鳴海璃生
−2− 平日のしかも午前中のせいか、京都へと向かう道路はたいした渋滞もなく、私はゆったりとした気分でちょっとしたドライブを楽しむことができた。
遠方に見える緑の野山には所々に淡いピンが混ざり、少しだけ開けたウインドウから入り込む風もほんのりと甘い。愛しの青い鳥もこの麗らかな天気にご満悦なのか、すこぶる機嫌がいい。
高速を降り市内へと入ったところで、車の数がぐんと多くなった。観光地として名高い碁盤の目状のこの古い街は歩くには最適だが、余り車での移動には向いていない。なぜなら東西南北に走る幾つかの大路を除けば、あとは車が擦れ違うことも困難かと思う程の狭い通りばかりなのだ。
もっともこの街の基盤が作られたのが今から1200年以上前ということを考えれば、それはそれで仕方がないことと納得せざるを得ない。遥か昔の都人に、今の私達の生活など想像することもできなかったのだから。
が、普段なら苛立ちを募らせる渋滞も、この心地良い天気の下では早々気にもならなかった。止まったカーソルを見つめながら煮詰まっていた先刻までの状態を考えれば、この程度の渋滞などどうということもない。
呑気に鼻歌なんぞを口ずさみながら車の混み合う烏丸通を北上し、一路我が母校英都大学を目指す。
3月も終わりのこの時期、世間の学生達は思う存分春休みを謳歌していることだろう。それに併せて大学助教授殿もフィールドワークに勤しんでいるかと思っていたのだが、火村の下宿の大家さんはいつも通りののんびりとした穏やかな口調で、火村が大学に行っていることを教えてくれた。
『最近警察の方のお仕事も少ないようやから、真面目に先生してはりますのよ』
受話器の向こうでコロコロと笑う婆ちゃんの声は、何となくこの花の季節に相応しい気がして、自然と私の口許も緩む。
それにしても---。
学生がいる間は休講ばかりの火村が、学生が春休みになった時期に真面目に先生していると思うと、知らず知らずの内に笑いがこみ上げてくる。まぁ、年に数日くらいは真面目に先生して貰わないと、我が母校も彼を助教授にした甲斐がないってもんだろう。
烏丸今出川の交差点で右に折れる。左手には英都大学の古風な煉瓦造りの壁。反対車線を挟んだ右手には、京都御苑の土積土塁が延々と続いている。春爛漫のこの季節、きっと苑内の桜も淡いピンクに染まっているに違いない。
今出川通に面した正門から中へと入り、駐車場の空いたスペースに車を滑り込ませた。いつもは大学の関係者の車で満杯の狭い駐車場も、春休みのこの時期には空いたスペースの方が目立っている。
がら空きの駐車場の右手奥に止めてある見慣れたおんぼろベンツの姿に、私はにんまりと笑みを作った。婆ちゃんが言った通り、どうやら助教授殿は真面目に研究に勤しんでいるらしい。
車を降り、身体を伸ばしながら深呼吸をする。春の香りと懐かしい空気が胸一杯に広がった。大学を卒業して10年の月日が経つというのに、未だにこの場所が身近に感じるのは、きっとあの仏頂面をした犯罪学者のせいに違いない。
「だいたい何やかんやと理由をつけて、月に7〜8回は来てるもんなぁ…」
卒業したにも拘わらず大学の関係者でも何でもない人間が、そこまで足繁く母校に足を運ぶものだろうか。きっとずいぶんと珍しいことに違いない。
今を盛りの桜の木が並ぶ中庭を通り抜け、私は奥の研究棟へと向かった。道の両側に数メートルの間隔で並べられたベンチの上に、はらりはらりとピンクの花弁が舞い落ちる。その後ろ---。校舎と反対側の桜並木と、そして腰の高さぐらいまでの植え込みに隠された場所には、まるで緑の絨毯のように芝生が植えられている。
ぱっと見にはそれと判らないその場所は陽当たりも良く、学生時代には私の愛用の、そして誰にも知られない秘密の昼寝場所だったのだ。私を捜しに来るついでに火村も偶に利用していたその場所は、どうやら今では火村専用の昼寝場所になっているらしい。
学内のそこここに転がっている懐かしい思い出を辿りながら、私は春のリズムを刻むような軽い足取りで火村の研究室へと向かった。
「火っ村ぁ〜、なぁなぁ花見行かへん?」
ノックもせず、いつもの調子で勢い良くドアを開ける。一歩中へと踏み込んだ途端、私の動きはその場で凍り付いた。突然開いたドアと私の脳天気な声に反応して、六つの眸が一斉に私の方へと視線を注いできた。
