Promise You☆ <1>

鳴海璃生 




−1−

『やっほぉー、元気かぁ』
 受話器を取った途端耳に飛び込んできた妙にハイテンションな大声に、火村は僅かに眉を寄せた。反射的にテーブルの上の腕時計に視線を走らせる。銀色の針は、あと十数分で日付が変わるという時刻を指し示していた。
「随分とご機嫌じゃねぇか、アリス…」
 低い声で、ぶっきらぼうに返事を返す。言葉の端々に込めた皮肉に気付く様子もなく、電話の向こうのアリスは陽気な笑い声をたてた。
『当ったり前や。俺は、今自分の才能に深ぁ〜く感動しているところなんや』
「そうか、そりゃ良かったな。だったらその才能が消えない内に、とっとと仕事を終わらせるんだな」
 応える声に、僅かに不機嫌な色が混ざる。酔っぱらったアリスからの電話など日常茶飯事で、今さらいちいち目くじらをたてる程のことではない。だが今現在の状況として、それに付き合ってやる程の寛容さを、火村は持ち合わせていなかった。
 何せそう広くもなテーブルの上には、採点を待っているレポートが未だに山を為しているのだ。帰宅してからずっと掛かりきりで既に半分以上には目を通したのだが、そのどれもこれもが小説でいうところの駄作ばかりで、頭痛がすることこのうえない。それをあと二十近くも読ませられるのだから、ある意味苦行に近い。既に忍耐の限界を超えている火村には、とてもじゃないが酔っぱらいの戯れ言に快く付き合う気になど起ころうはずもなかった。
『君、俺の言うこと全然聞いてへんな』
 相手の返事も待たず、とっとと受話器を置こうとした火村の耳に、勝ち誇ったようなアリスの声が飛び込んできた。舌を鳴らしながら、偉そうに立てた人差し指を左右に振っている---その様子までが脳裏に浮かんでくるような、そんな口調だった。
『ええか、よぉ聞けよ。俺はな、夕方には原稿を終わらせて、今勝利の祝杯を挙げてるところなんや』
 「わっはっは…」と、受話器の向こうから豪快に響く高笑いに、火村は咄嗟に窓へと視線を走らせた。暗い窓の向こうには、家々の明かりがぽつりぽつりと灯っていた。先刻よりその数は少し減っているように見えるが、それ以外のさしたる変化はない。もちろん雨も槍も、そして季節外れの大雪も降ってはいない。どうやら大阪在住の推理作家のとてつもなく---否、これが最初で最後かもしれない…というぐらいに物珍しい行いも、天気を変えたり天変地異を引き起こす程のものではなかったらしい。
 ---チッ、俺も焼きが回っちまったぜ。
 余りにも馬鹿げた己の咄嗟の行いに、心の中で舌打ちする。十年以上傍らにいる推理作家の惚けた性格が、いつの間にか自分にも少なからず影響を与えているらしいことに改めて気付く。
 ---…ったく、冗談じゃないぜ。推理作家がうつっちまったら、どうしてくれるんだよ。
 心の中で苦笑した時、漸く笑いを納めたアリスが言葉を継いだ。
『どうや偉いやろ。締め切りまで、まだ一週間もあるんやで』
 まるで小さな子供が自分の行いを自慢する時のような口調に、知らず笑みが誘われる。
「ああ、偉い偉い。有栖川有栖、初の快挙ってとこだな。おかげで俺は、思わず外の天気を見ちまったぜ」
『ふん、何とでも言うてくれ。俺はな、今なら何でも心良ぉ聞き流せるくらい寛容な気分なんや。心はまるでお釈迦様やで』
「そりゃ良かった。悟りでも何でも好きに開いてくれ。お楽しみのじゃましちゃ悪いから、切るぜ」
『わーっ、待て待てッ! 切るなッ、切ったらあかん』
 突然の大声に、火村は受話器を耳から外した。鼓膜がじんじんと痺れているような感覚に、微かに眉を寄せる。
「おい、アリス。俺はな---」
『まだ本題に入ってへんのやからな。絶対切ったらあかんッ』
 火村の声を遮るように、アリスの大声が重なってきた。自分の言葉などまるで聞いちゃいないアリスに一つ溜め息を吐き、火村は受話器を改めて耳に寄せた。ここでむりやり電話を切ったとしても、またアリスから電話が掛かってくることなど目に見えていた。その時小煩い愚痴を聴くぐらいなら、このまま取り敢えずその本題とやらを聞いて、さっさと電話を終わらせる方がよほど得策だ。
「判ったよ。このまま聞いていてやるから、とっとと話せ」
 受話器の向こうから、ホッとしたような安堵の息が漏れる。が、それはすぐに焦ったようなアリスの声に取って代わった。
