鳴海璃生
−1− 四角いディスプレイに、かちかちとカーソルが点滅している。その直前には、中途半端な場所で区切られた文章。頬杖をついてそれを眺めながら、私は一つ大きく息を吐いた。
ゆっくりと左手を伸ばし、指に触れた適当なキーを叩く。軽い音を響かせながら、画面に五十音の一番最初の平仮名が意味のない行列を作った。
「あ〜あ…、こんなことやっとっても、埒あかんなぁ」
顎の下に手を戻し、私は小さく呟いた。空調の音が微かに響く部屋に、溜め息にも似た声がゆっくりと溶けていった。
「やらなあかんのは、よぉ判ってるんやけどなぁ」
誰に聴かせることもない独り言が、次から次へと口をついて出てくる。
今がどんな状況なのか、自分自身が一番良く判っている。そしてこの状況から抜け出るためにはどうすればいいのかも、嫌になるぐらい良く判っていた。
いや、抜け出るためなどという悠長なことは言っていられない。とにかく、何が何でもやらなければならないのだ。そう…。英語でいえば、必要・義務・命令のmustが助動詞につくってなもんだ。
が、例えそれが頭の中で判っていても、そのための行動を起こすことは容易ではない。何せこういう場合、身体は頭とはいつも赤の他人の顔をする。頭の中で考えたことを、自我を持った身体が拒否するのだ。私という一人の人間を構成している部分---この場合、主に身体の方だが---が自分勝手に、私の奥深くに潜む欲望のままに動き出す。
頭が理性に従い、身体が誘惑に従う。こういう状態を何というか、よぉ〜く知っている。
---現実逃避。
何て簡単で判りやすい言葉なんだ。だが判っちゃいるが、できないものはできない。
「だいたいそんな簡単にできるんなら、年に長編6本、短編10本はかるいわ」
腕組みをして、自分の言葉に頷く。そうすれば夜しか仕事のできない生産性の低い私も、あっと言う間に多作の推理作家で、平均的サラリーマンよりちょっとは上の年収を手に入れることができるかもしれない。
「したら、火村かて何も言えんようになるわな」
あの口の悪い男を黙らせるのかと思うと、めっちゃ気分がいい。---って、そんなこと考えてる場合じゃない。緩む口許を引き締めて、私は頭を左右に振った。今は火村のことなんて、どうだっていいんだ。
『現実逃避してやがる』
脳裏に浮かんだ男前の顔が、ニヤリと皮肉な嗤いを作った。
---あー、ほんま腹たつッ。正しく仰るその通り。俺は現実逃避してるんや。悪いかっ。
椅子に座ったまま地団駄を踏み、私はどさりと机に突っ伏した。
つまり、要するに、専業推理作家の私、有栖川有栖は、書きかけの原稿を目の前にして、ものの見事に詰まってしまっているのだ。止まってしまったカーソルを見つめること、既に1時間あまり。頭に浮かんでくるのは、本来の仕事とは何の関係もないくだらん事ばかりだ。
「こんな予定やなかったんやけどなぁ…。やっぱ読みが甘かったわ」
頭を抱え込み、私は猿でもできる反省を繰り返す。
一ヶ月ほど前に珀友社の片桐さんから依頼された中編は、最初すごく好調に進んでいた。夜しか仕事のできないと言われる---決してそういう訳じゃない。たまには、ちゃんと昼間にだって仕事をやっている---私が、真っ昼間も快調にワープロを叩き、これはもしかしたら今までで最短記録…。なんてな都合のいいことをニンマリと頭に思い描きながら、地道に作家活動に励んでいたのが、つい三日前のことだった。
クライマックスである探偵による謎解きも終わり、いよいよあとは感動のラスト---と、私は思っているのだが、他人様の評価についてはちょっと疑問だ---へと雪崩れ込むだけというところで、完璧に筆が止まってしまった。自分のものとは思えないほど快調なリズムでキーを叩いていた指はぴたりと動きを止め、頭を振っても叩いても、悲しいかな何にも浮かんではこない。
もちろん私とて、駆け出しとはいえ作家の端くれ。作品のプロットはばっちりたててあるわけだし、あとは頭に浮かんだ文章をそのままディスプレイに写し取ればいいだけだ。
そんなこと誰に言われなくても、よぉく判っている。だが言うは易しやるは難し、だ。プロットだけは頭の中でグルグルと回っているのに、肝心の文章は何一つ出てきはしない。
今さらの後悔役立たずだが、片桐さんからの依頼を二つ返事でOKした私がアホだったのだ。冷静になってよぉく考えてみる必要もない程、こんな依頼、私にとっては鬼門で仏滅で13日の金曜日で大凶の大殺界だというのに…。
「あ〜あ…」
天井に向かって、目の見える程の大きな溜め息をつく。
編集と担当作家、そして年齢の近い友人として、片桐さんと知り合ってから既に3年の月日が流れている。その間に私の苦手分野は、片桐さんもよーく理解しているはずだ。
なのに…。
一体何故、こんな依頼が片桐さんの口から私の元に舞い込んでくることになったんだろう。それとも私に頼まねばならない程、珀友社と付き合いのある作家の数は少ないのだろうか…。
