桜前線迷走中 <15>

鳴海璃生 




 その声に、三人同時に声のした方を振り向く。砂糖に群がる蟻のように、一本の桜の樹の下に紺の制服が寄り集まっていた。ざわざわとしたどよろきは次第に大きくなり、やがて辺りに一種独特の雰囲気が広がった。
 緊張したような、張りつめたような、それでいてどこか胸の高鳴るような興奮をも孕んだ雰囲気---。
 その何とも形容し難い空気の色を、私は何度か目の当たりにしていた。火村と共に在る、フィールドワークという名の犯罪捜査の場で。
「ご覧になりますか?」
 数メートル離れた桜の木の下の様子とは一変した、落ち着いたバリトンの声。暫し懸案するように眉を寄せた荒木は、ゆっくりと、だが確固たる決意をもって頷いた。
「あの時、豚の骨やって言うたんは私ですから…」
 だから自分にも見極める責任がある、とでも言うように、荒木が低い声で呟く。火村は僅かに片頬を歪めると、ゆっくりと歩を踏み出した。それに従い、荒木も桜の樹へと歩み出す。
 私は---。一人その場に残された私は、ぼんやりと二人の背中を見つめていた。
 出てきたものが一体どちらだったのか、誘惑にも近い気持ちで知りたいとの欲求はある。が、その反面、知りたくないとも思っているのだ。もし掘り出したのが豚の骨ではなくて、人間の骨だったら…。そう思うだけで、ゾクリと冷たいものが背を伝う。
 いや、もう既に私には判っているのだ。
 火村の推理が一度として外れたことがないのは、この私自身が誰よりも一番良く知っているのだから。---ただ臆病な私は、突きつけられた現実に直面するだけの勇気がないのだ。
 犯罪は誰の身近にも転がっている。---そう思いながらも、自分だけはその芽に触れることはない、と心のどこかで思っていた。そんなこと、絶対にありえるはずもないのに…。
「豚の骨やって言うたんは私ですから…か」
 荒木が口にした言葉を、口中で小さく繰り返す。あの時、桜の樹の下を掘り起こそう、と言ったのは私。それが偶然であれ何であれ、あの桜の根元を掘り返し骨を見つけたのは、この私に他ならないのだ。それは何年経とうと、何があろうと、変えようのない事実---。
「---やったら、結果を見るのは俺の責任や。逃げるわけにはいかへん」
 拳を握りしめ、私は火村達のあとを追った。
「火村…」
 呼びかけた私の声に、火村が振り向く。僅かに双眸を眇め、ゆっくりと手を伸ばし、くしゃりと私の前髪を掻き回した。額に触れる指先の暖かさに、私はホッと詰めていた息を吐き出した。
 火村は何も言わない。---それでも、きっと誰よりも私のことを判っていてくれる。
 顎をしゃくる火村に従い、肩越しに桜の樹の根元を覗き込む。注意深く穴を掘り進める捜査員達の身体の隙間から、私が以前に見た時よりも泥に汚れたクリーム色の骨が数本垣間見えた。
「お判りになりますか?」
 抑揚のない火村の声に、荒木が微かに頭を上下させた。
「あの頃の私は、本の中の知識でしか知りませんでした。でも、今なら判ります」
 ぽつりぽつりと口をついて出る、どこか苦いものを含んだ声。だが、その声の中に迷いの色はない。力強い響きを含んだ友人の声は、はっきりと私の耳に飛び込んできた。
「---あれは、豚の骨やない。人間の骨です」
 まるで信託でも告げるかのような声は、陽の光と桜の花に染まった空気の中に厳かに響き、そしてゆっくりと溶けていった。
 私は---。
 私は火村の傍らに佇み、青空に向かって胸の中に溜まったものを吐き出すかのように、大きく息を吐いた。