『あのな俺、火村にお願いがあるんやけど…』
 ハァ〜と、火村の口から再度大きな溜め息が漏れた。やっぱり…という思いが、頭の中を駆け巡る。
 こういう場合のアリスのお願いの内容は、大学時代からいつも決まっていた。即ち「迎えに来て」か、「今夜泊めて」かのどちらかだ。ハイテンションでご機嫌な酔っぱらいを、今まで一体何度迎えにいき、自分の部屋に泊めたことか---。今さら思い出すのも馬鹿らしい。
「判った。…で、どこまで行けばいいんだ? 三条京阪か」
 京都まで出てきて、一人で呑んでいるとは考えられない。たぶん京都在住の朝井小夜子あたりと一緒に呑んでいるのだろう。となると、行き着く先は三条京阪の駅近くにある『パンゲア』以外に考えられなかった。ビルの地下にあるあのバーを、アリスも小夜子も殊のほか気に入っているのを、火村は良く知ってた。
 自分に誘いが掛からなかったことに一抹の不快を感じながらも、火村はそれと悟らせぬ声音で訊く。だがその言葉に、陽気な否定の言葉が返ってきた。
『なに言うてんねん。俺、京都になんていてへんで。今いるの大阪やもん。当たり前やろ』
 ---この野郎、いい根性してるじゃねぇか。
 アリスの言葉を聴いた途端、火村が柳眉を上げる。いくらアリスの頼みとはいえ、京都から大阪まで迎えに出向いてやるつもりは更々ない。
「てめぇ、俺に大阪まで迎えにこさせるつもりか」
 低い声音に、怒りが混じる。他人が聞いたら思わず怯むであろうその口調に何ら躊躇することなく、あっけらかんとアリスは言い放った。
『迎えにって…。君、なに言うとんのや。俺、家にいてるもん。君に迎えに来てもらう必要なんて、なぁーんもあらへんわ』
 「だったら、何で電話なんて掛けてきたんだよ」との疑問より早く、次の可能性が頭に浮かぶ。締め切り明けの推理作家の次なる戯れ言は、多分---。
「じゃ、飯か。判った。明日、大学が終わったら作りに行ってやる。それまでおとなしく寝てろ」
 うんざりしたように綴った言葉に重なるように、アリスが声を上げた。
『ちゃうてッ! 全くもう、相っ変わらず人の話を聞かん奴やな。君いい加減ええ年齢なんやから、その悪い癖治した方がいいで』
 誰のことを言ってるんだ。
 ぶつぶつと呟くアリスの声を右から左に聞き流し、一つ溜め息を落とす。そして火村は、ゆっくりと若白髪の混じった前髪を掻き上げた。電話の用件は「呑みすぎて帰れないから迎えに来い」でも、「飯を作りに来い」でもない。となると、次にくるのは---。
 頭を捻って考えてみても、それ以外のこれといった突然の電話の理由が思いつかない。
 ---いや、一つあったな。
 嫌な事を思い出したとでもいうように、男前の顔を顰める。酔っぱらったアリスには、常識が当てはまらないことを思い出したのだ。
 ただ単に誰かと話したかった---なんてくだらない理由で夜の夜中、ぐっすりと眠っているところを小煩い電話のベルで強襲されたことも、既に数えるのもバカらしい程の回数を経験していた。おまけに後日それを問い質すと、電話を掛けてきた当のアリス自身が何にも覚えてないなんてことも毎度毎度のことで、そのたび言いようのない理不尽な怒りを抱え込むことになる。
 もちろん貴重な睡眠時間をじゃまされた憂さ晴らしと報復は、きっちりと倍返し三倍返しで律儀に返している。その度ごとに「何でこんな目に遭わないかんのやッ!」とアリスは文句をたれるが、そんなこと知ったことじゃない。---ので、今さらアリスからの突然の夜中の電話の理由ごときに拘るわけでもない。だが、またか…という諦めにも似た思いは隠せなかった。
 ---こりゃ、長くなりそうだな。
 受話器の向こうからは、キャンキャン吠え立てる小犬のようにアリスの声が矢継ぎ早に響いてくる。よくもまぁこれだけ一人で喋れるものだ…、と感心しながら、火村は潰れかけたパッケージからキャメルを一本引き抜いた。
 この調子でいくと、少なく見積もっても二時間はアリスの電話に付き合わされることになるだろう。いいかげん覚悟を決めた火村は、天井に向かって一つ大きく息を吐き出した。紫煙がユラユラと頼りなげに宙を舞い、空気に溶け込むように消えていった。


to be continued




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