泳げ! 鯉のぼり

鳴海璃生 




 「あっ! ええなぁ、これ…」
 リビングのテーブルで遅い朝食を摂っていたアリスが、不意に素っ頓狂な声を上げた。キッチンでコーヒーを淹れていた火村は、その声にひょいとカウンター越しからリビングを覗き見る。
 ぺったりと床に座ったアリスは、バターとオレンジマーマレードをたっぷりと塗ったトーストに囓り付きながら、視線は一直線にテレビ画面へと向かっていた。「ええなぁ…」とか「失敗したわぁ」とかブツブツ呟きながらも、口と手はひっきりなしに動いている。トーストを囓って、目玉焼きを口に放り込んで---。
 その様子を見つめていた火村は、「やれやれ」と言うように小さく頭を左右に振った。サーバーに落ちたコーヒーをそれぞれのマグカップに移し、冷蔵庫から取りだした牛乳をドボドボと景気良く流し入れる。宵闇色のブラックコーヒーが、柔らかなミルクブラウンのカフェ・オレに変わった。
 味見をするように、コクリと喉にそれを流し込んだ。猫舌の自分にはちょうど良い温度だ。だが、熱いコーヒーを好むアリスには温すぎる温度だった。もちろんその辺りの選択権は甲斐甲斐しく給仕をしている自分にあるので、しったことじゃない。貴重なゴールデンウィークの休みを潰して、有栖川家の家政夫に甘んじているのだ。当然ながら、文句など言わせるつもりはない。
 牛乳で飲み頃になったコーヒーに緩く唇の端を上げ、火村はカップを両手にリビングへと向かった。
 トーストの最後のひとかけを口の中に放り込んだアリスは、テーブルに肘をついて食い入るようにテレビ画面を見つめている。好奇心に満ちた眼差しは、常にない程いきいきと輝いていた。
「おい、コーヒー」
 アリスの前にことりとマグカップを置き、火村はひょいとアリスの肩越しからテレビの方を覗き込んだ。
 ブラウン管に写っていたのは、青空にたなびく数百の鯉のぼり。陽光を弾いて銀色に輝く川の流れの上を横切り、それは五月の風の中を気持ち良さそうに泳いでいた。
「へぇ…、凄いな」
 ソファに腰を下ろしながら、火村は感嘆したように呟いた。余り色々なことに感動したり心を揺るがされたりする質ではないが、青空に泳ぐ数百の鯉のぼりはそんな火村の心を動かすに価した。
「ええよなぁ…」
 ソファに座った火村の声が聞こえているのかいないのか、温いカフェ・オレをこくりと啜ったアリスは、再度同じ言葉を口にした。どこかうっとりとした口調は、火村の位置からでは伺い知ることのできないアリスの表情をも如実に物語っている。
 やがて画面が移り、青空に泳ぐ鯉のぼりの代わりに最近巷を賑わわしている政治家の柔和な表情がブラウン管一杯に写し出された。ソファとテーブルの僅かな隙間に座り込んでいたアリスは、後ろ手に手をつき天井に向かってハァ〜と大きく息を吐き出した。
「世の中すべからくゴールデンウィークやというのに、何で俺はこんな所におらなあかんねん」
 悲鳴のような雄叫びを上げ、アリスは大袈裟な仕種でガバリとテーブルに突っ伏した。その振動で、マグカップの中のカフェ・オレがゆらゆらと左右に波を作る。脇目もふらず突っ伏したようなアリスだが、テーブルの上に置きっぱなしになっていた空の皿からはきちんと外れた場所に懐いていた。もしここで皿やマグカップに被害を与えたら、有栖川家専用の偉そうで態度のでかい家政夫から小言をくらう程度の分別はアリスにも備わっているのだ。
「不幸や。俺はめっちゃ不幸者やッ!」
 「うおー」とか「うわぁー」とか意味不明の雄叫びを上げながら、アリスの悲嘆は床の上を転げ回りそうな勢いだ。悠然とコーヒーを啜っていた火村は、駄々っ子のようなアリスのその姿を白々とした表情で眺めていた。
 ゆったりとコーヒーを喉に流し込み、暫くアリスの好きにさせておく。たゆたうように時が過ぎるリビングには、テレビ画面から流れてくる軽い口調とアリスのうめき声が、奇妙なバランスでもって奇怪なハーモニーを創り出していた。