射すくめられるような真っ直ぐな眼差しに頭の中が真っ白になり、どうリアクションしていいのかさえ判らない。いや、何のリアクションも返せなかった。今まで何度も火村の研究室を訪ねたことはあったが、ここで火村以外の人間を見たことは今までに一度としてなかったのだ。
そういえば、いつもはだいたい電話をしてからここを訪ねるか、さもなくば一応時間を計って遊びに来ていたのだ。そして今日は---といえば、電話もしていないし、時間にも無頓着だった。大学は春休み春休み…と思っていたから、火村以外の人間がいるなどとは夢にも思わなかったせいだ。
---まずったぁ…。
よくよく考えてみれば、例え今が春休みとはいえ、助手や院生がここにいる可能性がゼロってわけじゃなかった。火村だって院生の時は、休みに関係なく研究室には頻繁に顔を出していた。
---こんなことも忘れているなんて、やっぱり学生止めてから10年の月日はしっかり流れてるってことの証明やな。
六つの眼差しが訝しむように、私の身元を推し量るように、そしてあからさまな好奇心を滲ませて真っ直ぐに見つめてくる。私達の間に横たわるひっそりとした沈黙が、めちゃくちゃ気まずい。せめてノックをして入るとか、それなりの挨拶をして入るとか、私が極々まともな現れ方をしていたら、ここまで気まずい思いもせずにすんだかもしれない。
---やっぱマナーは守らなあかん。
くだらないことを思う。だが思考がグルングルンと洗濯機の中の洗濯物のように回っている私には、肝心要のこの場を取り繕うための方法などきれいさっぱり浮かんではこない。
心臓はいつもの2倍の速さでリズムを刻み、喉はカラカラに乾いていて、まともに声を出すことができるのかどうえさえ怪しい。なのに、背中を伝う冷たい汗の感覚は妙にリアルで…。
こういう場合、小心者の己をいやでも自覚してしまう。大人の落ち着きとか余裕なんて、きっと私には一生縁がないに違いない。
それにしても、腹が立つのは火村だ。偶に真面目に大学に来ているかと思ったら、一体どこに雲隠れしているんだ。もちろん意味のない八つ当たりなのは良く判っている。判ってはいるが、直面した現実から何とか逃れようと、無意識の内に頭の中はくだらないことで一杯になる。
「どちら様ですか?」
硬直したまま何のリアクションも返さない私に、肩まで伸びたストレートヘアの女性が声を掛けてきた。年齢的に見て、多分マスターの1年ぐらいだろうか。猫の目を連想させるきつい眼差しに、思わず身体が引ける。
「あ、あのぉ…」
困った…。一体なんて応えればいいんだ。ここに入ってきた第一声があれじゃ、今さらどうやって取り繕えばいいのかなんて全く思い浮かばない。
言葉を濁した私に、ストレートヘアの娘の隣りに座っていたショートカットの女性が僅かに首を傾げた。多分こっちもマスターの1年ぐらい。童顔に、明るい栗色のショートカットが良く似合っている。その容姿に相応しいソプラノの声が、意味を解さない音として私の脳味噌の中を右から左に行きすぎる。
---それにしても、二人とも美人やなぁ…。ストレートヘアの娘は日本人形みたいやし、ショートカットの娘はそのへんのアイドルでも通るんやないか。
思わずまじまじと見つめてしまう。
---やっぱ火村って、いい仕事して……ああっ、いかんッ! この状況でなに悠長に考えてるねん、俺。
「火村先生に御用でしょうか?」
返事を返さない私に業を煮やしたように、ショートヘアの娘が再度言葉を綴った。
「あっ、はいッ!」
良い子のお返事そのままに、私は慌てて頭を上下に振った。現在の状況も忘れて不埒なことを考えていたため、妙に声が大きくなってしまったような気がして、何とも罰が悪い。
その私の様子に、クスリと小さくストレートヘアの娘が笑う。それを諫めるように横目に見て、最後の一人、紺色の薄手のセーターを着た男性が口を開いた。
「火村先生、今図書館の方に行ってあるんです。もうすぐ戻られると思いますから、中でお待ち下さい」
そう言いながら、部屋の中央にあるテーブルの前の椅子を一つ空ける。が、だからといって、「はい、そうですか」と中に入るのは躊躇された。ここまで罰の悪い状態を作って、中に留まり続ける程の度胸はない。
「あ、いや…。別に急ぎやないので、また来ます」
とにかく今は、一刻も早くこの慣れない雰囲気から逃げ出したかった。できることならこのまま振り向いて、一目散に走り出したいところだ。が、欠片ほどの理性でそれを押しとどめる。私は胸の前でゆっくりと両手を振りながら、一歩後ろへと後退った。
「何やってんだよ、お前は」
