夏の月 <6>

鳴海璃生 




−6−

 闇の奥から微かに響いてきた音に、私はぴくりと身を固くし、双眸を開いた。シンとした暗闇の中で、細心の注意を払い耳を澄ます。最初空耳かとも思えた微かな音は徐々に大きくなり、一直線に私の方へと近づいてきているようだった。
 何の迷いもないように、真っ直ぐに私へと向かってくる音。開いた目蓋を、私はもう一度ゆっくりと閉じた。今度目を開けた時視界に飛び込んでくるのは、きっと…。---その瞬間を、その姿を待ちわびるように、私は目を閉じる。
「アリス」
 姿よりも先に、低い声が耳に飛び込んできた。何があろうと、決して聞き間違えることのないバリトンの声---。闇に良く似合う、私の大好きな…。
 その声に引かれるように私はゆっくりと双眸を開け、声のした方向を振り返った。僅かに息をあげた火村の姿が目に飛び込んできて、私は溶けるようにゆっくりと口許に笑みを刻んだ。
「何や、その顔。男前が台無しやないか」
 火村の頬に数本の細いかすり傷を見つけ、私はそう呟いた。ホッと安堵したように息を吐いた火村は、うっすらと汗の浮かんだ顔をジャケットの袖で拭いながら、ゆっくりとした足取りで私の方へと歩み寄ってきた。
「何言ってやがる。一体誰のせいだと思ってるんだよ。相っ変わらず期待を外さない奴だよな、お前も…」
 口をついて出てくる皮肉な台詞に、目の前にいるのが間違いなく火村だと妙に安心する。嬉しさに深くなる笑みを必死に隠し、私も火村に倣って皮肉っぽく片頬を歪めてみせた。
「そういう君も、期待通りの奴やで」
 例え私の声は聞こえなくても、絶対来てくれると思っていた。---続く言葉は、そっと心の中だけで呟く。ゆっくりと私の前に跪いた火村は、くしゃくしゃになった私の髪を整えるようにそっと梳く。
「怪我は?」
「木にぶつかって止まった時に、背中打った。強か打ったから、明日は痣になるかもしれへん。あとは---」
 私は、伸ばした右足を指差した。
「折ったのか?」
 指し示した右足へと視線を走らせ、火村は顔を顰めた。
「足首を挫いたみたいなんやけど、歩くのはちょっと辛いわ」
 ジーンズの裾を捲り上げ、火村は怪我をした辺りに触れた。途端ピリッとした痛みが走り、私は眉を顰めた。冷たい指先は、腫れて熱を持った足首には気持ちいいんだが、それよりも痛いんだから余り触らないでほしい。
 ---そういえばこいつ、医学とかも囓ってたんやっけ。
 まるで医者のように私の足首を診る火村の姿を視界に止め、呑気にそんなことを思う。火村がそばにいるという唯それだけで、妙に安心しきっている自分を嫌になるくらい自覚して、ちょっとだけ罰が悪い。
「折れちゃいないみたいだが、歩くのは無理そうだな」
 シンとした静けさの中に突然火村の声が響き、私は慌てたように意識を現実へと引き戻した。火村がジーンズの裾を元に戻し、どかりと私の隣りに腰を下ろした。
「幾ら月明かりがあるとはいっても、お前を抱えて夜道を下に下りる自信はねぇからな。朝まで待つぜ」
 ぶっきらぼうに呟いた言葉の端々に、どこか安心したような火村の様子が垣間見えて、私は小さく笑った。肩越しに伝わる温もりが妙にくすぐったくて、私はそれを誤魔化すように言葉を綴る。
「こんな経験は滅多にできへんから、ここで野宿でも俺は一向に構へん。---にしても、今が夏でほんまに良かったよな。もし冬やったら、二人して凍死やで」
 藍色の空に輝く月を見つめながら呟いた私の頭を、火村が軽くコツンと小突いた。
「バカ、何言ってんだよ。冬に、こんなとこで肝試しなんてやるような物好きな奴がいるかよ」
「あっ、そっか…。そりゃそうやな」
 確かに肝試しなんて夏にやるからこそ面白いのであって、冬にやってもきっとつまらないに違いない。
「でも、何でなんやろな。だってお化けとか幽霊なんて、一年中いてるもんやろ。蝉とかカブトムシとかみたいに季節限定で出てくるもんでもないのに、何で夏だけ妙に存在意義が高くなるんやろな」