妙な勘ぐりが頭の中を回遊する。
「いかん、いかん」
止まったカーソルの点滅に呼応するように、思考が段々と卑屈になっていく。それを自覚して、自らを落ち着かせるように、私は小さく頭を振った。仕事にかまけて切り損ねた前髪が、バサバサと乾いた音をたてて額に当たる。
「片桐さんの口の上手さもあったけど、結局は俺が悪いんや」
片桐さんから電話が掛かってきたその日が、ちょうど火村と酒盛りをした翌日で、寝惚けた頭もふわふわと心地良い、そんな状態の時に来た依頼とはいえ、いくら頭が別の世界に行っちゃってたとはいえ、「ド〜ンと任せて下さいよ。有栖川有栖の新境地ですから」なーんて、胸を叩いた自分が憎い。
---そう…。妙に弾んだ片桐さんの声が運んできた原稿の依頼は、もちろん推理小説。まあ、これは当然。いくら何でも推理作家のところへ、文芸大作だのポルノだのの依頼を持ってくる奴はいない。---つまり、珀友社から新しく創刊されるミステリー雑誌に掲載する巻頭特集への原稿依頼だったのだ。
『新人の登竜門的存在の雑誌にしたいんですよ』
そう言う片桐さんの言葉通り、私の他にも6人の若手推理作家がその特集に名を連ねていた。中には私も懇意にしている作家も何人かいて、まぁ、それはそれでいいんだが、問題はその特集の内容だ。
「男と女のサスペンスミステリー…? 何やねん、それは」
椅子に長々と身体を預け、私は天井を仰ぎ見た。書きかけの小説の最後の最後、感動のラスト---のはず---で私の筆が止まってしまったのは、要するにその煽り文句の『男と女』の部分に引っ掛かってきたからだ。
自慢じゃないが、とんとお寒い女性関係。一体どこをどうひっくり返せば、そんな怪しい煽り文句に相応しい文章が書けるっていうんだ。
学生時代の友人、かっての仕事仲間…。そして現在の作家仲間。数え上げれば、まぁそれなりに女性の友人もいる。だが、一歩進んだ恋愛関係となると…。
自分で言うのも情けないが、溜め息が天井に当たって一回転して落っこちてくる程のものでしかない。
もちろん、ぜんぜん全くありません---なんて、そこまで情けないことは口にしない。だが『男と女のサスペンスミステリー』などという怪しい煽り文句に見合った原稿を、すらすらと書ける程の経験はない。そういう状態でありながら何で片桐さんの申し出をOKしたかというと、これはもう魔が差したとしか言いようがない。
「寝起きで頭が働いてなかったのが、今回の敗因の一つ」
椅子にだらしなく身体を預け、親指を折る。
「前日に酒を呑んでフワフワ気が大きくなっていたのも、そうやな…」
人差し指を折る。
「片桐さんの口の上手さもあるわな」
中指を折る。
「それから…」
言葉を切り、私は思いっきり顔を顰めた。今回この依頼を受けるなどという愚行を犯した最高、最大の原因に思い当たったのだ。
あの日は火村がいつもの如く私の部屋に泊まり込んだ翌日で、他人様にはとても言えない色んな事をやった後だったのだ。---いや、その言い方は正しくない。どちらかと言えば、火村に色んな事をやられた後だった。---と言い換えた方が、より正しい日本語だ。
とにかく火村に会うのが凄く久し振りだったこともあって、私もそれなりに夢中になってしまった。きっと二人で酒を酌み交わしている時間よりは、ベッドの中にいた時間の方が長いだろうというぐらいには、だ。
それに、男に抱かれるという男としてのプライドに目を瞑れば、私は決して火村に抱かれるのが嫌なわけじゃない。最初から最後まで、100%そうだというわけじゃないが、気持ちいいことが嫌いなわけはないし、快楽に弱い自分だって十分自覚している。
「なんか、何でもやれるってゆう気になってたもんなぁ…、あん時は」
止まることのない溜め息と共に小さく呟く。ゆっくりと空気に溶けていった私の声が、身体を包む空気の色を少しだけ変えたような気がした。僅かに身体の中の熱が上がり、鼓動が耳元で遠慮がちな自己主張を始める。
火村の傍らで目を覚ました朝は、いつもいつも妙に気が大きくなる。彼に触れ、躯を重ね、私は私の一番のミステリーである火村のことを少しだけ理解したような気になるのだ。そして、世の中怖いもんなんかない、もう何だってやれる。---浅はかにもそう思い込んでしまうぐらい、私は気が大きくなってしまうのだ。
あの時---。そう、片桐さんからの電話を受けた時は、まさにそういう状態で、苦手な恋愛を織り交ぜたミステリーだって難なく書ける気になってしまっていた。
朝の光と傍らに火村の温もりを感じる心地よさと…。そして一時の爆発的な感情に流されて、アホなことをしたもんだ。---と、今なら冷静に判断できる。だがそれは今だからできる判断なのであって、あの状態の時の私の頭にまともな判断をくだせということ自体が、どだい無理な注文なのだ。
「まさか片桐さん、それを狙ってきたわけやないやろな」
