夏休みファンクラブ <おまけ>

鳴海璃生 




 カラコロとおかん御用達のお買い物カートを引っ張りながら、私は三十号線の緩い坂道を右に折れた。人通りも車も少ない細い道に足を踏み込み、ホッと息をつく。
 何せ大阪の自宅からここに来るまでの間、道でも電車の中でも、そしてバスの中でも、買い物カートを引っ張った私の姿は、妙に周りの様子から浮いていたのだ。それだけならまだしも、見て見ぬ振りを決め込んだ人達からも、それとはなしにチラチラと私の方を物珍しげに窺っている雰囲気が伝わってきて、私はあらぬ方向を向いたり顔を伏せたりと、居心地の悪い気分を持て余していた。
 ---だから、イヤやて言うたんや。
 うんざりした仕種で、乱暴にカートを引く。街中では、私の後ろをついてくるカートが人を轢く恐れがあった。いや、実際二度ほど後ろの人にぶち当ててしまったのだが…。なので、弥が上にも注意を払ってカートを引き、ゆったりとした歩みを心掛けた。しかしさすがにここまで来ると、それも無駄な努力に他ならない。私は今までの鬱憤をはらすかのように、大股で乱暴な足取りでもって歩を進めた。
 だったら、買い物カートなんて何で引っ張っているんだ、とお思いの方も多々いることだろう。いやそれ以前に、何でそんな物を使っているんだ、と首を傾げた方もいらっしゃるかもしれない。だがここで一つはっきりしておきたいのは、私だとて好きで好んでこんな物を引いているわけでも、使っているわけでもないということだ。これは、我が家随一の権力を要するおかんの強引な薦めによる、不本意な結果なのだ。

◇◇◇

 ようやっとではあるが、何とか人並みに就職の内定を貰った私は、大学最後の夏休みを、遊んで遊んで遊び捲って過ごす予定だった。なのに、なのに---。その矢先に行われた肝試しで、最低最悪の不幸に見舞われてしまったのだ。
 肝試しの真っ最中、暗闇で動くスーパーの袋に驚いた女の子に飛びつかれた私は、彼女を守ろうとして崖を転がり落ちてしまった。その時痛めた右足は、単なる捻挫ではなく骨にひびが入っているという、私にしてはとてつもない重傷。しかも、全治一カ月。
 ああ…、何たる不幸。何たる不運。
 大学最後の華々しくも愉しい夏休みは、一気に暗転してしまった。胸に甘酸っぱい痛みを残す予定の、いつまで経っても懐かしく思い起こせるはずの、思い出というアルバムに深く刻まれることになるはずだった、私の大学最後の夏休みが---。
 不幸すぎる…。
 そして、ギブスでガチガチに固められた右足をスリスリと撫でさすりながら、私は足が完治するまでの一カ月を火村の下宿で過ごすことにした。 怪我をした場所が火村の下宿から数分の処にある北白川天神だったし、それ以上にこの不自由な足を引きずって大阪まで帰るのが面倒で億劫だったからだ。それに---。それに、だ。動かすのにも一苦労の右足を持て余して、このまま一人寂しく夏休みを過ごすだなんて、不幸の上に不幸の団子状態じゃないか。
 そうやって約一カ月半を火村の部屋で過ごした私を、おかんは呆れた顔で迎え入れた。そして翌朝、まだお昼まで二時間以上はあるという時間。大声で呼ばれて無理矢理叩き起こされたと思ったら、「さっさとお礼に行ってらっしゃい」と、おかんは寝惚け眼の私をベッドから引っ張り出した。手土産に、と渡されたのは、おかんが学生時代からの友人と一緒に出掛けた北海道旅行のお土産。
 「呆れた」だの「我が息子ながら恥ずかしい」だのと、私に聞こえるようにぶつぶつと文句を唱えているおかんは、私がいないのをこれ幸いとばかりに、ちゃっかりと北海道旅行になんぞ出掛けていたのだ。もちろん未だに年甲斐もなくいちゃこいてるおとんは、笑顔でおかんを送り出したに違いない。
