鳴海璃生
少し早めの夕食を終えた私達は、腹ごなしを兼ねて散歩に出た。誘いを掛ける私に、火村は「面倒くさい」だの「暑い」だのと散々文句を唱える。だが、そんなことで怯むものか。「煩い」と一喝して、私は渋る助教授を無理矢理部屋から連れだした。
階段を下りる足音に、婆ちゃんの処で夕食を食べていたらしいウリが居間から顔を覗かせ、ニャーンとお見送りの挨拶をしてくれる。もっとも私達よりも途中で残してきた夕食の方が大事だったらしく、すぐに襖の向こうに姿を消してしまった。
それに苦笑を零し、カラカラと軽い音をたてて引き戸を開ける。風呂場に籠もった熱気のような、ぼんやりと熱い空気が身体を一気に取り巻いた。
「うんざりするな」
ぼそりと呟かれたバリトンを無視して、私は前庭の向こうにある格子組みの木戸へと歩を踏み出した。膚に触れる空気は確かにぬる暖かいが、真っ昼間のように耐え難い程ではない。
それに、だ。例え部屋の中にいたからといって、快適な涼感を得られるわけじゃない。大きく開いた窓から申し訳程度に吹きこんでくる風が運んでくるのは、太陽の熱に暖められた生暖かい空気だ。その部屋の主がこの程度の暖かさに文句を唱えるだなんて、ちょっと図々しすぎるぞ。
穏やかな無関心でもって火村の言葉を無視した私は、夕暮れの街へと一歩を踏み出した。
ぼつりぼつりと他愛ない話を交わしながら、緩やかな坂になった30号線を登っていく。人の姿のない歩道を歩く私達の横を、時折思い出したかのように車が通り過ぎていった。そのたび、掻き混ぜられたような熱気がふわりと頬を掠めていく。
目の前には夏の青空が広がっている。だが足を止め振り向いた先では、オレンジ色を濃くした太陽がゆっくりと西の地平に姿を隠し始めていた。夕焼けに染まった雲の向こうからは、藍色の闇が少しずつ、だが確かな足取りで歩み寄ってきていた。ふわりと鼻腔を擽る空気には、どこか懐かしい夕餉の香りが含まれていた。
夜へと向かうこの時間が、私は好きだ。懐かしくて、どこか物寂しいような気分に身を浸す。
夜の闇の中で独り佇む時よりも今のこの時間の方に、私は昔からより強い孤独を感じていた。それはみんなで遊んでいた公園にたった一人取り残されたような、置いてきぼりにされた子供のような、どこか幼い孤独なのだ。
「おい、アリス。何やってんだ?」
西の空を見つめたままなかなか動き出さない私に焦れたように、火村が呼ぶ。くるりと振り向いた私は、小走りに火村の方へと走り寄って行った。傍らに並び立つと、慣れた香りがツンと匂う。それにホッと息をつくと、ポロリと欠け落ちた何かが穏やかに満たされていくような気がした。
「何ヘラヘラしてんだよ。散歩に行くって言い出したのは、お前だろうが。ボーッと突っ立ってんじゃねぇぞ」
普段はカチンとくる憎まれ口も、今は満ち潮のようにゆったりと私を満たしてくれる。募る愛しさに満たされていく。
---あぁ…まずいッ! 何や妙に流されとるわ。
いかんいかんと頭を左右に振り、私は気分を変えるために大きく息を吸い込んだ。未だに熱気を孕んだ空気が、胸の中一杯に広がっていった。
山中越えに差し掛かる手前で、右へと道を折れる。一応バス通りとはいえ、30号線自体もそう道幅の広い通りではない。だがそこから一つ道を外れた辺りには、車一台がやっとというような極端に狭い通りが多く点在していた。
それは火村の下宿近辺もしかりで、私などはあんな狭い道をベンツなんかで良く行き来できるものだと感心してしまうことしきりだ。古き良き京都の街並みが残っているといえば聞こえは良いが、運転音痴を自覚している身には迷惑と紙一重な部分も多い。