「知るか、そんなもん」
 月を見上げながら何気なく口にした言葉に、律儀に応えが返ってくる。聞き流してくれてもいいのに…とか思っていたら、耳にごそごそと掠れたような音が響いてきた。ついで、カチリと硬質な音が耳朶を掠めていく。動かした視界の先に、柔らかなオレンジ色の灯りが灯った。
「そんなこの世にいねぇようなもんの存在意義の話より、俺はお前が何でこんなとこを器用に落っこちたかって理由の方が訊きてぇな。幾ら天才的方向音痴の有栖川有栖君とはいえ、道と崖の区別がつかないような暗さじゃなかったはずだぜ。それとも単に俺が知らなかっただけで、お前、鳥目だったのかよ」
「ちゃうわっ!」
 最後の部分を思いっきり否定して、溜め息をつく。なるだけ話題にしたくなかった話が、ついに出てきてしまった。もっとも火村のことだから、私が落っこちた理由を絶対に有耶無耶にしたまま放っておくはずはないと思ってはいた。だがここまで事細かに理屈をつけて訊いてくるあたりが、嫌味といえばとてつもなく嫌味だ。
 ---仕様がない。心配してくれたことで、嫌味はチャラにしてやるか…。
 応えを待つ沈黙にほうっと息を吐き、私は覚悟を決めた。
「初め淵上さんが、下に何か白いものが見えるって言うたんや。それで一体なんやと思て覗き込んでいたら、タイミング良くふわりってそれが揺れて---。それに驚いた淵上さんが、俺に飛びついてきたんやけど…」
 その反動に耐えきれずに落っこちました---とは言えず、言葉の先を濁す。例えそれが間違えようのない事実だとしても、女の子一人を支えきれなかった---例え予期していなかった不意の出来事だとしても、だ---なんて、余りに恰好悪いじゃないか。
「なるほど…。原因は、アリスが女の前で恰好つけたせいと鼻の下を伸ばしたせいか。情けない…」
「ちゃうわっ! 何でそうなんねん」
 一体どこをどうすれば、私の説明からそんな答が導き出されるんだ。---反射的に声を上げた私に、火村が白々とした視線を注ぐ。それが言葉を口にするよりもずっと雄弁に、「否定できるもんなら、やってみろ」と言っているようで、とてつもなく罰が悪い。張り上げた声の勢いも泡のように消え、私はぶつぶつと口の中で呟いた。
「女の子の前やから、そりゃちょっとは恰好つけたけど、鼻の下なんて、ぜんぜん伸ばしてへんわ。---だいたい、そんなんする前に転がり落ちたもん」
 ぷっと吹き出すような声が聞こえた。ちくしょう。笑うなら笑え。どうせ俺はお間抜けさんやもん。---開き直ったようにそう思った時、不意に伸びてきた手が私の頭を肩口に引き寄せた。
「あんなとこから転がり落ちた割りには、大怪我しなくて良かったよな。これに懲りたら、俺の前で女にうつつ抜かすんじゃねぇぞ」
「何言うとんのや。アホかい」
 火村の言葉に照れて口にしたのは、やっぱり強がりだった。いつもは皮肉屋で苛めっ子のくせして、時たま急に優しくなるから、どうしても素直になることができない。めっちゃ情けないなぁ…と思う反面、仕方ないかとも思う。きっと何年経っても、私達のこういうスタンスは変わらないだろう。
 互いに言葉も交わさず、ゆっくりと静かに時間が過ぎていく。耳を掠めるのは、煙草をくゆらす火村の息遣いと風が揺らす木々の葉擦れの音。そして、ぼんやりと見上げた視線の先には、藍色の空に輝く丸い月。
 ---銀色に輝くこの月を、きっとずっと忘れない。
 唐突にそう思った。---鼻腔を擽る懐かしいようなキャメルの香り。肩に触れる柔らかな温もり。子守歌のような穏やかな心臓の音。---それらに導かれるように、私はゆっくりと目を閉じた。低いバリトンの声が、そっと何か呟いたような気がした。しかしそれを捕らえる前に、根性無しの私の意識は夢の国へと旅立っていく。
 いつか…。---遥か遠い未来のいつか、捕らえ損なったその言葉を捕まえることができたらいい。その時もやっぱりこうして君の温もりを傍らに感じながら、月を見上げることができたらいい。---いつか。きっといつか…。