 玄関に積まれたまま、まだ開封されていない箱をバリバリと引き開け、中から両手に抱えきれない程のじゃがいもだの玉葱だの南瓜だのとうもろこしだの---。北海道産の野菜は言うに及ばず、蟹、鮭、うに、いくら等の海産物に、チョコレートや『よいとまけ』等のお菓子類---。よくもまぁ、こんなに買い込んだものだ…と、舌を巻く。が、それを「手土産だ」と言って次から次に手渡されても…。
 最初の内はバケツリレーのように、手渡されるそれらをテンポよく受け取っていた。だが、それもほんの僅かの間だった。あっと言う間に腕の中は満杯になってしまったのだ。なのに、箱の中を漁るように覗き込んでいるおかんは「ほら、これも…。それとあれも…」と、私の様子にお構いなしに箱の中から取りだした品物を手渡してくる。
「ちょお、待ってや。もう持てへん」
 思わず上げた悲鳴に、おかんは漸く私の方へと視線を上げた。両手一杯に野菜やお菓子の箱を抱えた私をまじまじと見つめ、おかんはポンと両手を打った。
 ---あっ、何かイヤな予感。
 「ちょお待っててや」
 いそいそと小走りに、おかんは台所へと消えた。手の中の土産を下に置き、私はひしひしと強くなる嫌な予感を持て余していた。だいたい家のおかんが発奮した時は、たいてい碌な事がないのだ。
 うんざりと溜め息を零していた私は、パタパタと響いた軽い足音にホールの奥へと視線を移した。短い廊下を忙しない足取りで戻ってくるおかんの後ろからついてくる物に、思わず目を瞠る。まさか。まさか、まさか---。
 悲しいことに、悪い予感ほどよく当たるものだ。おかんの素晴らしいアイディアのおかげで、私はカラコロとおかん愛用の買い物カート---しかも花柄---を引いて京都まで出掛けることとなってしまった。
 ---青春真っ只中、ピチピチの花も恥じらう大学生にこんなもん持たせるやなんて、一体どういう神経してるんや。
 本人に向かってはとても言えない---何せおかんは我が家で一番の権力者なのだ---ので、ブツブツと心の中で文句を唱える。
 天頂に上り詰めた太陽は、ギラギラと白金色の強い光を投げかけてくる。銀閣寺道でバスを降りてからここまで歩いてくる間に、額には丸い汗が浮かび初めていた。
 暦の上では既に秋だったが、頭上に輝く太陽は未だに夏の強さを内包している。だが目に写る空の青は、夏色から秋色へと移り変わりつつあった。鼓膜を震わせる蝉の声も、いつの間にか油蝉や熊蝉から蜩やつくつく法師へと変わっている。夏の終わりを告げるその声は、少しだけ胸が痛むような切なさを含んでいた。そして陽が沈めば、辺り一面から聞こえてくるのは虫の声。
 ---目には見えねど…って、ほんまなんやなぁ。
 それと判るほどにはっきりとは目に写らないが、それでも確かに季節は夏から秋へと移り変わっているのだ。
 カラカラと買い物カートを引き、のんびりとした足取りで通い慣れた道を進む。静かな住宅街であるこの辺りでは、買い物カートを引く私の姿を奇異の目で見る人々の姿も見当たらない。しかも、今は一日の内でも最も暑い時間だ。狭い通りを火村の下宿へと向かう間に、擦れ違う人の影はなかった。
 漸く見慣れた古い格子戸の前に辿り着いた時には、ホッと安堵の息が漏れた。慣れないカートを引きずって歩くのは、結構疲れるものだ…と実感する。
 軽く滑る格子戸を開け、見慣れた庭の中へと入る。数十センチの間を空けて玄関まで続く丸い敷石を辿り、私はいつも通り玄関へと向かった。---つもりだったが、後ろをついてくる買い物カートが敷石の端に引っ掛かって、なかなか思う通りに進むことができない。
「あ〜もうッ! 最後の最後までご迷惑様やな」