−8−

 チカチカと点滅するカーソルを見つめながら、私は一つ大きな欠伸を漏らした。椅子に仰け反るように身体を伸ばし、思いっきり深く息を吸い込む。肺の中に勢い良く流れ混んできた空気が、淀んだ脳味噌を刺激する。ずっと同じ姿勢を取っていたために凝り固まってしまった肩を回し、私は机に両肘をついた。
 どっぷりと怠惰の温床に浸かって過ごしたもぐらの生活にも飽き、漸く真面目に仕事をしようかという気になってワープロに向かってみたのだが、結局結果はこのざまだ。
 窓の外に広がる青空を見つめ、私は溜め息を落とした。やる気や意気込みとは裏腹に、やっぱり私は夜しか仕事のできない生産性の低い作家なのだと自覚する。
「コーヒーでも淹れようかな」
 何度目になるか判らない気分転換を思い立ちリビングへと出たところで、タイミング良く玄関のチャイムが鳴り響いた。その音に眉を寄せ、ポリポリと頭を掻く。
 寝室のドアの前に突っ立ったまま、出ようかどうしようかと考え、私はコーヒーを淹れることを優先させた。煩いぐらいにチャイムを鳴らしてくる客は、どうせあと数秒もすれば勝手に中に入ってくるに違いない。
 コーヒーメーカをセットし、サーバーにコーヒーが落ち始めた頃、機関銃の連射にも似たチャイムの音が止まった。代わりに、ドカドカと足を踏みならすような乱暴な音が響いてきた。ついで、ドサリとソファに座り込む音が聞こえてくる。
 それを耳にしながら、食器棚からカップを二つ取り出し、湯気をたてる出来たてのコーヒーを注ぐ。冷蔵庫の中から取りだした牛乳を適当にぶち込み、私は両手にカップを持ってリビングへと取って返した。
 既に我が家での定位置と化したソファにふんぞり返り、煙草をくゆらす図々しい客の前に、手に持ったカップを置く。客というよりは、この部屋の主然とした男は、感謝の言葉の代わりに険悪な視線を投げつけてきた。
「お客様を迎えにも出ねぇとは、随分な態度じゃねぇか」
「迎えに出なくても、君は勝手に入ってくるやろ。そういう人間は、ふつう客とは言わへんで。それより、相変わらずええタイミングやな。先生は、今度はテレパシーでもマスターしたんか?」
 からかうような私の言葉に、火村は大袈裟に肩を竦めた。
「以心伝心てやつだな。アリスが退屈して、俺に逢いたがってるような気がしたんだよな」
 相変わらず嫌味な奴だ。何が、私が退屈して逢いたがっているだ。---真面目な顔して、よくそんなこと言えるな、と思いながらも、当たっているだけに反論の仕様がない。
 実際のところ退屈していたし、そろそろ火村にも会いたくなっていたのだ。以心伝心はともかく、全てを見透かさせている罰の悪さをごまかすように、ズズッと行儀悪く音をたててコーヒーを啜った。その私をニヤニヤと見つめながら、火村は天井に向かって煙りを吐いた。
「岡本さんがな---」
 さりげなく火村の口をついて出た名前に、私は視線を上げた。天井を見つめたままの火村が、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「お前に礼を言っておいてくれってさ」
 その言葉に、私は唇を噛んだ。
 あの日桜の樹の下から見つかった人骨は、歯の治療痕と左手薬指にはめられた結婚指輪から、15年前に行方不明になった長沼浩一郎氏本人であることが確認された。
 ちょうど山越総合病院の不正医療が取り沙汰されていた時期でもあり、その私有地から発見された長沼さんの骨は、15年前の不正医療疑惑と共に新聞、テレビを始めとする各報道機関で連日大きく取り上げられ、世間の話題を賑わわせていた。
 それに拠れば、任意同行のあと容疑者として逮捕された山越総合病院院長は、殺人ではなく過失致死であることを主張しているようだ。15年近くも前の事件のため証拠や証言を得るのも難しく、現時点での捜査は困難を極めているらしい。だが警察の地道な捜査によって、いずれ事実は白日の下に明らかになるだろう。
 京都府警が第一発見者---になるんだろう、多分…---である私の名前を出さずにいてくれたおかげで、私はその出来事を傍観者として眺めることができた。しかし、もし発見の経緯に到るまでの一連の流れをマスコミに知られたら、私は一躍時の人になっていたかもしれない。そうならなかったことに深く感謝をしつつも、私の気は何となく晴れない。
 今さら言っても仕方のないことだが、もし骨を見つけた時点で警察に連絡していたら…。
 胸を過ぎる苦い後悔の念は、あとをたたない。
 そうすれば、きっともっと早くに犯人は捕まり、長沼さんの無念も少しは晴らされたのではないだろうか。
「礼を言われるようなことは、何もしてへん。俺の話と事件を結びつけたのは君やし、俺は…」
 唇を噛む。
 全てが私のせいというわけではない。それでも15年もの間この事件が、いや、長沼さんが行方不明のままだった責任の一端は、間違いなく私にあるのだ。失踪宣告の申し立てもせず長沼さんのの帰りを待ち続けた家族の失意とやるせなさを思うと、胸の痛みは増すばかりだ。