何気なく口をついて出た恐ろしい言葉に、すっと血の気が引いたような気がした。僅かに上がった熱も一気に下がり、ぞくぞくとした寒気が背中を走る。
---火村と私の関係が第三者にばれてるなんて、冗談でも嫌だ。
私達の関係…。お互いを求め、躯を重ね、互いの熱を貪る。 ---それが恋愛感情から来るものかと問われれば、たぶん違うと思う。
火村がどう思っているのか。どうして私を抱くのか。
私には、何も伺い知ることができない。なぜなら初めて私に触れた時から、彼は何も口にしなかったのだから。好きだとも、愛しているとも…。そして、それ以外の何をも、彼は口にしなかった。
だいたいいくら女嫌いの火村とはいえ、決してゲイというわけではない。それに彼の場合、単に女嫌いというよりは人間全般が苦手といった方がいい。それを考えれば、こんなに長い間私を自分のそばに置いていることの方が、よほど不可解に思えてくる。
そして私は…といえば、当然ながらゲイではない。いくら縁が無いとはいえ、はっきりきっぱり男性よりは女性の方が好きだ。
当たり前だが、同性とこういう関係を持つことなど冗談にでも考えたことはない。火村以外の人間と今後もしそういう事態に陥ることになったとしても、絶対、必ず、何があってもご遠慮申し上げる。そう断言できるだけの自信はある。
火村だから特別なのだ。---が、その私の気持ちが一般的な恋愛と同義でないことも、私は知っている。
私にとっての火村は火村で、それ以上にもそれ以下にもなれはしない。私にとっての火村に成り代われる人間など、この世界には存在しない。そう言い切れるぐらい、火村は私にとって特別な存在なのだ。
そう…。特別という言葉が、私の火村に対する感情を表すのに一番相応しい。それが愛しているということだと言われれば、敢えて否定はしない。何となく違うような気もするが、その違いを上手く説明することなどできはしない。---それくらい恋愛というものは、私にとっては未知の領域に近い。
「なのに男と女のミステリーやなんて、絶対書けるわけあらへん」
なんか、だんだん開き直りたい気分になってきた。---悲しいかな、学生止まりの幼い恋愛感情。それ以上の気持ちは、良く判らない。なぜなら、私の隣りにはずっと火村がいたのだから。
「どアホ。火村のせいやで」
口にした言葉が、こんな依頼を引き受けたことに対する文句なのか、それともとんと女性に縁がないことに対する文句なのか、私自身にも判然としなかった。もっともそのどちらであったとしても、口の悪い友人は私の言葉など一蹴して鼻で嗤うに決まっている。
「こんなこと考えててもしょーがないんやけどな…」
ワープロのディスプレイをひと睨みして、うんざりしたように私はデスクの空いたスペースに突っ伏した。視線の先に、四角く切り取ったような青空が見える。
「…春なんやなぁ」
いつものことだが、気づかない内にどうやら季節が一つ進んでいたらしい。視界の中に写る青空は、冬の冴え冴えとした青ではなく、少し霞んだようなふんわりとした優しいブルーに変わっていた。
「桜も、もう咲いてるやろな」
青い空に淡いピンクの花、花、花…。私の脳裏に浮かぶ春の風景は、いつも同じ。---青空に映える桜の花だ。
「おべんと持って、お花見行きたいよなぁ…」
考えてみれば、去年も一昨年も桜の季節を逃している。仕事を終えて、漸く季節が変わっていることに気づく余裕もできて、さぁ花見に行こうと思った頃には、既に季節は葉桜へと移り変わっていたのだ。
最後に満開の桜を見たのは、一体いつのことだっただろう。---ぼんやりと記憶の底を辿ってみても、一向に思い出さない。
嵐山、吉野、造幣局の通り抜け---。それ以外にも生活圏内に桜の名所が山と揃っているのに、これでは余りに情けなくないか? やっぱり人間、季節を感じながら暮らすのが、正しいあり方なんじゃないだろうか。---そう。特に私のようにカレンダーと縁のない生活をしている人間こそが、身体で季節を感じなくてどうする。
「---よしッ、決めた!」
ガタンと音をたてて勢い良く立ち上がった私は、ディスプレイの中の文章をフロッピーにセーブした。そして、潔くワープロの電源をオフにする。
人間、できない時に悩んでいても仕方がない。やはりこういう場合は、気分転換をするに限る。環境を変え、心を落ち着け、清々しい空気に身を晒せば、きっといい文章も浮かんでくるに違いない。
---これは決して現実逃避じゃなく、発展的解決策や。
そう自分に言い訳して机の引き出しから車のキーをひっ掴み、エアコンのスイッチを切る。リビングのソファに放り投げてあったジャケットを肩に羽織り、私は空気の淀んだマンションの部屋をあとにした。to be continued
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