Secret Mission <1>

鳴海璃生 




−1−

 抜けるような青空に真夏の太陽が輝いている。
 都会の薄く霞がかったような青空は、もちろん田舎のそれとは比べ物にもならない。だがそれでも絵の具をそのまま零したような青色で、今を盛りの夏色をしていた。
 その青空へと、陽光を反射したビルが競うように伸びる。銀色のサッシの窓枠や最近増えてきた偏光ガラスの壁面に反射する光の乱舞は、より一層夏の暑さを演出しているようだ。
 開け放した窓からは、短い生を謳歌する蝉の鳴き声がここぞとばかりに響き渡る。それは、四季折々に自然が奏でるBGMの夏の主楽章だ。
 子供の頃は、この声が目覚まし時計代わりだった。煩い程のあぶら蝉の声と共に蒲団から抜け出して、1日中あの陽の光の下で遊んだものだ。もちろんあの頃も今と同じように、暑い夏に変わりはなかった。だが、それを暑いと感じる感覚は、今とは雲泥の差があった。
 陽射しが強くなり、気温が上昇すると共に子供だった私の気持ちもウキウキと膨らんでいく。身体中を駆け巡る心地よい程の高揚感。いつの時にも、子供にとって夏の暑さは歓迎すべきものだった。暑いからこその夏であり、あの強い陽射しの下でのみ、夏休みという特別の時間を享受することができたのだ。
 子供だった頃、学生だった頃。---そう。大学を卒業するまでは、暑さの苦手な私にとっても、暑い夏は特別に特別の時間だった。
 それが大学を卒業したと同時に、180度変わってしまった気がする。今の私にとって、暑い夏は特別の時間でも何でもない。夏といえども、日々は全く同じに繰り返していく。1年の中で1番輝いていた季節が、特別だった夏が、いつの間にか暑いという唯それだけのうんざりとしたものに変わってしまった。
 私の特別な季節だった夏は、一体どこに行ってしまったのだろう…。


