鳴海璃生
耳元で機械的なコール音が鳴り響く。1回、2回、3回---。が、2桁に近い数を数えても、コール音は鳴り止まなかった。
「何や?」
受話器を耳に押し当てたまま、私は微かに首を傾げた。狭い部屋の中、鳴り響くコール音が火村に聞こえないわけはない。もし外出しているのであれば、留守電に切り替わっているはずだ。
「へんやな。昼寝でもしてるんかいな」
耳元で鳴り響くコール音をしつこく数えながら、私は火村が電話にでない訳を色々なパターンで思い描いてみた。だが相手が火村では、早々電話にでない理由も考えつかない。もしこれが私なら、頭から溢れ出るぐらい色んなパターンが考えられる。例えば締め切り前の修羅場中だったりした場合、私は偶に居留守を使ってしまうのだが、火村がそういう真似をやるとは考え難い。
いくら機嫌が悪くても、試験の採点や論文で忙しくても、火村は掛かってきた電話には律儀に応答している。ただしその場合の火村の口の悪さといったら、通常の比ではない。普段のかる〜く10倍から20倍は突破している、彼独特の罵詈雑言に晒されることになり、己の間の悪さを骨の髄まで思い知らされることになるのだ。---が、聞くところによると、それはどうやら私に対してだけの限定対応らしい。しかし、こういう場面で特別枠に入れて貰っても有り難くも何ともない。
---あぁ、いかん!
慌てて私は、頭を左右に振った。こんなことを考えると、ますます不快指数が上昇してしまうではないか。
所在なげにそんなことをつらつらと考えている内にも、コール音は20回を越えてしまった。回数が1回増えるごとに、私の苛立ちも1ポイント増える。少しだけ和らいだ気がした夏の暑さも、不快指数と共に再び上昇を開始し始めた。
「火村のアホ。何で電話とらんのや」
むかつく、腹立つ、あったまにきたッ。
コール音を30回越えたところで、私は乱暴に通話ボタンを切った。これがダメなら、何か他の手を考えなければならない。当たり前だが、火村を巻き込むのを諦める---などという殊勝なことは、欠片たりとも私の頭の中には存在しない。
もちろんどこか冷静な部分で、妙な意地を張っていることは判っていた。だがこうして連絡がつかないとなると、もう何が何でも連絡をつけたくなるってのも、人には良くあることではないか。
---うーん…。
胸の前で腕を組み、私は何とか火村に連絡をつける方法はないものか、と頭を捻った。まぁ普通なら、数分、または数10分後に電話をかけ直すというのが常道だろう。だが思考が沸騰した状態の私には、その数分間が我慢できなかった。
「---婆ちゃん、ごめん」
電話機に向かって手を合わせた後、私は火村の大家さんである篠宮時絵さん宅の電話番号を押した。もし火村が昼寝をしているのなら、叩き起こしてもらう。もし外出しているのなら、伝言を頼む。
頼りにならない数分間を待つことに耐えられない私は、より確実に火村を捕まえることができる方法をとることにした。こんな些細なことに婆ちゃんまで巻き込むのは決して私の本意ではないが、この場合は仕方がない。---ということにしておこう。
耳元で、再びコール音が鳴り響く。1回、2回、3回---。4回目のコール音が鳴り終わったところで、聞き慣れた婆ちゃんの声が耳に飛び込んできた。柔らかな婆ちゃんの声に、ささくれ立っていた私の気持ちもほんわりと軽くなる。
「こんにちは、有栖川です」
『まぁ、有栖川さん。お久し振りやな。元気してはります?』
受話器越しに、電話の向こうで婆ちゃんがはんなりと笑った様子が伝わってきて、自然に私の表情も緩んでくる。
「元気です。婆ちゃんも、お元気そうで何よりです。夏バテとかしてません?」
『おおきに。今のところ夏バテとは縁がありません』
---羨ましい。私なんて、サウナの中でうだりまくっているというのに。やっぱりこの差は、日頃の心掛けの差に比例しているんだろうか。
「でも、気ぃつけて下さいね」
『おおきに』
笑いながら応えてくれた婆ちゃんの声を聞き、そっと深呼吸する。
「えっと、それで、あのぉ…」
『火村さんですか』
何となく切り出しにくくて僅かに言葉を濁した私に、それと察した婆ちゃんが店子である悪友の名を口にする。いつもなら直接火村の部屋に電話を掛ける私が、今日は珍しく婆ちゃんの方に電話したことで、もしかしたら婆ちゃんは、私と火村が喧嘩しているのでは、と思ったのかもしれない。
