夏の月 <2>

鳴海璃生 




−2−

 音をたてないように細心の注意を払い、私は重い木の扉をゆっくりと引き開けた。僅かに開いた隙間から、冷えた空気と乾いたインクの匂いが漏れてきた。
 頭だけを中に突っ込み、キョロキョロと辺りの様子を一瞥する。長方形の四角い部屋は整然と並んだ本棚で埋め尽くされ、天井に近い位置にある窓から差し込む光に、埃の粒子がキラキラと輝いている。そっと耳を澄ませてみても、聞こえてくるのは微かな空調の音だけ。外の喧噪や夏の暑さなど、この部屋のどこからも感じ取ることはできない。と同時に、人のいる気配も、まるで感じられなかった。
 それに頓着することなく、私は中へと滑り込んだ。音をたてないようにそっと後ろ手にドアを閉め、息を殺し、足音を忍ばせて部屋の奥へと向かう。
 禁帯出の本が並ぶこの部屋の右奥には、古今東西、一体何語で書いてあるんだ---ってな本まで、とにかくありとあらゆる種類の犯罪社会学に関する文献が揃えられていた。その中でも一番奥の奥。部屋の角っこの窓の下にポツンと置かれた古いパイプ椅子は、殆ど火村様御用達お椅子と言える場所だった。
 今までの経験からいっても、大学中を捜し回っても火村が見つからなかった場合、ここか或いは桜並木の裏の芝生を覗けば、だいたい90パーセントの確率でその姿を見つけ出すことができた。---だから、今日も多分ここにいるだろうと、私は確信に近い予測でもって当たりをつけていた。
 抜き足差し足忍び足…。Tシャツの裾が空調の風に揺れる動きにさえ注意を払って、ゆっくりと進む。私が今日ここに来ることを火村は知らないから、脅かしてやれ---なんて、心密かに画策しているのだ。
 ウキウキと逸る心を宥め、一歩一歩身長に足を運ぶ。が、その瞬間にも、私の声に驚く火村の顔が目の前を過ぎって、思わず顔の筋肉が緩む。---と、その時。
「何やってんだ、アリス?」
 頭上から、突然バリトンの声が降ってきた。喉元まで飛び上がった心臓を呼吸と一緒に飲み込み、反対側の書架にペタリと背を張り付ける。見上げたその先に、脚立の上に座り込んだ火村の姿があった。
「---何でこんな所にいてるんや、君」
「何で…って」
 呆れたように火村が前髪を掻き上げる。
「言葉が矛盾してるぜ、アリス。じゃ、何でお前はここに来たんだよ?」
「ちゃうて。俺が言うてるのは、君の定位置はいっちゃん奥やんかってこと」
 脅かそうとして逆に驚かされる羽目に陥った私は、ふてたように訊いた。頭上から私へと視線を落としていた火村は、納得したように頷いて、目の前の棚に視線を戻した。
「仕様がねぇだろ。心理学のレポートをやるのに必要なやつが、こっちの棚にあるんだから」
 背表紙を一瞥し、その内の一冊を取り出す。パラパラとページを捲り、それを私の方に投げて寄越した。慌てて伸ばした腕の中に、ずしりと重い黒革の本が落ちてくる。
「文句を言うんなら俺じゃなく、この書庫の配置を決めた奴に言ってくれ」
 小憎らしいことを言いながら、火村は書棚から抜き取った本を次から次に私の方へと投げて寄越す。何を言われたわけでもないのに、私は律儀にそれを受け取っていった。
 次から次へと落ちてくる本も、最初の1、2冊は余裕を持って受け取ることができた。だが本が1冊2冊と増えていくに従って、腕に掛かる重量は次第次第に耐え難いものになってきた。
「火村っ、ええ加減にせぇ! 重いやないか」
「これで最後だ」
 抗議の声を右から左に聞き流し、火村は6冊目の本を投げて寄越した。両足を踏ん張り、重さに取り落としそうになるのをぐっと堪える。そして落とさないように気をつけながら、それを腕の中に抱え込んだ。痺れるような腕の重みに眉を顰めながら、私は脚立を下りてくる男を睨みつける。
「ご苦労さん」
 ニヤリと笑った火村は、上半分の本を手に定位置である奥の椅子へと向かった。「付いてこい」と言われたわけでもないが、火村が使う本を手に持っている以上、自然と私もそのあとを付いていくことになり、何となく釈然としない気分だ。だいたい、付いてくるのが当然というようなこの態度が、妙に癪に障るじゃないか。