 アリスが言うところの極上品であるコーヒーを堪能した火村は、上半身を屈めテーブルに張り付くアリスを避けた場所に空のカップを置いた。コトリとガラスと陶器の触れ合う硬質な音が、アリスの耳元で響く。だがアリスは、それに何の反応も返さなかった。相変わらず己の不遇を、テーブルに向かって切々と訴えている。
 もしかしたら、それは後ろに座る人間に対してのシュプレヒコールのつもりなのかもしれない。だがもしそうだとしたら、アリスの思惑が上手く成功しているとは言い難かった。何せ相手は、アリスの行状に慣らされまくっている助教授殿だ。今さらアリスの我が儘の一つや二つで動じるわけがない。それに---。
「うるせぇぞ、アリス。朝っぱらから、うだうだ騒いでるんじゃねぇ」
 どこか人を突き放すような響きを持つバリトンに、アリスはガバリと勢い良く頭を上げた。ソファとテーブルの間の狭い空間で、器用にくるりと身体を反転させる。そして、ふんぞり返ったような横柄な態度で足を組んでいる犯罪学者を、上目遣いに睨め付けた。
「煩いやないわッ! ゴールデンウィークなんやで。なのに、何で部屋の中でダラダラしてなあかんねん。世間様はみんな浮かれ騒いでいるのにッ!」
 ピシリと指さしたテレビ画面には、どこぞかの祭りの様子が写し出されていた。それにチラリと視線を走らせ、火村はフンと鼻を鳴らした。
「なぁーに言ってんだ。そのゴールデンウィークに部屋の中で茹だってなくちゃいけないのは、どこのどなた様のせいなんだ? えっ!? 言ってみろよ」
 うりうりと爪先でアリスの腰の辺りをこずく。それから逃げるように身体を捻り、アリスは恨めしげに端正な友人の顔を睨め上げた。
 確かに予定していた花見と温泉ツアーを断念せざるを得なかったのは、自分のせいだ。だが、少しぐらい愚痴を零してもいいじゃないか。間違いなく、自信をもって言えるが、ゴールデンウィークの小旅行が潰れてどっぷりと落ち込んでいる度合いは、絶対に自分の方が高い。人混みの中わざわざ遠出をすることを厭う火村は、期せずして転がり込んだ幸運を喜んでいるに違いない。
「俺なんか、せっかくの休みに家政夫だぜ。冗談じゃねぇよなぁ…」
 どこか芝居がかったうんざりとした口調で、哀れみを誘う台詞をぼそりと口にする。だがアリスには、それに同情なんかしてやる筋合いはなかった。なぜなら口調とは裏腹に、火村がこの状況を歓迎しているのは明白なのだ。
 原稿が上がらなかったといっても、早々追いつめられた状態にいるわけではないアリスは、火村の家事手伝いに対する報酬はしっかりと払わされているのだ。しかもそれは、とても他人様には口にできない方法で、だった。
 ---畜生、好き勝手しやがって。
 抗議の意味も込めて、じろりと火村を睨みつける。しかし当の本人はどこ吹く風という様子で、一向に動じない。テーブルから取り上げたリモコンで、興味もなさそうにチャンネルを変えて始めた。
 怠惰な仕種で火村がリモコンのボタンを押すたび、テレビの中の映像が姿を変えていく。その殆どはゴールデンウィークの楽しい光景を写し出すもので---。
「あっ! そこでストップや」
 流れ行く映像をぼんやりと見送っていたアリスが、突然大声を上げた。瞬発力の良さで瞬時に反応して、火村は順番にボタンを押していた指を止めた。
 ブラウン管の中には、青空に泳ぐ鯉のぼりが写っている。それは、ついさっきアリスがうっとりと見つめていた風景だった。今まで見たこともない光景だったが、どうやら幾つかの番組で特集するぐらいには有名らしい。
「何だよ。有栖川先生は、未だに鯉のぼりが欲しい年齢なのか?」
 からかうようにそう口にすると、アリスはハァ〜と大きく息を吐き出した。
「別に鯉のぼりが欲しいわけやあらへんけど…」
 青空に泳ぐ幾百の鯉のぼりをうっとりと見つめ、アリスはテーブルに肘をついた。傍らのマグカップに手を伸ばし、喉を湿らすように冷めたコーヒーを飲み込んだ。