とはいえ、ブラブラとあてどなく歩き続ける気楽な散歩の場合には、情緒豊かな小路の方が車の行き交う大通りよりずっと良いに決まっている。30号線を折れ北白川天神へと続く狭い通りは、そんな我が儘な私の要求を大いに満たしてくれる通りだった。
両側に建ち並ぶ古い日本家屋は、まるで映画のセットのような佇まいを残している。薄暮にポツリポツリと灯される灯りも、どこか時代物めいた柔らかさだ。
サラサラと心地よい水の音は、飽きることなく耳朶を擽る。たぶん如意ヶ岳を源流とする白川の流れる音だと思うのだが、川その物の所在ははっきりしない。ただ涼やかな音だけが、見えない川の在処を伝えてくる。
真昼の陽光の下で歩けば、もしかしたらこの風景も異なった物に見えるのかもしれない。だが濃紫の闇が舞い降りてくる黄昏時には、辺り一帯がまるで時間のトンネルを潜り抜け出たかのような厳かで穏やかな空気に包まれていた。
それは初めてこの場所に足を踏み入れた10年前と、何一つ違わぬ風景だった。私達を飲み込んで流れ去っていった10年という月日も、この場所には僅かばかりの陰も落とさなかったかのようだ。それは時に懐かしくて、どこかもの悲しい。
「ご希望の場所に着いたぜ」
不意に鼓膜を震わせた声に、トクンと鼓動が跳ねる。惹かれるように声のした方向に顔を向けると、煙草をくわえた口許がニヤリと器用に笑みの形を作った。
風景に溶け込むことのないその姿に、ホッと小さく息を吐く。何にも交わることのないその様子は、まるで標のようだと思う。それが彼にとって幸福なのか不幸なのかは未だに判らないけれど、私にとっては間違いなく幸運なのだと思う。もちろん出会って10年以上経った今でも、伝えたことのない想いだけれど---。
「…で、どうすんだ。本当に行くのか?」
気障な仕種で、くいっと火村が顎をしゃくる。その先にあるのは、北白川天神へと続く上り坂。薄暮に紛れ込むそれを、まるで境界線のような鳥居が抱き込んでいる。10年前のあの日のように真っ暗闇というわけではないが、それでもこくりと息を飲むほどの、どこか近寄りがたい雰囲気だ。
「当然や。行くに決まってるやろ」
少しだけ萎えた気分を奮い立たせるように、語気を強める。「やれやれ」と僅かに呆れたような溜め息は、完璧な無関心でもって右から左へと聞き流した。
10年前のあの時は、不覚にもドジってしまった。だが、今日は違う。隣にいるのは、この10年で図々しさとふてぶてしさに磨きをかけた助教授殿だ。例え途中で宵闇に包まれたとしても、例え暗闇に白い浮遊物体が舞ったとしても、「きゃーぁッ!」なんて可愛らしい悲鳴を上げて取り縋ってくることはない。
それに第一、火村はこの道を知っている。しかも、方向音痴でもない。---となれば、勝ったも同然。
「リベンジや!」
若かりし頃の汚名挽回とばかりに、私は鳥居に向かって一歩を踏み出した。
「あー、そういや…」
気勢を削ぐような妙にのんびりとした声が、背後から聞こえてきた。
「なんや?」
鳥居へと向かう足は止めなかったが、律儀で礼儀正しい私は一応の返事を返してやった。
「俺にもあったな、リベンジしなくちゃいけねぇやつ」
リベンジ…?
何だか火村には似つかわしくない言葉を聴いて、私は思わず足を止めた。
「リベンジって、君が?」
ゆったりとした足取りで歩み寄ってきた火村は、鷹揚ともとれる仕種で頭を縦に振った。それを見つめ、はて…と首を傾げる。崖から落っこちて肝試しの行程を制覇できなかったばかりか、女の子の前で恥まで晒してしまった私はともかく、火村にリベンジしなければならないような事が、果たしてあるんだろうか?