 ---ちくしょう。
 ぶつぶつと口中で文句を呟きながら、それでも私は火村のあとに付いて書庫の奥へと向かった。
「アリス、本」
 伸ばされた手に、態と重さが掛かるように本を置く。だが、そんなささやかな私の抵抗など何処吹く風で、火村はどかりと椅子に腰を下ろし、早速膝に乗せた本を捲り始めた。
「君、俺に何か言うことあるんやないか?」
「俺がアリスにか?」
 視線を上げ、態とらしく首を傾げてみせる。いちいちやることが憎ったらしいったら、ありゃしない。
「そうやっ!」
 反射的に上げた声に、火村が柔らかな笑みを口許に刻んだ。ドキリと柄にもなく鼓動が跳ね上がり、私は慌てて息を飲んだ。
「就職決まったんだな。おめでとう」
「は…?」
 言われた言葉の意味が、一瞬掴めなかった。だって私は、まだ何にも火村に言ってないんだ。---アホ面を晒した私を見つめ、火村は喉の奥で笑った。
「何だよ、その面。それを報告に来たんじゃねぇのか?」
「いや、そりゃそうやけど…」
 もごもごと口の中で呟く私を、火村が面白そうに見つめる。真っ直ぐに注がれる視線が何となく居心地悪くて、私は微かに身を捩った。
「でも、何で判るんや? 俺、まだ何も言っとらんやろ」
「この時期にその恰好でいるってことは、早々に就職戦線を離脱したってことだろーが。だったらその理由は、二つしかないじゃねぇか。内定を取ったか、諦めたか、だ」
 なるほど…。言われてみれば、確かにそうだ。まだ内定の出ていない学生は、リクルートスーツでこのくそ暑い中を走り回っていることだろう。
「相変わらずのご慧眼、敬服するわ」
「そりゃどうも」
 おどけたように、火村は肩を竦めてみせた。
「それで、就職内定祝いでもやって貰おうって魂胆か?」
「何やねん、それ?」
 図星を突かれた罰の悪さに、口調がぶっきらぼうになる。そんな私の様子に、火村は苦笑した。
「アリスの考えることなんざ、お見通しなんだよ。取り敢えず今日のところは内定祝い。正式な就職祝いは解禁日以降---なんて思ってるんだろ。普段ボケボケのくせして、そういうとこだけはちゃっかりしてるんだよな、アリスは…」
 ボケボケは余計やっちゅうねん。言葉の半分にムッとしながらも、火村の確信に満ちた口調に、私は天井を仰いだ。すっかり完璧に見切られていて、何だか反論するのも馬鹿馬鹿しい気がする。
「そこまで判ってるんやったら、当然今夜は空けてくれるんやろな」
「いいぜ」
 ニヤリと笑った男前の顔の前で、私は人差し指を立てた。
「その言葉、しっかり聞いたからな。今さら絶対取り消させへんからな」
 私の様子に、火村が僅かに眉を寄せた。今までの経験から、こういう時の私が碌でもないことばかり口にすると、警戒しているのかもしれない。が、時既に遅し、だ。今夜は私に付き合うと言った言葉を、絶対に撤回させるもんか。
「やったら、ええか。今夜、肝試しをやるからな。君も絶対参加するんやで」
 言い切った言葉に、火村は顰めた表情を緩め、溜め息をついた。やっぱり碌でもないことを言い出した、と思っている様子が、嫌味なぐらいにありありと表情に表れていた。が、すぐに諦めたように息をつく。こういう場合の私が、妙に頑固で絶対に諦めないということも、火村はこれまでの経験から良く知っている。
「何だよ、その唐突な話は?」
「ここに来る前に茶太郎君に会ったんや」
「茶太郎? 誰だよ、それ…」
 えっとぉ…と口ごもる私に、火村が再度溜め息をつく。煩わしそうに前髪を掻き上げ、胸のポケットに手をやって、思い出したようにそれを下ろした。聞こえるか聞こえないか程の大きさで、舌打ちする。きっと煙草を吸おうとして、ここがどこだかを思い出したのだろう。---ざまぁみろ。


to be continued




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