「でも子供の頃は、あーいう大きい鯉のぼりが欲しかったわ」
 どこか羨ましそうな口調に、火村は小さく苦笑を零した。
「アリスんちには庭があるじゃねぇか。そこに鯉のぼりを立てて貰わなかったのかよ?」
 火村は、何度も訪れたことのあるアリスの実家を脳裏に描いた。ここから歩いていける距離にあるそれは、大阪の中心地とは思えない閑静な住宅街に位置する一戸建て家屋だった。ささやかながらも庭があり、立てようと思えばそこに空に泳ぐ鯉のぼりを設えることができたはずだ。
「庭で、おかんが花とか育ててるやないか。やから、鯉のぼりなんて立てたら、せっかく丹精した庭が荒れるって言うて、ダメやってん。うちん中ではおかんがいっちゃん強いし、誰も逆らえへんわ」
 溜め息を零しながらの台詞に、火村はクックッと喉の奥で鳥のように笑った。火村自身でさえ、アリスの母親のパワフルさには一目も二目もおいている。のんびりとした男性陣を排出するらしい有栖川家においては、彼女が絶対の権力を有していることは想像に難くなかった。
「武者人形は飾ってあったんやけど、鯉のぼりはベランダに備え付けた小さいやつやったわ。---そう言う君は、どうやったんや? あーいうでかいやつ立ててたんか?」
 上半身を捻ったアリスがブラウン管を親指で指し示し、火村を見上げた。火村はチラリとテレビ画面に視線を走らせ、緩く頭を左右に振った。
「立ててねぇよ」
「えー、嘘やろ!? 北海道やったら広いし、でっかい鯉のぼり立てることもできるやないか?」
 広い大地に青い空。刷毛で描いたような白い雲をバックに風の中を悠然と泳ぐ鯉のぼりを想像し、アリスはうっとりと目を細めた。
「札幌にいた時はマンションだったしな。その後は転勤であちこち廻っていたし---。だいたい引っ越しの時にじゃまじゃねぇか、そんなもの」
 そういう問題でもない、と思うのだが---。
 淡々とした火村の口調に、アリスは少しだけ眉を顰めた。
「よっしゃ。決めたッ!」
 風船が弾けたように勢い良く手を打ち鳴らしたアリスに、火村は訝しむような視線を投げかけた。唐突にアリスの好奇心とヤル気が弾けた時には、今までの経験から碌でもないことが起こるのは嫌になるぐらい学んでいる。
 ---今度は何だよ、一体。
 胡乱な眼差しを注ぐ火村を顧みることなく、アリスの様子はうきうきと擬音が聞こえてきそうなほど弾んでいる。
「ちまきと柏餅を買うて、夜は菖蒲湯や。途中でデパートにも寄って、ちっこい鯉のぼりも買うで」
 吊り下げられた紐で引かれた操り人形のように、スクッと垂直に立ち上がったアリスは、テーブルの上の皿とマグカップを手にキッチンへと駆けていく。パタパタと足音も高らかに引き返してきたかと思ったら、一直線にリビングを横切って廊下へと飛び出していった。再度リングに姿を現した時には、右手にお出掛け用のジャケットが握られていた。
 呆れた様子で一連の動作を眺めていた火村の前に立ちはだかり、ポケットから取りだした車のキーをチャリンチャリンと手の内で踊らせる。つい先刻まではナマケモノにも失礼なぐらいのだらけ振りだったのに、弾けた後のフットワークの良さはウサギもびっくりの傍迷惑さ加減だ。
「ほら、ボーッとしとらんで行くで」
 ついたままだったテレビを消し、ぐいっと火村の腕を引く。
「行くって、どこに行く気だよ?」
「京都やッ!」
 うんざりした火村の口調を気にした風もなく、明るい声が返事を返す。腕を引くアリスに抵抗するかのようにだらりとソファに身体を預けていた火村は、双眸を眇めてアリスを睨め上げた。
「何で京都なんかに行くんだよ。柏餅ぐらい大阪でも買えるだろうが…」
「あかん! 鯉のぼりは何でもええけど、柏餅は鶴屋吉信ので、ちまきは川端道喜のを買うんや」
 きっぱりと言い切ったアリスに、火村は大仰な溜め息を零した。アリスの口振りから察するに、いつの間にかアリスの興味は、鯉のぼりから柏餅とちまきへと移ってしまったらしい。
