夏休みファンクラブ

鳴海璃生 




「ひびが入ってますね」
 初老の医師の淡々とした言葉が、脳味噌の皺の隙間を滑り落ちた。
「はっ…?」
 最初に口をついて出たのは、とてつもなく間抜けなひと言。---言われた言葉の意味が上手く理解できなくて、私は戸惑ったように首を傾げた。
「ここ。ひびが入っているのが判りますか」
 患者のこんな間抜けな反応には慣れているのか、初老の医師は穏やかな声で説明しながら、机の前のライティングボードに貼られた一枚のレントゲン写真を指し示した。節ばったやや太めの人差し指に導かれるまま、私はゆっくりと視線を移動させた。
 長方形の黒いフィルムの中に浮かび上がった、白い骨。それは中学の頃、理科室の標本模型で見た通りの足首の骨の形をしていた。そしてそのちょうど踝の辺りには、はっきりくっきり、誰でもそれと理解できる細い線が一つ入っている。まるで彫刻刀で傷をつけたようなその線に、私はじっと視線を凝らした。
 ---これが、ひびなんかぁ。…ということは、当然これは俺の骨っちゅうことなんやな。
 怪我自体よりも、初めて見た自分の骨に奇妙な感慨を覚える。が、それをバラバラの粉々に砕けさせる無粋な声が、背中越しの頭上から降り注いできた。
「へぇ…。見事にひびが入ってるな」
 感心したような、呆れたようなバリトンの声。私は眦を上げ、声の主を振り返った。
「何がひびが入ってるな、や。君、俺の足触って、挫いたって言うたやないか」
 この嘘つきっ、とばかりに怒鳴った声に、火村はやってられないというように、僅かに眉を顰めてみせた。
「俺は医者じゃねぇからな。100パーセント正しい判断なんかできるかってんだ。だいたい普通あの状態なら、折れたか挫いたぐらいしか思いつかねぇだろうが…。俺に的外れな文句を言う前に、お前の軟弱な骨の作りを反省するんだな」
「俺は、カルシウムはきちんと摂っとるわ」
 ゴホンゴホンと聞こえてきた咳払いに、私は今現在の状況を思い出した。ついついいつもの調子で、火村に食ってかかってしまったことを猛烈に反省する。だが後悔先に立たず、である。余りの罰の悪さに、私は恐る恐るというように身体を反転させた。
「ギブスを嵌めますので、向こうにどうぞ」
「えっ?」
 レントゲン写真を机の上に置き、傍らの看護婦に指示を与えている医師の袖口を慌てて引いた。
「あのぉ、ギブスって…?」
 自慢じゃないが、生まれてこのかた食べ過ぎ、風邪、寝冷え以外の病気らしい病気を経験したことがない。特に怪我に至っては論外で、擦り傷、切り傷、打ち身は日常茶飯事だが、病院の世話になるような怪我なんて、全く未知の経験だった。
 だから今回のこの怪我も、最初は湿布薬でも貼ってればいいや…なんて、私は軽く考えていたのだ。
 だが家に着いてひと風呂浴びた後、湿布を貼ろうとした火村が患部の腫れ具合を見て、嫌がる私を無理矢理ここに引っ張ってきた。そして私は、外科なんぞという初体験の分野に足を踏み入れることになってしまった次第なんだが---。
「足首を固定して、取れるまでに---そうですね、まぁ3、4週間てとこですかね。大丈夫、大したことありませんよ。四六時中長靴を履いている、とでも思えばいいんですよ」
 穏やかに笑った初老の医師の目尻の皺を、ぼんやりと見つめた。「大したことはない」と軽く言われても、私にとってはギブスなんて大怪我の部類だ。いやそれよりも何よりも、ギブスなんて付けたら、私の愉しい愉しい夏休みは一体どうなってしまうんだ。
