なのだ。さらば、苦労と忍耐の日々。目の端にも入れたくないリクルートスーツだって、来年の春まではタンスの肥やしだ。
 望むと望まざるとに拘わらず、就職する気なら嫌でも巻き込まれてしまう就職戦線。将来は推理作家に…という大きな希望と野望に燃えてはいたが、取り敢えずの道として就職を選んだ私にとっても、それは例外ではなかった。4回生に進級した途端、遣ってきたのは厳しい現実に直面する就職戦線最前線。会社会社を駆け巡り、戦闘服ならぬリクルートスーツに身を包み、戦う相手はしかつめらしい面接官のおっさん達。
 就職協定は10月1日が解禁---なんて表向き言われてはいるけれど、そんなもの待っていたんじゃ卒業と同時の就職は到底無理。「夏までが勝負」と念仏を唱え、着慣れぬリクルートスーツに肩こりを感じながらも、耐えに耐えた数ヶ月。---が、それも昨日手に入れた内定通知のおかげで、遥か過去の日々となってしまった。
「ほんま、努力と精進と忍耐の日々やったわ」
 思わず自分の努力と忍耐に拍手する。あとは会社訪問の解禁日に、建て前程度に顔を出して、これまた建て前程度に試験を受け、茶飲み程度の世間話を面接でやってくれば、人生ノープロブレムのオールオブオーケー! もう勝ったも同然だ。人生なんて嘗めきって歩いてやる。
 卒業試験も卒論もまだまだ先のこと---おまけに私には、ドラえもんも真っ青のつよーい味方がいるのだ---だし、必要な単位だってあらかた取り捲った。そんな私に唯一残されたやるべきことは、たった一つ。残された学生最後の短い夏を、悔いが残らぬように謳歌することだけなのだ。
 ---というわけで、私は早速火村を捜すことにした。冷暖房設備の慎ましやかな北白川の部屋を抜け出し、たぶん図書館にでも籠もっているんじゃないかと当たりをつけ、私は正門とは反対方向へと身体を反転させた。
 じりじりと焼け付くような石畳に顔を顰め、木陰を選ぶようにして歩を進める。既に就職戦線を蹴り飛ばした頭の中は、これからの楽しいプランで満杯状態だった。
 ---まず火村の奢りで就職祝い…。ちゃうな、就職内定祝いをやって貰って、それから就職戦線お疲れさんの慰労会をやって貰って…。
 フヘヘヘヘと顔の筋肉を緩めた時、不意に肩を掴まれ、私は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「な、何や?」
 振り向いた視線の先には、程良くこんがりと陽に焼けた小麦色の四角い顔があった。
「有栖川、久し振りやな」
 愛想良く話し掛けてくる人の良さそうな笑顔に、首を傾げる。---顔は、判る。法学の講義で良く見掛ける顔だ。話したことも何度か…。でもって---。名前は一体、何だっただろう。う〜ん、う〜んと幾ら唸ってみても、まるで出てこない。
 ---まっ、いいか。
 相手の名前が判らなくても、話ができないわけじゃない。それにこういうことは、今日が初めてというわけでもなかった。この珍しい名前のおかげで、やたらめったら気軽に声を掛けてくる自称友人が多いのだ。特に試験期間中ともなるとその度合いも顕著に増えて、てんで見知らぬA子さんやB太郎君から「ノート貸して」と何度言われたことか---。
 その経験から得た貴重なノウハウでもって、適当に相手に話しを合わせるなどという特殊な芸当が身についてしまった。愛想良く話をした後で、隣りにいる火村に「あいつ誰?」と訊いたことも、両手の指の数じゃ足りないほどだ。その度、「判らないんなら、最初に名前を訊け」と怒られた。だがしかし、向こうは当然自分のことを知っている、と思って話し掛けてきているのだ。なのに「君、誰や?」なんて、繊細な神経の私に訊けるわけがない。
 今日も今日とてそれは一緒で、隣りに諫める人間がいない分、私の口も滑らかになる。
「でな、有栖川。---お前、俺の話聞いてる?」
 頭の中で記憶のページを手繰っていたため曖昧な返事しか返すことのできなかった私に、目の前の相手が微かに眉を寄せた。しまったと思いながら、私は慌てて首を縦に振った。
「もちろん聞いてる。…で、今夜なにやるって?」
 陽に焼けて茶色になった髪を掻き上げながら、目の前の男---幾ら考えても名前が出てこないので、茶太郎君とでも呼ぶことにしよう---は、訝しむような視線を僅かに緩めた。
