Promise You☆ <2>

鳴海璃生 




『火村、聞いとんのかいッ!』
 飛び込んできた声に、現実へと引き戻される。受話器の向こうから、返事の返らぬ相手に焦れたような雰囲気が漂ってきていた。
「聞いてるよ。…で、片桐さんがどうしたって」
 半分どころか三分の一程度の意識でもって聞いていた話の内容は、確かアリスの担当である珀友社の片桐が、先週一杯旅行に行ってた---とか何とかいう内容だったはずだ。アリスとは違いこういうごまかしを得意とする火村は、僅かに尖ったアリスの声に気付かぬ振りで返事を返す。普段と寸分も違わない低いバリトンの声に眉を顰めながらも、アリスは上げた語気を落として話を続けた。
『だからやな、クール宅急便でワインを送ってきてくれたんや。一本は今呑んでるとこなんやけど、これがもうめっちゃ美味いんや。でな、あと一本あるんやけど、君、明日呑みに来ぃへん? どうせ明後日は休みやろ』
「---で、ついでに飯作って、とかいうわけか」
 僅かに皮肉を含んだ声音に、アリスは舌を鳴らした。
『ちゃうて言うとんのに、ほんましつこい奴やなぁ…』
 一体誰のせいだ、と思いながらも、火村は話の続きを促すように口を噤んだ。もしここで余計なひと言を口にしたら、アリスのことだ、話の内容はあらぬ方向へと坂を転げ落ちるように転がっていき、元々の目的とはまるで違う場所に行き着くに違いない。一分でも一秒でも早くこの電話を終わらせて本来の仕事に戻りたい火村は、何としてもそれだけは避けたかった。
『ええか…。耳の穴かっぽじいて、良ぉ聞けよ』
 勿体ぶったように、アリスはごほんと一つ空咳をする。
『今回は酒だけやあらへん。有栖川有栖様作の美味い料理付きや。どや、感動の余り声も出ぇへんやろ』
 カラカラと機嫌良く笑う声に、火村は不覚にも一瞬呆然と声を無くす。耳朶に触れたアリスの言葉は、理解できる。だがその内容が、意識の底にまで浸透していかないのだ。---それくらい今のアリスの言葉は、火村にとっての現実からかけ離れていた。
「おい、アリス。俺は、今一瞬寝てたか? 何か現実とはかけ離れた言葉を聴いたような気がしたが…」
『失礼な奴ちゃなぁ。せやったら、もう一度言うたる。耳の穴かっぽじいて、良ぉ聞けや。---明日は、酒だけや、あらへん。この、有栖川有栖様作の、美味い料理付きや』
 莫迦丁寧に一語一語区切るように、アリスが言う。が、その言葉もやはり耳に馴染まず、意識に引っ掛からない。
 ---アリスが飯を作る…? 何の冗談だ、一体。
 どう好意的に聞いても、十年に一度聞くことができるかできないか…というぐらいには、できすぎの冗談のようにしか聞こえない。もちろんアリスだとて独り暮らしの経験は長い。その間に、当然飯ぐらいは作ったこともある。
 だがしかし、ここでいう『アリスの作った飯』というのは、トーストとかレンジでチンして出来上がる冷凍食品のコロッケ---それでもアリスにしては上出来だ、と火村は思っている---とか、さもなくばお湯を入れてOKのカップラーメンとか---。せいぜい良くて、目玉焼きというところだ。もっとも目玉焼きに至っては、三回に一回は失敗してスクランブルエッグになっているというおまけ付きだが---。
 そのアリスの口から自分の作った飯---当然美味いなんぞという形容詞は、端から無視している---などという言葉を聴いて、果たしてそれを素直に認識できる人間がこの世に存在するだろうか。そこまで奇特な人物の存在など、到底信じられるはずがない。こと火村に至っては、信じる信じないなどという範疇でさえない。
「アリス〜」
 知らず知らずのうちに、語尾に溜め息が混じる。そして火村は、聞き分けのない子供を諭すように、ゆっくりと言葉を続けた。毎度のこととはいえ、己の忍耐強さと寛容さを嫌になるぐらい認識させられる一瞬だ。
「冗談のつもりなら、これ以上ないってぐらいに出来の良い冗談だが、もし本気なら、自分のためにもとっとと取り消した方がいいぜ」
『もちろんこれっぽっちの混じり気もない程、本気の本気や。君、俺のこと徹底的にバカにしとるやろ? 言うとくけどな、俺かてちょっと本気になれば、料理の一つや二つちゃっちゃと簡単に作れるんやで』
「十年以上お前のそばにいるけどな、残念ながら俺は一度として、そのちゃっちゃと簡単に作った料理---なんて代物に、お目に掛かったことはねぇんでな」
『当ったり前や。能ある鷹は爪を隠す---って言うやないか。偶に作るからこそ、有り難みも倍増なんやないか』
 絶対違う---。
 ワハハと機嫌良く笑う声につられるように、ズキズキと頭痛がしてきた気がする。短くなったキャメルを乱暴に灰皿に押しつけ、気を落ち着けるように火村は新しい煙草に火を灯した。