 普段はインスタントや冷凍食品、果てはコンビニ弁当の愛用者のくせに、アリスは妙なところで食に対するミーハー精神を発揮する。どうせどこぞの雑誌とか情報番組から仕入れたネタなのだろうが、それに振り回される身にしてみれば迷惑なことこの上ない。
 アリスの雑学データベースは、実になるのかならないのか判然としない情報で溢れている。その中でも食に関する情報は随一で、ある意味その辺のグルメマップより優れているかもしれない。もっとも毎回それに付き合わされる火村にしてみれば、有り難くも何ともない傍迷惑一歩手前のデータでしかないのだが---。
「川端道喜のちまきは予約が必要だぜ」
「そんなもの、車の中からすればええやろ。ほら、行くで」
 ぐいっと力まかせに腕を引かれ、火村は渋々というように重い腰を上げた。
「いくら今日が端午の節句だからって、祝うような年齢じゃねぇだろうが…」
 最後の抵抗のような嫌味も、弾けたアリスには馬耳東風だ。
「なに言うてんねん。五節句を祝うのは、日本人として当然のことや。古来からの風習は大事にせなあかん」
 だったら他の節句も祝ってるのかよ、と言い返したいところだが、余計なことを口にするとアリスの妙なヤル気を喚起させることになる。それでなくても雑学データベースの主は、聴きたくもない端午の節句における風習の起源を切々と語って聞かせているのだ。
 菖蒲を湯に浮かべて湯浴みをしたり、酒に浮かべて呑んだりすりのは、『魔(厄災)を祓うこと』を目的としているとか、ちまきを食べる風習は、中国の英雄、屈原の逸話に因るものだとか、柏餅を食べる風習は、新しい葉が生えて初めて古い葉が落ちる柏に倣って『いつまでも家系が途切れないように』という願いが込められているとか---。
 口にしている内容は知識と学に溢れているのだが、それで何で京都まで柏餅だのちまきだのを買いに行かねばならないのかの理由には、これっぽっちも掠ってはいない。
 鼻歌でも口ずさみそうな雰囲気でステアリングを操るアリスを眺め、火村はニヤリと口許に質の悪い笑みを刻んだ。
「なぁ、アリス---」
「何や?」
 視線は前方を見据えたままで、軽い返事を返す。ちょうど信号が赤に変わり、ブレーキを踏んだアリスは助手席の助教授へと視線を向けた。
「それじゃ古来の風習に倣って、今夜は二人で菖蒲湯に入って子孫繁栄に励もうぜ」
 ニヤニヤと品のない笑いでもって紡がれた言葉に、アリスは引きつったような表情を晒した。
「な‥なに言うて…」
「有栖川センセイのデータに則った、正しい端午の節句の有りようだろう?」
 先刻までのアリスの上機嫌が伝染したかのような火村は、口笛でも吹きそうなぐらいだ。それに反比例するように、アリスの表情が歪み固まっていく。
「何でそうなんねん。このド変態!」
 怒鳴ったアリスの大声に重なるように、後続車からのクラクションが響く。慌てて視線を前へと戻すと、いつの間にか信号は赤から青へと変わっていた。後続車のクラクションに急かされるように、クラッチを踏みギアを入れて青い鳥を発進させる。
「なぁ、アリス。端午の節句ってのは、いい風習だよな」
 ご機嫌な口調でそう口にした助教授を無視して、アリスは前方を睨みつけた。
 フロントガラスに広がるのは、絵の具を零したような青い空。遙か彼方には、五月の風に泳ぐ鯉のぼり。
 ゆらゆらと心地よさそうに風を受けるその姿に、アリスは心の中で手を合わせる。
 ---鯉のぼりさん、この変態助教授に天罰を与えて下さい。
 果たしてその夜、火村に鯉のぼりからの天罰が下るのか、それとも二人して子孫繁栄に励むことになるのかは、風に泳ぐ鯉のぼりだけが知っている。


End/2001.05.16




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