Promise You☆ <3>

鳴海璃生 




−2−

 頭の上を行きすぎる高い音に、アリスはごろんと寝返りをうった。継いでごそごそと潜り込むように蒲団に中に身を隠し、手足を縮めて丸くなる。じっと息をこらし、数分の間そのままの姿勢で時が過ぎるのを待つ。
 が、やがて止まるだろうと高を括った音は、アリスの儚い期待を嘲笑うかのように、一向に止む気配が感じられなかった。転がるように繰り返す音は、蒲団を通してさえ消えることなく頭の中で反響する。
「あーっ、もう! 煩いっ!」
 怒鳴って身を起こした途端、頭の中で除夜の鐘を百個ぐらい一度に打ち鳴らした音が鳴り響いた。---ような気がした。だが、すぐにその音は痛みに変わる。ギザギサの痛みは、まるで頭蓋骨に引っ掛かるように頭の中を行き来する。
 ぼんやりと視界を巡らせた世界は、まるで厚い空気の壁に阻まれたようにはっきりとしない。いや、自分自身が厚い空気の壁に囲まれているという方が、より今の状態にしっくりとした。ズキズキと痛む頭に呼応するように、喉元まで吐き気が迫り上がってくる。普段は意識するこもない胃袋の存在が、今日はやけにリアルだ。
「冗談やないで…」
 ぼそりと呟く。シンと冷えた空気の中に落ちた声は、自分のものとは思えないぐらい掠れていた。と同時に、またもや自己主張する頭痛と吐き気が、アリスを悩ませる。
 だるい身体、重い頭、その形さえも手に取るように判る胃袋の存在感---。
 余りの不快さに、アリスは再度ごろんとベッドに転がった。身体を起こしている時に比べれば、ほんの僅かだが楽になったような気がする。
 手に触れた薄い掛け布団を抱きしめ、子供のように丸くなる。天井を見つめ大きく息を吸い込むと、熱を帯びたような肺の中に冷えた空気が滑り込み、妙に心地よかった。
 そうして、また数分の時を過ごす。頭の上を行きすぎる音は、ほんの少しの間さえ惜しいというように、相変わらず律儀な程の自己主張を続けている。
「はいはい、今出るって…」
 胸に抱いた掛け布団を握りしめたまま、アリスはずるずるとベッドから抜け出した。横になったままの怠惰なその動きは、端から見ればまるで巨大な芋虫のようにも見えるのだが、今のアリスにはそんなことに構っていられる程の余裕はなかった。とにかく重力に逆らって起き上がる、もしくは立ち上がるという動作自体が、今のアリスにとっては酷く億劫だったのだ。
 転げ落ちないように細心の注意を払い、今度はごろんと床に寝そべる。市松模様のラグを通して伝わってくる、ひんやりとしたフローリングの冷たさにホッと息をつく。
 そして、そのままの体勢で時を過ごすとこ数分---。何をするにもワンクッションおいてからでないと、次の行動に移ることができなかった。その間も鳴りやむことのないチャイムの音は、空気を振動させて部屋中を行きすぎる。
「よっこらせ…」
 己を励ますように掛け声をかけて、次の動作に移る。重い頭と怠い身体を宥めながら、アリスはゆっくりと立ち上がった。両手に握りしめていた掛け布団を頭から被り、よたよたと歩き出す。
「は〜いはい…。今、開けますよ」
 力無くそう口にしながら、ドアノブに手を伸ばす。まるでその瞬間を見越したかのように、ドアはゆっくりとアリスの指先を掠め、外へと向かって開いていった。
「何やってんだよ、お前は…」
 低いバリトンの声と共に、不機嫌な様子を露わにした助教授殿の男前の顔が視界に飛び込んできた。ぼんやりとそれを見つめ、アリスは一つ溜め息を落とす。
 多分いつまで経っても開かないドアに業を煮やした助教授は、合い鍵を使ってドアを開けたのだろう。だったら最初からそうしろ、と言いたいところだが、口を開くと胃の中のものが迫り上がってきそうで、アリスは仕方なく恨みがましい視線を男前の顔に注いだ。
 果たしてそれに気付いているのかいないのか、相も変わらずのポーカーフェイスで、助教授は後ろ手にドアを閉めた。慣れた様子で靴を脱ぎ、アリスの脇を掠めるように中へと上がり込む。
「いるんなら、とっとと出ろよ」
 良く通る低いバリトンの声。いつもならそれは耳に心地よく響くのだが、今のアリスにとっては凶器でしかなかった。火村の声は頭蓋骨の中で反響し、ズキズキとした痛みを倍増させる。
「一体なにしに来たんや、先生」
 アリスらしくない、低く押さえた声音。それは不機嫌のせいというよりは、むしろ少しでもムカムカとした吐き気を押さえようという健気な努力に他ならなかった。
「何しにって…」
 らしくもなく、火村が言葉に詰まる。昨日の夜遅く、これ以上はないってなぐらい傍迷惑な時間に電話をかけてきて自分を誘ったのは、間違いなくアリス自身だったはずだ。なのに眉を顰めた今のアリスの様子からは、その言葉の欠片さえも伺い知ることはできない。
 ---おいおい、またかよ。
 思い当たる理由に溜め息をついた時、不機嫌この上ないアリスの言葉が火村の耳朶を打った。
「君が突然遣ってくるのはいつものことやから、今さら何も言う気はあらへん。---けどな、今日はめっちゃタイミング悪すぎや。よりにもよって人が二日酔いで死んでる時に来るやなんて、最低最悪やで。それでも俺は寛大やから、文句は言わへん。けど、ええか? ここで何しようと君の自由やけど、絶対俺を起こすなや」
 一気にそれだけ捲し立てると、アリスは全ての力を使い果たしたとでもいうように、がっくりと肩を落とした。呆気にとられたように立ち竦む火村をジロリと睨み、くるりと踵を返す。
「おい、アリス」
 火村の呼び掛けにも、当然返事はない。起きてきた時とは比べものにならない程の足取りで、スタスタと寝室へと向かう。開いたままのドアから中へと滑り込み、アリスは不機嫌な様子とは相反した丁寧さで殊更ゆっくりとドアを閉めた。
「アリス」
 あとを追ってきた火村は、アリスの消えた寝室のドアに手を掛けた。が、いくらドアノブを回してみても、カチャカチャと空回りするような音が漏れ聞こえるだけで、閉ざされたドアは一向に開く気配を見せなかった。
「あの野郎、鍵かけやがったな」
 苛立たしげに舌打ちをし、ノブから手を離した火村は、ゆっくりと傍らの壁に寄りかかった。胸の前で腕を組み、指で薄い唇を撫でる。
「覚えてろよ、アリス。この借りは高くつくからな…」
 低い声でそう呟き、火村はリビングへと踵を返した。