「あのぉ、何とかギブス無しって訳にはいきませんか? ほら、湿布薬を貼るとか何とか、その程度で…」
 上目遣いにお伺いをたてた私に、医師はゆっくりと、だが毅然とした態度で頭を左右に振った。
「だめですね。捻挫とは訳が違いますから、湿布薬を貼っても意味はありませんよ。それに怪我としては、骨を折るよりもひびが入る方がずっと厄介なんですよ」
 聞き分けのない子供を説き伏せるような口調で語られた言葉に、私は頭を垂れた。地獄の就職活動も漸く終えて、残り少ない学生生活を精一杯遊ぶぞ、と思っていた矢先に、何てついてないんだ。
 ど〜んと肩に乗った重い重力を意識しながら、地の底に潜り込むような溜め息を吐き出した時、頭上からまたもや呑気な声が降り注いできた。
「いっそのこと、すっぱり折れてた方が良かったかもな」
 ちくしょう、この野郎…。あとで絶対、蹴り入れてやる。---もちろんその時は、ギブスで固めた右足の方で、だ。

◇◇◇

 反対向きに座った自転車の荷台で、私はぼんやりと空を眺めていた。青い青いドラえもん色の空に、太陽が白く輝いている。車の音に混じって聞こえてくる蝉の鳴き声が、弥が上にも夏の暑さを強調していた。
 ---世の中、夏真っ盛りやいうのに…。
 私を取り巻く夏の風景とは裏腹に、私の心はヒマラヤもしくはチョモランマの天辺で遭難気分だ。遊んで遊んで、とにかく遊び倒して、学生最後の夏を存分に謳歌してやろう…と思っていたのに---。私の謙虚でささやかな願いは、右足のギブスの重さのせいで地の底に潜り込んでしまった。今頃はたぶん地球のコアにでもぶつかって、脆くも粉々に砕け散っていることだろう。きっと今現在、世界中の数十億の人口の中で、私っくらいついていない人間は、他にいないかもしれない。哀れなり、私---。
 はぁ…、とでかい溜め息を青空に向かって吐き出した途端、身体が右に傾いだ。
「あれ…?」
 周りの景色をきょろきょろと眺め、私は首を傾げた。知恩寺裏の京都民医連第二中央病院を出た後、東大路通を南へと向かっていた自転車は、何故か百万遍の信号で右に折れてしまったらしい。北白川とは全く正反対の方向に向かう自転車に、私は身体を前方へと捩った。
「火村、一体どこ行く気なんや? 下宿に戻るんやったら、左やないか」
「下宿? なに寝惚けたこと言ってんだよ、お前は。大阪に帰るのに、出町柳の駅まで送って行ってやってるんだろうが…」
 風に乗って、煙草の煙と共に火村の声が流れてくる。予想外の応えに、私は反射的に大声を上げた。
「えーっ! 俺、大阪になんて帰らへんからな」
 突然の急ブレーキに私の身体は一旦前へと傾き、次いで後ろへと揺れ、火村の背中に勢い良くぶつかって動きを止めた。
「何すんねんっ。危ないやないか」
 私の抗議の声を右から左に聞き流し、ゆっくりと振り向いた火村はすっと双眸を眇めた。
「大阪に帰らないってんなら、どうするんだよ。野宿でもするのか」
「アホか。何が悲しゅうて、野宿なんてせなあかんのや。ここには君ん家があるやないか」
 全く何を言ってるんだか---。私はやれやれと言うように、大袈裟に頭を振った。
「アリス…」
 火村のバリトンの声が、心持ち低くなる。
「一つ訊きたいんだがな。まさかお前、夏中俺の部屋にいる、なんて言う気じゃねぇだろうな」
「そのまさか、や。この足やから、大阪になんて帰られへんもん」