−7−

「グェッ!」
 蛙を踏みつぶしたような声が、狭い部屋にこだました。
「おっと、悪い」
 全然そうとは思っていないような声音で、取り敢えずの謝罪が頭上から降ってきた。まるで絨毯か何かのように思いっきり踏みつけられた背中を撫でながら、私は極悪助教授をじろりと睨みつけた。
「何が悪い、や。荷物みたいに人のこと踏んづけやがったくせに…。前方不注意やで、火村」
「手に持った本のせいで前が見えなかったんだから、仕様がねぇだろ。だいたい文句を言う前に、人様の部屋でごろごろ伸びきっている奴の方に問題あるんだろうが。部屋の片付けをしている俺を見て、少しぐらいは手伝おうって気にならねぇのかよ、お前は---」
「そんなん、ぜ〜んぜんならへんな。自分の事は自分でしなさいって、幼稚園の時に習わんかったんかい、君」
 ごろんと仰向けになった私の顔の上に、バサバサと本が降ってきた。
「何すんねん。君、片付けてるんやなかったんかいっ!」
 顔や胸の上に乗った本を払いのけ、私はガバリとバネ仕掛けの人形のような動きで飛び起きた。
「失礼。手が滑っちまった」
 しらっとした台詞が返ってくる。畳の上に山と積まれていた本を片付け、少しだけ空いたスペースに、火村はどかりと座り込んだ。テーブルに手を伸ばし、潰れたようなパッケージからキャメルを一本取り出す。フゥ〜と宙に向かって紫煙を吐きだし、じろりと私に眼差しを注いだ。
「な、何やねん。何か言いたいことでもあるんかい?」
「いや、たいした事じゃねぇが…。アリスが一体どんな面して、自分のことは自分でしろ、なんて言ってるのかと思ってね」
「どんな面もこんな面も、いつもと同じ顔や。俺はどこぞの先生みたいに、あっちこっちで使い分けなんてしてへんもん」
「そりゃまた、たいした台詞だな。さすがの俺も、アリスの図々しさには負けるぜ」
 態とらしく天井に向かって煙を吐く。白い煙がユラユラと宙を漂い、空気に溶けるように消えていった。
「君にだけは、その台詞言われとうないわ。だいたい俺のどこが図々しいって言うんや。失礼にもほどがあるわ」
「自分のことは自分でしろなんて、平然と言えるとこがだよ。どう考えたって、締め切りのたびに飯作りに来いだの、部屋掃除しろだの言ってる人間の言う台詞じゃねぇだろーが。その台詞は熨斗つけて、そっくりそのまんま、てめぇに返してやるぜ」
 いかん、やぶへびだ。---最後の言葉をケッと吐き捨てた火村に、私は揉み手をしてすり寄っていった。
「まぁまぁ、旦那。そう怒らんと、ご機嫌を直して。何でもお手伝い致しますから、遠慮なく言って下さいよ」
「お前のおかげで、やる気なんて当の昔に失せちまったよ」
 短くなった煙草を灰皿で押しつぶし、火村はのそりと立ち上がった。
「火村、どこ行くん?」
 マジで怒ったのかと慌てた私に、火村がチラリと視線を注いだ。そして、ニヤリと口許に質の悪い笑みを刻む。
「コーヒー淹れにいくんだよ」
「あっ、やったら俺も。俺の分も淹れて」
 やれやれというように肩を竦め、火村は返事の代わりに軽く右手を上げた。台所へと消える火村の背中を見送り、私は窓際へと這っていった。壁にもたれかかり窓枠に頭を預け、見上げる視線の先には真っ青な夏の空。---陽の光に輝く青空が眩しくて、私はそっと目蓋を閉じた。
 大学を卒業して10回目の夏。---私は夢を適えて推理作家になり、火村は母校の英都大学で教鞭を取る新進気鋭の犯罪学者になった。ゆっくりと確実に時間は流れ、少しづつ少しづつ私達を取り巻く環境は変わっていった。10年前私を取り囲んでいた友人の殆どが、今の私の周りにはいない。あの浮かれたような学生時代の夏が、今は遠い…。