 ぶつぶつと文句を口の端にのせ、私は「よいしょ」とカートを抱え上げた。といっても、ほんの少しだけ浮かせた程度だ。というのも、あれやこれやと詰め込めるだけ色んな物を詰め込んだカートは、ペンより重い物を持ったことのない私の柔腕では早々上まで持ち上げることなど出来なかったのだ。
「階段でもめっちゃ苦労したし…。ほんま難儀なもん押しつけてくれたわ」
 「うんしょ、うんしょ」と掛け声を掛けながらカートを抱えて、私はカタツムリの歩みでもって玄関へと近づいていった。ようやっと玄関に行き着いた時には、ホッと安堵の溜め息が漏れたぐらいだ。額に浮かんだ汗は、この一メートル程で倍には増えているし、おまけに何だか腕が痺れているような気もする。
「やれやれ…」
 汗で張り付いた前髪を掻き上げ、ついでに腕で額の汗を拭った。
「こんにちはぁ〜」
 カラカラと軽い音をたてて玄関の木戸を引き開け、ひんやりとした廊下の奥に向かって声を掛ける。すぐに奥の居間から、婆ちゃんが姿を現した。
「あらまぁ、有栖川さん。いらっしゃい。どないしたの?」
 さすがに「昨日帰ったばっかしやのに…」とは言われなかったが、皺の刻まれた口許に浮かんだ微笑みには苦笑めいた色合いが垣間見えた。
 ---そりゃ、そうやな…。
 照れくささに頭を掻きつつ、私はぺこりと小さく頭を下げた。
「ほんまお世話になりました。ほんで、これ。大したもんやないけど、お礼代わりにっておかんが---」
「そんな気ぃ遣うてもらわんでもええのに…」
 少し困ったように首を傾げた婆ちゃんは、はんなりと口許に笑みを零した。それを目の端に留め、傍らの買い物カートの蓋を開ける。そして私は、カートの中に詰め込まれていたあれやこれやを次々に取りだした。
 じゃがいも、玉葱、南瓜、とうもろこし、蟹、鮭、うに、いくら、昆布。そして、六花亭のチョコレートと苫小牧名物の『よいとまけ』。全部を出し終えた時には、まるで店を開きでもしたかのように三和土一杯に北海道土産が並んでいた。
「まぁまぁ、どないしましょ。こない一杯貰うたら、却って申し訳ないわ」
 おっとりとした婆ちゃんの声に、戸惑いが混じる。それを聴いて、私は大きく頭を左右に振った。
「ええんです。おかん、俺がおらんかった間に北海道行って、食べきれんほど色々買い込んできてるから。貰うてもらった方が、ええんです」
 本当に、旅行じゃなく食料の買い出しにでも行ったんじゃないか…と疑いたくなるぐらい、おかんは色んな物を買い込んできていた。蟹やうにやいくらは嬉しいが、それに付随して暫くじゃがいもや南瓜料理が毎日山ほど食卓に上るかと思うと---。ああ…、うんざりする。決して嫌いな物じゃないが、それだって限度問題だ。
「ほんま? それやったら、遠慮なく戴くことにするわ。お母はんに、宜しゅう言うとってね。ああ、そうや。今日は一緒に夕飯食べていったら…」
「へっ?」
 ニコニコと笑いながらの婆ちゃんの誘いに、私は瞬間きょとんとした表情を晒した。一カ月以上お世話になって、昨日家に帰ったばかりなのに、今日もまた夕飯をご馳走して貰うだなんて、それはいくら何でも---。
「まだみんなお家から帰ってきてないし、火村さんと二人っきりやったら、とても食べきれへんやろうしね」
 満面の笑みで嬉しそうにそう口にした婆ちゃんは、さっさと今夜の夕食の予定を決めてしまったらしい。私が返事を返す隙など、婆ちゃんの勢いの前にはチラリとも見いだせない。何だかなぁ…と思いつつも無碍に断るのは悪いし、それに何より婆ちゃんの料理はとっても美味しいのだ。
「やったら、そうします。あっ、これ、俺が中に運んどきます」