 私は、ぶらぶらとギブスの嵌った重い足を振った。この長靴のようなギブスのせいで、愉しい夏の計画が全てパァになったのだ。せめて火村の処で鬱憤晴らしでもしないことには、とてもじゃないが私の気は治まらない。呑気にそんなことを考えていた時、ガツンと頭に衝撃が降ってきた。身体を捩った火村が、大怪我人の私に情け容赦のない拳をお見舞いしてくれたのだ。
「何すんねん、この人非人。大怪我しとる俺を労ろうっちゅう気が、君にはないんかい」
「何が大怪我だ。全部、てめぇの自業自得じゃねぇか。そのうえこれ以上まだ俺に迷惑掛けようなんて、一体どういう根性してるんだよ」
 根性が180度曲がって、ついでに月面宙返りを披露している人間に、私の根性云々をとやかく言われたくはない。
「その台詞、君にだけは言われとうないな。俺の根性は、君と違うて極々普通やからな」
「偉そうに普通の根性を誇る人間が、夏中他人に迷惑掛けようなんて思うか」
 荷台の上で「よいしょ」と身体を反転させ、私は火村の鼻先で人差し指を立てた。
「他人とちゃうやろ。大事な大事な親友様が大怪我して困ってるんやから、少ぉしぐらいの我が儘、心良ぉきいてやろうって気にならんかい」
 私の言葉に、火村は小さく鼻を鳴らした。
「他人と違う、ね…」
 含みを持った言い方に、嫌な予感が背筋を走る。
「ま、その点だけは同意してやるぜ。確かに他人じゃねぇよなぁ、アリス」
 ニヤニヤ嗤いの男前の顔に、身体中の血が一気に頭へと上昇するような気がした。
「言うとくけどな、俺が言ってる意味と君が言ってる意味は、ぜんぜん違うと思うで」
「俺が、何言ってるんだよ。口に出して言ってみてくれねぇか」
 口許に張り付いた質の良くないニヤニヤ嗤いが、更に度合いを増す。
 ---この野郎。絶対、完璧に面白がってるな。
 ちくしょう…と思いながらも、言葉に詰まった私は、小憎らしい火村のニヤニヤ嗤いを止める術を見出すことができない。
 当たり前だ。火村は、私達があんな事ゃこんな事、とても人様には言えない関係のことを口にしてているのだ。幾ら何でもそんな恥ずかしいこと、真っ昼間の、しかも交通量にかけては京都でも5本の指に入る今出川通のど真ん中で、言葉にできるわけがないじゃないか。恥とか外聞なんてものを遥か彼方のコインロッカーに捨て去った、宇宙人も真っ青の火村とは違って、私は極々普通の一般ピープルなんだぞ。
 「うーっ、うーっ」と唸るばかりの私に、愉しげな視線を走らせ、火村は前方へと向き直った。短くなったキャメルを簡易灰皿に捨て、Uターンをする。ぐらりと身体が後方へ傾いだ私は、慌てて火村のシャツを握りしめた。
「火村…?」
 後ろから覗き込むようにして恐る恐る名を呼んだ私に、火村がニヤリと片頬を歪めた。---気がした。
「昨日からの騒ぎですっかり忘れていたが、お前の言葉で漸く思い出したぜ」
「はっ?」
 思い出したって、一体なにを…?
 とんとその内容に覚えのない私は、微かに眉を寄せ小首を傾げた。
「何だ、忘れたのかよ。相変わらず容量の少ねぇ頭だな」
 余計なお世話だ。憎まれ口をたたく暇があるなら、さっさとその内容を話せっていうんだ。---その思いが眼差しに表れたのか、火村はゆっくりと、殊更丁寧に、そして嫌味なぐらい勿体ぶって言葉を継いだ。
「昨日、図書館で約束しただろうが」
 昨日、図書館で約束した。---頭の中で火村の言葉を反芻して、そして私は…。
「あっ!」
 思わず大声を上げた。
「どうやら思い出したようだな」
 しまったぁ〜!
