鳴海璃生
時たま、この部屋を大阪の別宅とでも思っているんじゃないか…、と疑いたくなる助教授が、自分の知らぬ間に部屋に上がり込んでいるなんてことは、殆ど日常茶飯事の出来事だった。だから今さらいちいち驚いたり、咎めたりするようなことじゃない。だがさすがに意識のぼんやりとした起き抜けに、いるはずのない人の声---しかも、またそれが極々当たり前ってな声音だから---が聞こえてきたら、誰でも瞬間的に呆然としてしまうのは、当然といえば当然のリアクションだろう。
「何や君、来てたんかい。俺の締め切りが終わった途端、見越したように遣ってくるやなんて、ほんまええタイミングしてるやないか」
この部屋での自分の定位置にどかりと腰をおろした助教授は、組んだ足の上に新聞を広げていた。目の前のローテーブルには、いつの間にか火村専用になったマグカップと、これまた火村専用の灰皿。置かれた煙草の先から立ち上る白い煙は、独特の香りでリビングを満たしていた。久し振りに会っても相変わらずの火村の様子に小さく肩を竦め、アリスはリビングを横切ってキッチンへと姿を消した。
「あれッ! 火村、飯作ってくれたんや」
途端、キッチンの奥から嬉々とした声があがった。カウンターテーブルの向こうから、アリスがひょいと顔を覗かせた。右手にはスプーン、左手にはしっかりとオムライスの乗った皿を握りしめている。
「ああ…。どうせ起きたら、腹空いたって騒ぐと思ってな」
「さっすが火村や。でも一つしかないけど、君はもう食べたんか?」
「喰った。いつ起きてくるか判らない奴を待ってられないからな」
「ふ〜ん…」
納得したようなしていないような、そんな曖昧な表情でアリスは再びキッチンの奥に姿を消した。
「せやったら俺、そっちで食べよ。こっちで一人で食べても美味しくないもんな」
呟きながら現れたアリスの右手には、スプーンと一緒にしっかりとビールの缶が握られていた。
「戴きます」
ぺたんと火村の前に座り、アリスは丁寧に手を合わせる。ニコニコと満面の笑みでオムライスを口に運ぶ様子を横目に見つめながら、火村は僅かに唇の端を上げた。
「美味いッ! さすが火村や」
上機嫌でオムライスを胃袋に収納し、ごくりとビールを呑み干す。そんなアリスの様子を確認し、火村はゆっくりと双眸を眇めた。何かを謀るような火村の視線に気付くこともなく、アリスはぱくぱくと美味しそうにオムライスを口に運んだ。
食事に専念するアリスの姿に、満足そうな笑みを零す。そして火村はキャメルをくゆらせながら、ドアポケットから取り出してきた今朝の朝刊に再び視線を落とした。
「あ〜、美味かった。ごっそぉさん」
最後のひと口を胃袋に納め、少し温くなったビールを一気に喉に流し込む。ホーッと大きく息をつき、アリスは満足そうに手を合わせた。のんびりとしたアリスの声に、火村は読んでいた新聞から視線を上げた。ガラスのローテーブルの上には、空になった白い皿と黄金色のビールの缶が転がっていた。
「喰ったな?」
目の前で見ていたにも拘わらず、まるで確認するかのような言葉に首を傾げながらも、火村の意図がてんで判らないアリスは律儀に応えを返した。
「うん。美味かった。やっぱ火村の作る料理は最高やな」
「そうか。そりゃ、良かったな。じゃ、行くか」
折り畳んだ新聞を傍らに置き、灰皿でキャメルを揉み潰した火村が、徐にアリスの手首を掴んだ。ぎょっとしたように、アリスは慌てて身を引いた。だが、火村に掴まれた手首はピクリとも動かない。
「何すんねん。離せや」
身を捩り、掴まれた手首を何とかして外そうと試みる。だがそんなアリスに頓着することなく、火村は引きずるようにアリスを引っ張っていく。リビングを横切り廊下へと出て、火村の指が寝室のドアノブに掛かったところで、初めてアリスは火村の意図を悟ったように身を固くした。
「ちょっ…。ちょっと君、なに考えてんのや」
どさりと乱暴に放り出されたベッドの上で、アリスはじりじりと後退った。その間を詰めるように、ゆっくりと火村が近づいてくる。吐息が触れ合う程の距離で、男前の顔がニヤリと意地の悪い笑みを作った。
「何って、ナニだろ」
クックッと喉の奥で嗤いながら触れそうになる口唇を、アリスは慌てて両手で押しとどめた。
「何がナニやねん。このド変態ッ! 君、初めっからそれが目的でここに来たんかいッ」
「ご期待に添えなくて残念だが、俺がここに来たのはお前が呼んだせいだぜ」
「はぁ…?」
惚けたような応えが口をついて出た途端、突っ張っていた腕の先の圧力が不意に消えた。ベッドの端に腰掛けた火村が、やれやれと言うように肩を竦めてみせた。
「夕方のあの様子から、こりゃ何にも覚えちゃいないな、とは思っていたが…」
言葉を切った火村が、天井に向かって態とらしい溜め息を吐きだした。
「本っ当にすっからかんの頭だな、てめぇの頭は---」
火村がトントンと緩く、拳でアリスの頭を叩く。それをムッとしたように払いのけ、アリスは不機嫌に眉を寄せた。自分が火村を呼んだだの何だの、そんなことは全くもって身に覚えのないアリスにとって、火村の言葉は言いかがり以外の何ものでもなかった。