「肝試しだよ」
 耳に飛び込んできた言葉に、思わず一歩引く。夏の定番ともいえるイベントだが、はっきり言って余り得意分野じゃない。断るタイミングを計りながら、私は適当に相槌をうった。
「肝試しいうても、それ程ちゃんとしたものやないんだ。昨日学生会館でだべってた時、内定取れた奴でパァーと騒ごうってことになったんやけど、単なる呑み会やったらいつもと同じで芸がないやろ。で、どうせやったら夏らしいことをしようってんで、肝試しでもやろかって…」
「ふぅ〜ん…。内定取れた奴、結構いるんや」
「そりゃ、夏までが勝負やからな。他はよぉ知らんけど、法学は結構いてるみたいやで。今日ここにいるゆうことは、もちろん有栖川も決まったんやろ?」
「まぁ…。そっちもOKなんやろ?」
「ぎりぎりやけどな」
 小麦色の表情を崩して、豪快に笑う。それを見つめながら、私はポリポリと頭を掻いた。---何となくイヤな予感。こういう押しの強いタイプには、昔から弱かったりする。
「えっと、それで今夜なんやけど…」
「今夜、もちろん大丈夫やろ? でな---」
 遠慮がちに呟いた言葉は、茶太郎君の元気な声にすっかりデリートされてしまう。
 ---こういうタイプって、人の話を聞かない奴が多いんだよな。
 流されていく自分に、小さく溜め息をつく。そんな私に気付く様子もなく、茶太郎君はすっかり自分のペースで言葉を紡ぐ。どうやら彼の中では、既に私の参加は決定事項になってしまっているらしい。
「社学の火村。あいつも連れてきてくれへん?」
 茶太郎君の口から出てきた友人の名に、私の溜め息がでかくなる。気分はまさしく、ブルータスお前もか…。これが初めてってわけじゃないので今更どうってこともないが、それにしても---。
「女の子達も来んの?」
「声は掛けてるんやけど、今いち人数が足りへんのや。火村が来る言うたら、奴目当てで来る子増えるからさ」
 ヘヘッと罰が悪そうに笑う。何であんな奴がもてるのか良く判らないが、確かに火村がいるといないじゃ女の子の参加率は違うことだろう。
「でも火村が来たら、女の子達みんな火村の方に行くんやない?」
 口にするのも嫌だが、これも毎度のことだ。コンパに火村が参加---滅多に参加しない火村の出席率は、15回に1回ぐらいだったが---したら、女の子の殆どは彼の周りに集まってしまう。『帯に短し襷に長し』というか、世の男共にとって、火村みたいなタイプは結構やっかいな存在だったりする。しかも本人にまるでその気がないから、口惜しさも倍増だ。無愛想なのにもてるとか、口説かないのにもてるなんてのは、はっきりきっぱり男の敵だ。
 ---てなわけで、以前何度かコンパに火村を誘って、友人に文句を言われたという苦い経験のある私は、予め釘を刺すようにそう口にした。それでもまだ火村を呼びたいっていうんなら、それは茶太郎君の責任範囲。例え女の子をみんな火村に持っていかれても、私のところに文句の矛先が回ってくることはないだろう。
「あっ、ええねん。今回はそれぞれ一人ずつパートナー組むことになってるから、火村いても何も問題あらへん」
 なるほど…。一瞬の内に全てを理解してしまった優秀な頭が憎い。要するに今現在、参加する男に対してパートナーを組む女の子の数が足りてないってことだ。肝試しに男同士で組むってのもゾッとしないから、火村を餌に女の子達を釣ろうって魂胆なわけか。何か火村が聞いたら絶対に怒りそうな話だが、確かに女の子と二人で暗い夜道を肝試しってのは、夏のお遊びとしてはちょっとだけ魅力的かもしれない。
 ---しょーがない。のってやるか。
 鬱積された数ヶ月のストレスから解放されたことも手伝って、私は茶太郎君の申し出にのることにした。ただし---。
「一応火村には声掛けるけどな、あいつが来るかどうかの保証はできへんで」
「かまへん。取り敢えず火村が来るってネタが欲しいだけやから」
 さいでっか…。こいつも随分ストレスが溜まってんだなぁ…と、私は茶太郎君に同病相憐れむ、それでも少しだけ余裕に満ちた同情の視線を注いだ。


to be continued




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