 言葉が頭蓋骨の中でエコーをかけて響き渡り、ついでにドップラー効果でもって長く尾を引く。ああ、俺のアホアホアホ。何で、こんなこと思い出すんだ。思い出さなきゃ良かった。容量の多過ぎる、この優秀な頭脳が憎い。
 火村と図書館でかわした約束---。それはつまり、さっきのあんな事やこんな事の、まさにそのもので---。要するに…。
 ---まずいっ! めっちゃまずいんじゃないか、この状況は。
 慌てて、私は火村のシャツを引いた。
「火村。俺、やっぱ大阪に帰るわ」
 「だからUターンして」と続くはずの言葉を、火村のバリトンが遮った。
「遠慮すんなよ、アリス。きっちりギブスが取れるまで、面倒看てやるぜ。何せ他人じゃないアリスが大怪我したんだもんな、面倒看るのは当然だよな」
 いや…、だからそれはもういいから、強調すんな。
「よぉ考えたら、赤の他人の君に迷惑かけるなんて、そんな真似できんわ。うん、やっぱりそういうのはいかん。だから、出町柳の駅まで送って」
 「お願いします」と背中に向かって手を合わせた私を、火村の声が一蹴した。
「いくら人非人の俺とはいえ、他人じゃないアリスを、しかも大怪我をした人間を大阪に追い返すなんて、そんな薄情な真似はできねぇな」
 いちいち莫迦丁寧に人の言葉尻を捕らえ、チクリチクリと針先で刺してくるような物言いに、私は眉を寄せた。
「君、何か俺に恨みでもあるんかい」
 僅かに低い声でぼそりと呟いた私に、火村は心外だとでもいうように眉を上下させた。
「随分と失礼な言葉だな。大怪我をしたアリスを心配してやっているだけじゃねぇか。しかも人が親切に看病までしてやろうって言ってるのに、一体何が不満なんだよ、お前は」
 不満なんて大有りだ。とてもじゃないが、その全てを言葉で言い尽くせるもんか。
「何が心配で、親切に看病や。言ってる言葉の裏に、妙な下心が丸見えやないか」
「下心じゃなんて、人聞きの悪いこと言うなよ。単に約束を守って貰うだけじゃねぇか。---ガキの時に習わなかったか? 約束はきちんと守りましょうってな。あとは、看病した御礼をちょっと払って貰うだけだろうが…」
「君の場合、御礼がちょっとですまへんのやもん。いっつも過剰取り立てやで」
「利子がついてるんだよ」
 良く言う。
 青空に向かって諦めにも似た溜め息を吐き、私は火村の背中にコツンと額をつけた。今まで一度として、火村に口で勝てた試しはない。それに、実際ここで意地を張って大阪に帰ったとしても、閑と退屈を持て余し、結局またここに戻ってきそうな気がする。だったら二度手間を省くためにも、このまま京都に居座っていた方が確かに得策ではあった。
 ---だいたい、初めはそういうつもりだったわけやし。
 となると、残る問題は火村の過剰取り立てだけなのだが…。
 ---まぁ、ええか。いざとなったら、何とかなるやろ。
 脳味噌を活性化させ唸ることに飽きた私は、脳天気な結論を出し、視線を空へと泳がせた。何のかんのと文句をつけてみても、詰まるところは学生最後の夏休みを一人で過ごしたくはなかった。---キャメルの匂いの染みついたシャツに額を張り付かせたまま、私は小さく笑みをはく。
「なぁ、火村。ちょっと自転車止めて」
 私の言葉に、火村はゆっくりと自転車を止めた。身体を捩り、訝しむように私の表情を凝視する。
「よっこらせ」
 荷台の上で身体を反転させ、私は火村にもたれ掛かった。薄いシャツの布地越しに伝わってくる慣れた暖かさに、ホッと息をつく。
「アリス?」
 問いかけるようなバリトンの声に応えるように、私はもたれ掛かった火村の背中に体重を預けた。
「やって前向いてたら、君の陰で視界が悪いんやもん」
「…ったく、いちいち文句の多い奴だな」
「ええやん。こない良い天気やのに、勿体ないやないか。それより運転手さん、早う自転車出してや。俺、いい加減お腹空いたわ」
 やれやれと言わんばかりに溜め息を吐いた火村は、胸のポケットからキャメルを取り出し、それを口にくわえ火をつける。キャメルの癖のある匂いが、つんと鼻腔を擽った。
「煙、大丈夫か?」
「ぜんぜん平気や」
 小さく頷き、火村はゆっくりと自転車を漕ぎ出した。
 自転車のスピードに併せて、周りの風景が通り過ぎていく。まるで時間の流れを体現したかのようなそれを見つめ、私は背中越しに伝わる温もりが思い出に変わらないことを願った。


End/2001.09.19




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