『まっ、ええわ。君の暴言は聞き流してやる』
「そりゃ、どうも…」
 自棄のように言葉を挟む。酔っぱらいの戯れ言もここまでいくと、真面目に相手をしている自分が情けなくなってくる。珍しく締め切り前に原稿を上げて、よほど上機嫌でハイテンションなのか、今夜は一段と言葉の内容に節操がない。だいたい、アリスと料理---。これほど不似合いな組み合わせも、世の中に早々あるもんじゃない。
『とにかくやな、俺にかて作れるくらい簡単で、でも立派な料理を教えて貰うたんや。…で、一度試してみたんやけど、もうこれが信じられんぐらい美味かったんや。俺、本気で自分の料理の才能が怖かったで、ほんま…』
 うっとり…と、己の言葉に酔うように呟く。それに向かって、火村は返事の代わりに最大級の溜め息を一つ吐く。だが一人悦に入ったアリスには、幸運にもそれは聞こえなかったらしい。
『ほんでな、これはもう絶対火村にご馳走してやらなあかん…て思うたんや、俺。ちょうど片桐さんのお土産のワインにもぴったり合うし、こんなチャンス滅多にないで。君、めっちゃラッキーやな』
 脳天気に独りごちる推理作家の辞書には、有り難迷惑などという言葉は存在しないらしい。それに今までの経験からいっても、こういう状態のアリスにとっては、火村の返事の有無はまるで関係がなかった。アリスの中では、既に明日の“有栖川有栖作料理の夕べ”の決行は決まったようなものだ。それを証明するように、火村の返事を待つことなくアリスが言葉を続ける。
『明日は、火村は---』
 受話器の向こうで、パラパラと紙を捲るような音がする。多分アリスが、手帳を開いて火村の予定を確認しているのだろう。新学期が始まるたびに互いの時間割を交換するのは、アリスと知り合った翌年からずっと続く習慣の一つになっている。アリスが大学を卒業してからもそれは変わりなく、火村は毎年新学期が始まるごとに律儀に強請ってくるアリスに、その年の時間割を渡していた。
『えっと…。あれっ、君へんな講義の取り方してるなぁ。一限のあと三限やなんて、普通そんな無駄な取り方せぇへんで。---うわぁ! この日は、もっと最低やな。二限のあと五限やなんて、正気の沙汰やないわ。余計なお世話かもしれんけど、講義の取り方はもっと考えた方がいいんとちゃうか』
 呆れたようなアリスの声に、火村は天井を仰いだ。妙な誤解があるようだが、自分でそういう講義枠を決めたわけじゃない。決めたのは、教務課と教授会のお歴々だ。しがない助教授様は、唯々それに従うのみだ。
 ついでに言うと、講義を取るという日本語も間違っている。それは教える側ではなく、教えられる側の学生が使う言葉だ。が、どうやらアリスには大学にいるというだけで、学生も助教授も同じものに見えるらしい。言葉を操る推理作家殿は、時として非常に言葉に無頓着な時がある。
『ふ〜ん…。それから来るんやったら、ここに着くんは四時頃か…。まぁ、ちょどええくらいやな』
 独り言のように、アリスがぶつぶつと呟く。もちろん、それは確認のための言葉ではない。そして当然のことながら、受話器を通して聞こえるアリスの声に火村が口を挟む余地は微かたりともなかった。
『あっ、手土産なんて持ってこんでもええで。酒も一杯用意しとくから、買ってくる必要ないわ』
 誰が持っていくか、そんな物。---思わず噛み締めたフィルターに、火村は小さく舌打ちした。
「おい、アリス」
『なんや?』
 僅かに苛立ちを含んだ声に、呑気な声が応えを返す。夜も更けてきたというのに、アリスのハイテンションは留まることを知らず、だ。
「有栖川有栖先生のお作りになる料理のメニューは、一体何だよ」
『あれッ、言ってへんかったか?』
 意外なことを訊かれた---というように、アリスが素っ頓狂な声を上げる。自分の記憶に間違いがなければ、確かメニューの『メ』の字も聞いていないはずだ。もっともアリスの料理のリストの中に、メニューと言える程のものがあれば…の話だが---。
「聞いてねぇよ」
『そりゃ、ごめん。作るんは、スパゲッティや』
「---お湯を入れるやつか?」
『ほんま口の悪い奴やなぁ…。ちゃうて、言うてるやろ。きちんと麺をアルデンテに茹でて、もちろんソースかてちゃーんと一から作ったやつやで』
 本当に食べられるんだろうか…、と不安になる。だが火村は賢明にも、それを口にすることはなかった。ただもしもの場合を考えて、何か携えて行った方がいいか…、と思う。もちろん、それも口にはしなかったが---。


to be continued




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