 腰を屈めて三和土に並べた北海道土産を取り上げようとしていた婆ちゃんに、声を掛ける。腰を折ったまま私の方を見上げ、婆ちゃんはにっこりと柔らかく目を細めた。
「ほな、頼もうかしら。私はちょっとお隣さんに回覧板回してくるから、宜しゅうね。適当に台所に置いといてくれたら、あとで片付けるから」
「はい」
 軽い足取りで廊下の奥の居間へと向かう婆ちゃんの背中を見送り、私は小さく溜め息を吐き出した。とその時---。
「何やってんだ、お前?」
 階段の上から不意にバリトンの声が降ってきた。見上げると、Tシャツにジーンズ姿の火村が、呆れたような表情で突っ立っていた。髪の毛が所々跳ねているところを見ると、昼寝でもしていたのかもしれない。
「おかんに言われて、お礼を持ってきたんや」
「へぇ〜」
 軽い足取りで階段を下りてきた火村は、三和土に並べられたお礼の品々に軽く目を瞠った。
「すげぇな。おばさん、どっか行ってたのか?」
「俺がおらんのをいいことに、北海道やて。ほんまもう、冗談やないで」
 踵を摺り合わせるようにして空色のバッシュを脱いだ私は、三和土に並べられた土産品の中からじゃがいもと南瓜を抱え上げた。
「火村も運ぶの手伝ってや」
「ああ…」
 よっと掛け声を掛けて、火村が蟹とウニの入った発砲スチロールの箱を取り上げた。
「今日の夕飯は、婆ちゃんがこれで腕を振るうって言うてたで」
 ふ〜ん…と相槌をうちながら、火村は僅かに首を傾げた。
「まさか、お前も食べて行くのか?」
 どこか呆れたような口調に、私は少しだけ罰が悪い。そりゃまぁ、家に帰ったのが昨日だし、火村の言いたい事も判らないわけじゃないが---。
「せやかて、婆ちゃんが一緒にって言うてくれたんやもん」
 プッと唇を尖らせ、言い訳のように呟く。それを横目に捕らえた火村は、僅かに肩を竦めてみせた。
「何だ。てっきり婆ちゃんのおはぎが目当てかと思ったぜ」
「おはぎ?」
 何だ、それは---と、首を傾げる。おはぎは好きだが、何で婆ちゃんがおはぎなんか作るんだ?
「おや、気付いてなかったのか? 今日から彼岸の入りだろうが…。春にも喰ったじゃねぇか」
 言われてみれば春休みに遊びに来た時に、火村が「昼飯代わり」と言って、卓袱台の上におはぎの盛られた皿をド〜ンと置いたっけ。そうか…。あれは、婆ちゃんの手作りおはぎだったのか。知らなかった。
「あの時のおはぎは、婆ちゃんのお手製やったんや。めっちゃ美味かったよなぁ…。ということは、今日のデザートはおはぎなんやな」
 ごくりと喉を鳴らすと、火村が呆れたように笑った。
「こんだけ喰ったあとで、まだおはぎ喰う気なのかよ」
「これ全部が、今日の夕食になるわけやないやろ。それにいくら飯喰うても、デザートはまた別や」
 苦笑を零す火村に、私はニコリと笑いかけた。
「あとで酒買うてこよう」
「おい…。お前、まさか今日も泊まっていく気かよ」
「当然や。足も治ったことやし、快気祝いもせんとあかんしな」
 廊下を歩きながらの台詞に、火村はやれやれと溜め息をついた。
「長逗留のお礼を持ってきて、また泊まっていく奴も珍しいよな」
 火村の言葉に、私はフフンと強気で笑った。そんなこと、今更じゃないか。帰った時のおかんの反応は怖いが、婆ちゃんの料理とおはぎ、それに火村との酒盛りは捨てがたい。
「そろそろ夏も終わりやし、行く夏を惜しんで、おはぎを肴にパァ〜と呑もうや」
 笑いながら居間に入った私の目の前、大きく開け放たれた縁側の窓の向こうを、赤とんぼがスゥーと横切っていった。


End/2001.10.10




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