−3−

「あれっ?」
 ぽっかりと目が覚めた。そっと半身を起こし、キョロキョロと辺りの様子を眺める。ぼんやりと見つめた視界の先には、墨を落としたような闇が広がっていた。
「一体何時なんやろ?」
 フワァッと大きく欠伸をして、ベッドサイドへと手を伸ばす。指先に触れた固い感触を掴み、アリスはそれを目の前に翳した。
 暗い闇の中に、緑色の文字が浮かび上がった。針の指し示す時間は、午後9時半。妙な寝方をしてしまったものだ、とちょっとうんざりする。いくら締め切り前で睡眠不足気味だったとはいえ、こんな時間まで眠ったのでは、到底今夜は眠れそうにもない。
「さぁて、どないしようかな…」
 背伸びをするように両手を突き上げ、身体を伸ばす。そっと首を回すと、ポキポキと小さく骨の鳴る音がした。一度目覚めた時の不快さは微塵もなく、頭の中も気持ちも、全てが妙にすっきりさっぱりしている。もちろんあれ程アリスを悩ませていたリアルな胃袋の存在感と吐き気も、今では遥か彼方の出来事だった。
 毎度毎度のことだが、ズキズキと痛む頭と、胃の存在をリアルに感じる吐き気を抱えている時には、もう二度と酒なんて呑むものか、と強く思う。だが一定の時間が過ぎてその不快さが無くなると同時に、そんな殊勝な思いも朝陽の前の霧のように消えてしまう。いや、そんな事を思っていたこと自体が無に帰してしまうのだから、始末が悪いことこのうえない。
 今のアリスがまさにその状態で、喉が乾いたからビールでも呑もうかな…、と思っていたりする。決して学習能力が無いわけじゃなく、要するに万人にとって二日酔いなんてそんなものなのだ。
 喉元過ぎれば熱さを忘れる。二日酔いがこの言葉の代表例だといっても、決して過言ではないに違いない。
「まっ、二日酔いなんてこんなもんやわ」
 う〜ん…、と大きく伸びをして、アリスは飛び降りるようにベッドから抜け出した。軽い足取りでドアへと向かい、ノブを回したところで頭を捻った。今まで一度としてその存在を主張したことのない鍵が、今日に限って律儀に掛かっている。
「俺、何してんのやろ?」
 不可思議な自分の行動に頭を捻りながらも、酔っていた時の行動だから…、と簡単に納得する。学生時代にしこたま酔っぱらって、見知らぬ部屋で目覚めた経験のある自分のことだ。たかだか寝室のドアに鍵を掛けたぐらいで、今さら驚くことも、ましてや真剣に悩む程のこともない。長年使わなかった割りには軽い動きの鍵を回し、アリスはてくてくとリビングへと向かった。
「あ〜あ、腹へったなぁ…」
 冷蔵庫に何かあっただろうか、と思いながら、リビングのドアを開けた途端、耳慣れたバリトンの声がアリスを出迎えた。
「よぉ、先生。やっとお目覚めかよ」
 微かに皮肉を含んだ声音に、アリスは一瞬惚けたような表情を作った。
「何だよ、その面。目、落っこちるぜ」
 喉の奥で小さく笑う助教授を見つめ、アリスは呆然とした意識を引き戻すように緩く頭を振った。


to be continued




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