「そうじゃねぇだろ、アリス」
 口の悪さにかけては右に出る者がいないこの犯罪学者の、滅多に聴くことのない柔らかな声音に、私は視線を上げた。よく見知った男前の顔に浮かぶ表情は、戸惑いを起こさせるほどに優しい。
「考えてもみろ。お前がすっ惚けて桜の樹の下を掘り起こそうなんて気にならなけりゃ、永遠にこの事件は未解決のままだったんだぜ。それに、だ。あと数ヶ月遅く、お前が骨を掘り出したことを話してみろ。長沼さんが誰かに殺され、埋められたことは判っても、犯人は逮捕できなかったかもしれないんだ」
 ニヤリと口許に笑みをはいた火村が、乱暴な仕種でくしゃりと私の髪をなで回す。
「覚えてるか、法学部。殺人の時効は、15年なんだぜ」
 しつこく髪を撫で回す火村の手を、私は乱暴に振り払った。火村にしては珍しく、私を慰めてくれているらしい。だが口の悪さだけは相変わらずで、ありがたいとは思っても素直にそれに応じる気が起こらない。
「---ああ、そうだ」
 灰皿で短くなったキャメルを揉み潰した火村は、新しい煙草を口にくわえようとして、その手を一端止めた。
「柳井警部が、さすが有栖川さんだって誉めてたぜ」
 言ってる意味が判らない。きょとんとした表情を作る私に、火村はよく見慣れた意地の悪い笑みを口許に刻んだ。
「府警の警察犬にも見習わせたいってさ」
「な…。何や、それぇー!」
 思わず素っ頓狂な声を上げる。その私の目の前で、火村がおかしくて堪らないというように喉の奥から小さな笑いを漏らした。
 柳井警部の言葉はもしかして、桜の樹の下を掘り起こした私が犬並みだとでも言いたいのだろうか。---いや、火村ならともかく、柳井警部に限ってはそういう捻くれた言葉は口にしないに違いない。だとしたら、これはやっぱり素直に誉められていると受け取るべきか…。
「とても誉められてるなんて思えへん」
 ぶつぶつと呟く私を横目に、火村はますます堪らないというように笑い転げる。---友人が半分バカにされているというのに、全くもって失礼な奴だ。
「そういえば…」
 笑いすぎて苦しい息を整えながら、火村は言葉を絞り出した。人を犬扱いしただけじゃまだ足りずに何か言う気なのか、と思わず身構える。
「京都府警が、お前に感謝状をやるだの何だの言ってるらしいぜ」
「感謝状? もしかして犬用のか。いらんわ、そんなもん」
 フンとそっぽを向いた途端、火村がまた笑い出す。
「ええ加減にせぇ!」
 失礼極まりない男に鉄拳で制裁を加え、気を落ち着かせるように私は冷めたコーヒーを啜った。細く開けたガラス窓から、春の陽射しを含んだ風がそよいでくる。視線を移せば、窓の外には雲一つない青空。
「京都府警からの感謝状はいらんけど、君からの感謝は欲しいかもしれん」
「俺から…? 何で俺がお前に感謝しなきゃなんねぇんだよ」
 笑いを納めた火村がキャメルを口にくわえながら、憮然と呟く。
「君の探偵譚---」
「フィールドワーク」
 人の言葉を遮り、火村が言い直す。---全くもって嫌な奴だ。
「へぇへぇ…。そのフィールドワークに、また一つ華々しい成果が加わったんやないか。それは、俺の話が元になってるんやで。やったら、感謝の一つもしたって別に罰は当たらんやろ」
「あれは、俺のフィールドワークってわけじゃねぇよ」
「ごちゃごちゃと細かい奴なや」
「判った、判った。それじゃ、俺の感謝の気持ちを身体で払ってやるよ」
 言いながら私の頬に手を掛ける。その変態助教授の手を、私はピシリと乱暴にひっぱたいた。
「いらんわ、そんなもん。それよりなぁ、火村。御礼の気持ちを込めて、花見に連れて行ってくれへん」
「花見? 懲りない奴だなぁ、お前も…。だいたい今頃どこに行く気だ? この辺りはもう、全部葉桜だぞ」
 呆れたような火村の声に、私はニッコリと笑った。言われなくても、ちゃーんとその辺りは考えてあるのだ。
「ゴールデンウィークぐらいに、東北辺りはどうや。ちょうどええ頃やろ。鄙びた温泉付きで、夜桜見物。その時やったら、君の感謝の気持ちもありがた〜く受けてやろうって気になるかもしれんで」
 私の言葉に、火村がニヤリと笑う。
「了解。行き先はお前が決めろよ」
「まかしてや。バッチリええとこ探すから」
 ドンと胸を叩きVサインを作った私の髪を、火村の長い指がゆっくりと梳く。触れる指先の心地良さに、私はそっと目を閉じた。
「アリス…」
 低いバリトンの声。耳元に触れる吐息がくすぐったくて、私は小さく肩を竦める。
「---今度は妙なもん掘り当てるなよ」
 無粋な返事の代わりに、私は拳を一つお見舞いした。
 青空にはピンクの桜…。記憶の中の風景。---そして、春を惜しむ私達は桜を追って旅に出る。


End/2001.04.30




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