「何がすっからかんの頭や。それやったら、君の方がずっとそうなんやないか。はっきり言うとくけどな、俺、君を呼んだ覚えなんかこれっぽっちもあらへんからな。いっくら何でも、耄碌するには早すぎるんと違うか、先生」
「その言葉、そっくりそのまま返してやるぜ。上機嫌で酔っぱらった先生は、二日酔いと一緒に昨日の記憶まで抜け落ちてしまってるみたいだからな」
「---昨日の記憶?」
繰り返すようにゆっくりと口にした言葉に、ぞろりと不安が湧き上がってくる。確かに二日酔いだったのは、覚えている。---ということは、常にないぐらい酒を呑んだってことで…。
ゆっくりと、まるでスローモーションでビデオを再生したかのように、順送りに昨日の出来事が浮かび上がってくる。
自分にしては珍しく、締め切りの一週間も前に原稿が上がったせいで、妙にハイテンションになってしまった。もしかしたら睡眠不足と目覚ましに飲んだドリンク剤の影響も多少はあったのかもそれない。だがとにかく、「祝いや、祝いや」とか何とか騒ぎながら片桐さんかの土産のワインを開けて---。そして、それから---。
---あん時は確か、これ以上はないってぐらい気分が良くて、何となくどこか…に電話したような気が…。
さっと音をたてて、頭の中から一気に血の気が引いていく。恐る恐る移動させた視線の先には、満足げな笑みをはいた火村の顔。---果たしてこの状況で、昨日の自分の諸行の数々を思い出したのは、幸運だったのだろうか。
「アリスにしては珍しく、全部思い出したみたいじゃねぇか」
「い、いや…。だから、あれは…」
続く言葉が見つからない。呼び出しただけならまだしも、「飯を作ってやる」とか何とか、とてつもないことを口にしたような気もする。
「有栖川有栖作の美味い飯とワインを呑ませたる…とか何とか言われて来てみたら、これだもんな。呑ませて貰えるはずのワインは、全部空っぽ。キッチンもリビングもめちゃめちゃだし、挙げ句の果ては俺を起こすな、なんて言って、寝室の鍵まで掛けるんだもんな。お前が散らかした部屋を片付け、飯の仕度をしながら、さすがの俺もアリスの常識を疑っちまったぜ」
別にそんな事してくれなくても良かったのに…とか、そんなん火村が勝手にやったことやから、俺には関係ない…とか思っても、とてもじゃないが今のこの状況では、そんなこと恐ろしくて口には出せない。
「う…うん。そりゃ、悪かったわ。火村が怒るのも当然やな」
引きつったような笑みを表情に張り付けながら、アリスは矢継ぎ早に口を開いた。ここで一瞬でも隙を見せたら、あとは火村の思うままになるのは、火を見るよりも明らかだ。いくら何でも、それだけは御免被りたい。
「ごめん。俺ってば、とんでもない奴や。もう今度という今度は、めっちゃ反省した。今後暫くは呑みません。それにもちろんお詫びに、今から俺が火村の分の飯作ったる。ワインは…。---えっとワインは…、明日ッ! 明日、美味いやつを買うて来るから、それで機嫌治して---」
ヘヘッとお愛想笑いを表情に張り付けるアリスに双眸を眇め、火村はトンと軽くアリスの肩を押した。突然の予期せぬ出来事に、アリスの身体はころんとベッドの上に仰向けに転がった。あれっ…と思う間もなく、シーツに縫い止めるように火村が覆い被さってくる。
「せっかくのアリスの申し出だが、飯もワインもいらねぇよ。変わりに別のもん喰わせて貰うから」
「べ、別のもんて、何やねん。そんなん喰わせたるなんて、ひとっ言も言うて---」
「なーんか言ったか?」
ニヤリと口許に笑みを刻む。その皮肉気な笑いとは裏腹に、真上から見つめてくる双眸には悪戯を思いついた子供のような楽しげな色が見え隠れしていた。
「聞こえなかったなぁ。もう一回言ってみろよ、アリス」
「な…何も言ってません」
「じゃあ、俺の空耳か?」
「はい、そうです…」
耳朶に触れるバリトンの声と温かな吐息にぞくりと膚が粟立つ。負けず嫌いで意地っ張りな自分の抵抗など、結局は無駄な足掻きでしかない。抱きしめられ熱を分かち合い、意識の全てを絡め取られて、いつも最後には火村に彼の望むものを与える自分がいる。それが口惜しいと思いながらも、それを許す自分がいる。そんなこと、嫌になるくらい自覚している。だから---。
一つ大きく息を吐き、アリスは火村の背に腕を回した。
「言うとくけどな。食べ過ぎてお腹こわさんようにしぃや。もしそうなっても、俺は絶対に責任なんて持たへんからな」
「そんなヘマするかよ、バカ」
アリスの最後の抵抗を苦笑でもって笑い飛ばし、火村がそっと口唇を寄せる。眸を閉じる瞬間に垣間見た柔らかな笑みに向かってふわりと相好を崩し、アリスはゆっくりと抱きしめるように火村の背に回した腕に力を込めた。End/2001.12.07
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