−2−

 床に寝ころんだまま、ぼんやりと天井を見つめる。
 ---暑い…。
 指1本動かしてさえいないのに、身体を取り巻く空気の暑さが、徐々に体温を上昇させていく。窓から流れ込んでくる谷町筋を通る車の音は、夏のうだるような暑さをより一層助長している。
 クラクションの音、ブレーキの音。そしてエンジンの音。
 おまけに熱や音と共に窓から入ってくる排気ガスのせいで、部屋の中の空気の色さえ違っているような気がした。
「---ったく、ついてへんわ」
 パタパタと商店街で貰った団扇であおぎながら、私はうんざりしたように呟いた。もちろん独り暮らしのこの部屋の中には、私の声に応えを返す者はいない。が、とにかく何か喋ってでもいないと、不快指数は天井知らずに高まるばかりだ。
 ごろんとフローリングの床を転がり、体温で暖まった場所から別の場所へと移動する。だが、外と同じ温度を維持している---いや、もしかしたらそれより高いかもしれない---部屋の中では、例えフローリングといえども、早々冷えている場所を見いだすことはできない。せいぜい、さっきまでいた場所より心持ち冷たいかな、という程度である。
 右手に持っていた団扇を投げ捨て、私はだらしなく手足を伸ばした。身体を取り巻く空気の質量に、何にもする気がしない。視線だけを動かすと、ベランダの手すりと上の階のベランダの間から、長方形に切り取られた青い空が見えた。
「みごとにドラエモン色やなぁ…」
 多少霞んでいるとはいえ、何の混じりけもないブルースカイ。そこには、コントラストをつける白い雲の断片さえありはしない。
 その深い青が眩しくて、私は僅かに目を細めた。
 ---それにしても、暑い…。
 年甲斐もなくタンクトップを着て、短く切ったジーンズを履いて---。
 今の私の恰好といえば、とても他人様に見せられたものではないのだが、そんなことに構ってはいられなかった。今現在の私にとっての1番の問題は、他人の目より暑さ対策。はっきり言って来るか来ないか判らない来客に気を配る余裕はない。だいたい、もし来客があったとしても、ここから1ミリたりとも動く気はないのだ。
 それに、明るい陽光の下で日射病に倒れる---もちろんそれもすっごく恥ずかしいので、絶対にやりたくはないが---ならまだしも、部屋の中で暑さのために行き倒れたとあっては、有栖川有栖末代までの大恥である。
 いや、それだけじゃない。もしそんなことになったら、あの口の悪さでは世界一の友人に、一体なにを言われるか判ったものじゃない。日頃色々とあの口の悪さの犠牲になっている私としては、何としてもそれだけは避けたかった。
 ---…にしたって、暑すぎや。
 余りの暑さに、思考がゆらゆらと霞む。アイスクリームのように、身体も脳味噌も溶けていく---。大阪の夏の暑さは格別だが、それにしても、それにしても、それにしても---。
「あーっ、もうッ腹たつ! 何でこんな時にクーラーが壊れるんやっ」
 熱せられて沸騰したような空気と、街の喧噪と、うだるような暑さと---。とにかく私の周りを取り巻く全てのものに我慢ができなくて、私は外を行き交う車の音に負けない程の大声を張り上げた。
「頼むっ。誰か何とかしてくれーッ!」
 苛ついた気持ちのままに、ゴロンゴロンと床の上を転げ回る。が、悲しいかな、狭い部屋の中。すぐにソファの足にぶつかって、私の身体は動きを止めた。
 そのままの体勢で、深呼吸を一つ、二つ、三つ---。肺の中に流れ込んでくる空気は、体温よりも高い。その空気の壁を切り分けるようにゆっくりと半身を起こし、身体の中で暖まった空気を吐き出した。
「ほんまについてへんわ…」
 脱力したようにぽつりと呟き、私は辺りの様子を一瞥した。
 つい今し方まで私が寝転がっていた場所の周り---当然、寝ころんだままで手の届く範囲のことだ---には、クッションとガラスのコップと缶ビールの抜け殻とくったりとした《冷え冷え》の束が転がっていた。暑さ対策に用意した全てのものが、ことごとくこの暑さの前に敗北し白旗を上げているような、そんな奇妙な錯覚に陥る。
 7月半ば過ぎに梅雨が明けてからというもの、朝、陽が上る前から温度計の水銀は鰻登りに上り詰め、最高気温は連日35℃、36℃。酷い時には、38℃---高熱やないか、これ---なんていう気温を記録していた。同時に熱帯夜も記録を更新し続け、既に2週間とプラスアルファを経過している。
 その間、昼夜を問わずにガンガンつけっぱなしにして、一時たりとも休みを与えず、働かせるだけ働かせて、酷使の限りを尽くした結果、私の夏の命綱、愛しのクーラー様が過労死---まだ死んではいないと、心より切に希望する---したのが、つい2日前のことだった。
 慌てふためいて近所の電器屋さんに電話を入れたのだが、間の悪いことに電器屋さんは、この暑さでもって大繁盛。『この暑さのせいで、エアコンの取り付け工事が立て込んでまして…』と、一応恐縮したように、でも漏れ出る笑いは隠せない---ってな声音が、受話器越しに聞こえてきた。
 おまけに数日後には民族大移動のお盆休みが始まり、当然のように電器屋さんもそれに倣う。その結果、私のクーラーが再び活動を開始するのは、1番早くてお盆明け。電器屋さんの仕事次第では、それよりさらに数日後となることになった。--- つまり、最低でも1週間近くは、この状態に甘んじているわけで…。
 それを知った時の私の狼狽ぶりといったら、情けなさを通り越して思わずほろりと涙を誘うほどだ。
 片手に受話器を握りしめたまま、電話機の前にぼんやりと座り込んだ私の頭の中は、既にサハラ砂漠死の彷徨---。ペプシマ〜ンのCMじゃないが、行き倒れ寸前の状態だ。
「このうだるような暑さの中、クーラーも無しで一体どうしろっていうんやッ」
 受話器に向かって叫んでみても、返ってくるのは虚しさと無情な不通話音ばかり---。
 斯くして、私と夏の暑さとの壮烈な戦いの幕が気って落とされたのだが、勝敗はクーラーが止まって10分後には呆気なくついてしまっていた。
 とにかく冷えた空気が逃げ出さないように、と閉め切っていた部屋がサウナになるまでに要した時間は、僅か12分。吹き出してきた汗に耐えきれなくなった私は、躊躇することなく窓を開け放した。だが、だからといって、部屋の中のサウナ状態が変わるわけでもない。
 窓から入ってくる空気は、部屋の中の数10倍は温かかったのだ。暑さを凌ぐ涼風なんて、1ミリたりとも吹いてはいない。
 部屋は7階だから心地よい風が吹き込んできて、もしかしてこのサウナ状態よ、さようなら…。なーんて思っていた私の目論見は、あっと言う間に雲散霧消。別れの言葉を言う間も、取りすがる隙も無く、憎らしい程に青いブルースカイの彼方へ消えてしまった。
 ---あぁ…、青い空が目に痛いわ。
 よくよく考えてみれば、温かい空気は上へ上へと上がっていくんだった。子供の頃に学んだ理科の知識が、今はこの上もなく憎い。
「俺は別に、ダイエットの必要はあらへんのやからな」
 ついでに言うと、我慢大会もやりたくない。暑いのなんて真っ平ゴメンで、ひえびえ〜の南極大陸でスーパーハードペンギンと仲良く縄跳びでもしたいぐらいだ。
 だいたい京都在住の犯罪学者ならばいざしらず、何故日頃の行いの良い私が、こんな目にあわなければならないんだ。
 ---ちくしょーッ。世の中不条理に満ちすぎとるんやないか。
 思わず頭の中に浮かんだ人物の皮肉げな笑みに、悪態をつく。これが八つ当たりだということは、よーく判っている。だが判ってはいても、止まらない。
 こうなってくると、クーラーが壊れたのも、私がこんな暑い中でうだっているのも、最低1週間はクーラーの修理ができないのも、あれもこれもどれもそれも、とにかく何もかも全てが火村のせいのような気がしてくる。むかつくぐらいに空がドラエモンなのも、きっと火村のせいに違いない。
 ---そうや。絶対、間違いない。あいつが、悪の根元なんや。だいたい何で俺一人だけが、こんな状況に我慢しなければいけないんや。人類は兄弟、世界は一家やないのか。
 どこぞの煽り文句のような言葉が、溶けた脳味噌の中をクリルクリルと回遊する。まあ、人類皆さん全員でなくとも10年来の友人ならば、この苦痛は分け合ってしかるべきだ。それでこその友達。正しい親友のあり方といえるんじゃないのか。
 そう思った途端、私は傍らの電話機へと手を伸ばしていた。受話器を取り上げ短縮ボタンを押しながら、口許にニンマリと質の良くない笑みを作る。
 ---呼び出してやる。俺一人がこんな状態にいるんは、どう考えても理不尽や。
 そう考えると、心持ち身体に感じる暑さもやわらいだ気がする。一人より二人---。我慢大会も世の不条理も理不尽も、二人で分ければ怖くない。
 もちろんアイスクリーム状にとろけた私の脳味噌からは、京都がここよりもずーっと暑いことや、火村の部屋にはエアコンなんて文明の利器がないことや、ついでに彼が私よりも格段に暑さにも寒さにも強い---なんてことは、すっかりきれいに流れ出していた。


to be continued




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