 が、それでも変わらずに、私達は一緒にいる。流れていく時間の中で、つかず離れず、ずっと同じ距離を保って一緒にいた。---軽口をたたき、本当に言いたいことも、一番訊きたいことも決して口にしないスタンスは、学生時代とぜんぜん変わらない。でもそれでも、私達は誰よりもそばにいる。
 あの時月の光の中で捕らえ損ねた言葉は、今もまだ捕らえることができないけれど、それでもいいかな…なんて今は思っている。共に歩いてきた時間は、私に言葉よりももっと確かなものを与えてくれた。
「なーに、ニヤニヤ笑ってんだよ。不気味な奴だな」
 手に持ったカップでコツンと頭を叩き、火村は顔を顰めた。
「ほらよ」
 私に湯気のたつコーヒーカップを渡し、自分はテーブルの反対側に腰を下ろす。傍らに積んであった本の山の中から引き抜いた雑誌をテーブルの上に広げ、パラパラとページを繰った。それを見つめながら、私は口許に笑みを刻む。
 ---口の悪いとこも見えない優しさも、ぜんぜん変わらへんのやもん。
 コーヒーが冷めるのを待つ間、所在なげに本に目を通す火村を見つめ、私は独り悦に入ったようにニヤニヤと笑う。そんな私の視線を感じたのか、火村は眉を寄せ、怪訝な視線を返してきた。
「アリス…。遂に夏の暑さに、頭がやられちまったのかよ」
「んなわけあるかいッ。それより、なぁ火村…」
 カップを片手に持ったまま、私は本の山を避けて火村の方へと歩いていった。火村の後ろに座り込み、寄りかかるように背中にもたれかかる。
「重いぞ」
 文句を唱える火村を無視して、言葉を綴る。
「なぁ、コーヒー飲んだら、散歩いかへん。せっかくいい天気なんやもん、部屋にいるの勿体ないやんか」
「天気がいいから部屋を片付けようとしたのを、お前がじゃましたんだろうが---」
「そんなんいつでもできるから、いいやないか。それより、散歩行こうて」
「暑いから却下」
 とりつくしまもない程、あっさりと私の申し出を蹴る。小さく舌打ちし、私はコクリとコーヒーを口に含んだ。
「なぁ…。やったら、陽が落ちた後で北白川天神行かへん。それやったらそう暑うないし、ええやろ?」
「有栖川先生はネタ捜しに、また崖から落っこちるつもりなのかよ。念のため先に言っとくがな、今度は絶対助けになんて行ってやらねぇからな。自分で勝手に這い上がって来い」
 私の先を読んで、火村が釘を刺すように言う。そんな事いちいち言われなくても、私だとて二度と崖から転がり落ちるような真似はやりたくない。痛む足を引きずりながらすぐ下の道路まで下りたあの苦労は、幾ら火村に抱えられていたとはいえ、涙無しには語れないほど惨憺たるものだったのだ。
 おまけに単に挫いただけだと思っていた足首は、翌日医者で診て貰ったところ、何と骨にひびが入っていた。くそ暑い中ギブスをはめられ、ついでに私の愉しい夏休みの計画は全てパァになってしまった。
『すっぱり折れていた方が、治りも早かったかもな』
 ギブスをつけた足を見て火村がそう宣った時には、思わず殴りつけてやろうか、と思ったものだ。とはいえ、結局はギブスが取れるまでの約一カ月、家にも帰らず北白川の下宿に転がり込んだ私の世話をあれこれとやくことになった火村自身が、一番の不幸を背負い込んだのかもしれない。
「今度は女の子やなくて火村が一緒なんやから、大丈夫やて。それに俺、未だにあの道制覇してないんやで。そんなん、めっちゃ口惜しいやんか」
「仕様がねぇな、全く…。行くんなら、涼しくなってからだからな。いいか」
「判ってるって」
 10年前と変わらない温もりを背中に感じながら、私はそっと微笑んだ。


End/2001.08.27




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