ドンと身体が何かにぶつかり、背中越しに聞き慣れたバリトンの声が響いてきた。ドキリと心臓が喉元まで飛び出したような感覚に、私は反射的に声のした方へと振り返った。小脇に分厚い本を数冊抱えた火村が、数センチ高い位置から呆れたように見下ろしてくる。
見慣れた男前の顔に、私はほっと安堵の息をついた。いつもながらの皮肉な笑み浮かべた火村の表情がこれほど嬉しく感じられたのは、きっと長い付き合いの中でもこの時が初めてかもしれない。
「んなとこで突っ立ってねぇで、さっさと入れよ。じゃまだろーが」
分厚い専門書を私の胸に押しつけながら、火村は私の横をすり抜けるように中へと入っていった。飼い主の現れた犬よろしく、私は両手に本を抱えて火村の後に続いた。
「あっ、火村センセ。お帰りなさぁ〜い」
弾んだ女声のデュエットに、私はそそくさと火村の背中へと回り込んだ。ふだん身近に見ることのない華やかな存在に、気後れすることしきりだ。10歳近くも年下の女の子に気後れするなんて、情けないといえばこれ以上に情けないこともない。だが、こればっかりはどうしようもない。今さら日頃の生活改善を試みても手遅れだ。
「お前ら何やってる。いつまで粘ってても、提出期限に遅れたレポートは受け取らないぞ」
「えーっ、センセ冷たぁ〜い」
どこか媚びを含んだ甘えるような声音に、火村がフンと鼻を鳴らした。
「何言っても無駄だ。ほら、とっとと帰れ」
目の前の蠅でも追い払うように、火村が顔の前で手を振る。それはちょっとあんまりやないか、と他人事ながら可哀相になってきた。だが私の心配は、余計なお世話だったらしい。日頃から火村のそんな態度に慣らされているらしい女子学生は、一向に動じる気配はない。
「せんせぇ、ひっどーい。春休み中にわざわざ来たのに、随分やわ」
「あ〜あ…。これで来年、再履修決定やわ」
「ほんま。4年やいうのに、これで卒業できへんかったら洒落にもならんわ」
口々に呟きながら、女の子二人は渋々とい様子で立ち上がった。が、口ではそう言いながらも、言葉の内容ほどにがっくりしているように見受けられない。
もしかしたらこの娘達も火村目当てで講義を取っている口なのかもしれない。彼女達の渋々とした様子はレポートを受け取って貰えなかったことよりも、せっかく春休みに押し掛けてきたのに早々に追い返されたことに起因しているのだろう。
チッ、この女たらし。今も昔も、みんな火村の見掛けに騙されすぎとる。
脇を通り過ぎていく二人を完璧に無視して、火村は部屋の奥へと視線を走らせた。
「菊池君」
テーブルの上に散らばった本を片づけていた男性が、その声に応えるように火村の方へと視線を移した。
「あとは俺がやるから、君も今日はもういいぞ」
「あっ、はい。判りました。それじゃ申し訳ありませんが、お先に失礼させて貰います」
本をテーブルの脇に重ねて、軽く頭を下げる。上着のポケットから取り出したキャメルをくわえながら、火村は軽く右手を上げた。
菊池と呼ばれた青年は、テーブルの空いた場所に火村から受け取った本を置いていた私にも軽く頭を下げ、ドアへと踵を返す。が、ドアノブに手を掛けたところで、急に思い出したように火村の方を振り返った。
「あっ、そや。先生、明日はいつも通りで宜しいですか?」
「明日…? ああ、そうだな。今日と同じくらいに---」
言いかけて、不意に火村は言葉を切った。チラリと私の方へと視線を流し、器用に片眉を上げた。
「おい、アリス。明日なんかあるか?」
突然言葉を振られて、私の心臓はドキリと跳ねる。
「明日…? 別に何もあらへん。何でや?」
逆に問い返した私に、火村は僅かに肩を竦めてみせた。
「いや、何でもねぇよ」
勿体ぶったような火村の口調に、何となく釈然としないものを感じる。だが私は、喉まで出かかった言葉を慌てて飲み込んだ。いつもだったら躊躇無く問いつめるところだが、如何せん今この場には火村と私以外の第三者がいるのだ。これ以上の恥の上塗りは、何があろうとご遠慮申し上げたい。
「取り敢えず一段落したから、新学期までこっちの方はいい」
「そうですか。じゃ、他の連中にもそう伝えときます」
バタンとドアの閉じる音が狭い部屋に響き、私はほっと安堵した。崩れるように座り込み、ぐったりと身体を伸ばす。両肩に重くのしかかっていた重力が、一気にゼロになった気がして、私はぺったりとテーブルに張り付いた。to be continued
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