う〜ん…と頭を捻り、ポンと両手を打ち鳴らした。
私が崖から転がり落ちた時、火村は私を助けに来てくれたのだ。私が落っこちてから火村が現れるまでの時間を考え合わせてみずとも、火村が肝試しを途中で放り出して私を助けに来てくれたことは容易に推測できる。ということは取りも直さず、火村も私と同じく、この北白川天神へと向かう道を制覇していないということだ。
---何やこいつ、結構かわいいとこあるやんか。
ケケッと心の中で笑う。いつもしかつめらしい顔をしているくせに、10年前の肝試しのリベンジだなんて---。私はしたり顔で「うんうん」と頷きながら、同士の背中をバンバンと力任せに叩いた。
「判った。君も、なかなかかわええとこがあるやんか」
「おい---」
煩そうに顔を顰めた火村が、私の腕を叩き落とす。そのふてたような仕種に、私は口許を緩めた。
大丈夫だ。みなまで言わずとも、君の気持ちは良ぉ〜く判っている。確かにクール、ポーカーフェイスで通っている火村助教授に、こんなガキっぽい処があるとばれたら不味いだろう。君の名誉のためにも、私は黙って全てを理解してやるとも。
---あぁ…、俺って何て友人思いなんやろ。こんな有り難いご友人様を持って、火村は幸せもんや。
しみじみと己の所行に感動し、「ほんじゃま、行こうか」と、火村の方を振り向く。憮然とした表情の犯罪学者は、うんざりしたような仕種で、短くなった煙草を携帯の簡易灰皿に捨てた。パチンと態とらしく音をたてて蓋を閉め、皺のよったシャツのポケットにそれを滑り込ませる。
「妙な誤解をしてるみたいだがな…」
「妙な誤解って、何や?」
ニコニコと余裕の態で相槌をうつ。それを苦々しげに見つめ、火村はフンと鼻を鳴らした。
「俺が言ってるリベンジは、お前が考えてるようなもんじゃないぜ」
「ふぅ〜ん…」
どうせ強がりに決まっていると、寛容な心で聞き流す。全てはバレバレなのに、しつこいというか、何て往生際の悪い奴なんだ。てんで男らしくないぞ。
「俺が言ってるリベンジってのは、どっかの間抜け野郎のせいで反故になっちまった約束のことだ」
「へっ!?」
口許に質の良くない嗤いを刻んだ火村が、ズイッと身体を寄せてくる。背筋を伝う嫌な予感に、私は一歩後退った。それを引き留めるかのように、火村が私の肩に肘を置いた。
少しだけ屈み込むように腰を折り、胡乱な眼差しで見上げてくる。どこか愉しげな色合いを含んだ眸の輝きに、嫌な予感は天井知らずに高まっていった。
「…そうなんや。それやったら、君のリベンジも上手く果たせるとええな」
その話はここまでとばかりに、肩に置かれた腕を振り払い、踵を返そうとした私の襟首を、火村がグイと掴んだ。思いも寄らぬ力で後ろへと引っ張られたシャツの襟が首を絞め、私は「グェッ」と情けない声を上げた。
「なるほど…。それじゃ、とっとと散歩を済ませて帰ろうぜ」
「何で…?」
「何で、じゃねぇだろ。お前がドジふんで怪我したせいで、図書館での約束が果たされなかったんだからな」
図書館での約束---?
何じゃそりゃ、と首を傾げる。火村の様子から、『反故にされた約束』というのが私に関係しているとは薄々感じていた。だが図書館の約束ってのは、一体何なんだ。
う〜ん…と唸りながら記憶の引き出しをひっくり返して---。
「あーっ!!」
突然、私は大声を上げた。しまった…と思った時は既に後の祭りで、ニヤニヤと意を得たような笑みが視界に写る。思い出すんじゃなかった、と後悔してみても、口から出た言葉は取り返せない。
---くっそぉー。この優秀な頭脳が憎い。
いや、今はそんな事じゃなくて---。
恐る恐るというように火村の様子を伺いながら、ごくりと息を飲む。やたらと機嫌の良い助教授は、何だか鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気だ。
「めでたくアリスも思い出したことだし、くっだらねぇ散歩はとっとと終わらせて帰ろうぜ」
軽い足取りで鳥居へと向かう背中を、私はトボトボと追った。
不味い。非常に不味い事態だ。何とか上手い手で逃れないと、貞操が危ない。こんなくそ暑い時期に、冷房もないような部屋で、変態性欲の餌食になってたまるもんか。
あれやこれやと脳細胞をフル回転させながら歩いていた私は、唐突に足を止めた火村の背中にぶつかりそうになった。慌てて歩みを止め、視線を上げる。
「10年間待たされた約束なんだからな。その分の利子は高いぜ」
ニヤリと笑った顔の向こうで、艶めかしい宵闇が一気に色を濃くしたような気がした。End/2001.09.04
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