初めて火村と知り合った大学2回生の時から既に10数年。良いことも悪いことも、その殆どを知られている婆ちゃんにとっては、火村も私も出来の良くない息子同然の存在なのだ。だから、こういう状況でそれと疑われても致し方ない。知らず知らずの内に、口許に照れたような苦笑が浮かぶ。
「えっと、そうなんです。部屋に電話してもでなかったんで、寝てるんやったら起こして貰おうかと思て」
『あらまぁ…』
私の言葉に、婆ちゃんが受話器の向こうで呆れたように笑った。
『火村さん、東京に行くいうのを有栖川さんに言うてはりませんの?』
「はっ?」
予期してもいなかった思いがけない言葉に、私は間抜けた返事を返した。
『珍しいこともあるもんやね。火村さんが、有栖川さんに言わずに行くやなんて』
これで完璧に、婆ちゃんは火村と私が喧嘩したと思い込んだようだ。例えそうと口に出さずとも、まるで子供を宥めるような口調の端々に、それが滲み出ていた。
「はぁ…」
勢い込んで電話を掛けた私は、婆ちゃんの言葉に一瞬、頭の中が真っ白になった。振り上げた拳を一体どこに下ろせばいいんだ…って、そういう何とも情けない気分を味わう。
だがそう言われてみれば、何かそんなことを火村が言っていたような気もする。確か最後に火村と話したのは10日前で、ちょうど締め切り目前だった私は、受話器の向こうの火村の言葉を右から左に聞き流していた。今さら悔やんでも仕方ないが、その時殆ど脳味噌の裏側を滑り落ちていった話の内容が、もしかしたら東京に行くっていう話題だったのだろうか。
---う〜ん…。ぜんぜん思い出せんわ。
こうなると私の野望は、山の彼方の空遠く、だ。ついでに火村は、遙か帝都の空の下---。
---そうか…。幸せは、やっぱ遙か彼方にあるもんなんや。
それでもって不幸はすぐ隣にあるらしい。もしかしてもしかしなくても、幸せが山の彼方から戻ってきて、火村が遙か帝都の空の下から帰ってくるまで、私は独りでこの状態に耐えなければならないのだろうか。
何か、身体中からどっと力が抜ける。力入れて、勢い込んで電話した私の立場は一体どうなるんだ。
『火村さん、東京の方で学会がある言うて、一昨日から出掛けてはりますんえ』
電話中だということも忘れ、遙か彼方の世界にトリップしていた私に、受話器の向こうの婆ちゃんは火村の予定を話してくれる。泊まっているホテルの名前と電話番号。そしてこっちに帰ってくる日にちまで、懇切丁寧に教えてくれた。手持ち無沙汰に私はそれをメモに取り、婆ちゃんに礼を言って電話を切った。
思考は一時停止、何にもやる気にならない。指の1本さえ動かすにも億劫なこの気分を、一体どうすればいいんだ。
ごろんとなま暖かいフローリングの床に寝転がり、私は婆ちゃんが説明してくれたメモを見つめた。
---泊まってるホテルがセンチュリーハイアットやと? 貧乏助教授のくせして、ずいぶん豪勢やないか。
私がこーんなサウナの中でゆだり捲っているというのに、火村は冷房がひんやり効いたホテルで過ごしているのだ。しかもッ、いつも泊まるような安いビジネスホテルとかではなく、都内でも一流のシティホテルに泊まってる。
あーっ、もうッ! 考えれば考える程、むかつき捲る。畜生、火村のアホッ! どアホ! 俺をこーんな所に独りにして、自分はセンチュリーハイアットだと。何て薄情な奴なんだ。こんな薄情な奴だとは、今の今まで知らなかった。もう腹立ち捲りの、むかつき捲りだ。絶交だ。こんな薄情極まりない奴とは絶交してやる。そんでもって、俺だって---。
火村に対抗するようにそう勢い込んでみても、悲しいかな、行く当てなどまるでない。だいたいどっかに行く当てがあるんだったら、こんなサウナの中で2日もゆだっている訳がない。
「あ〜あ…」
私は天井に向かって一つ溜め息をついた。
取材旅行と称して、独りでふらふらと旅行するのは嫌いじゃない。だがとてもじゃないが、今はそういう気にもならない。
---結局やっぱり火村が帰ってくるまでは、ここでうだってるしか方法はないんやろか。
目の上に翳していたメモを汗の滲んだ額に貼り付け、私は何とか火村との電話の内容を思い出そうと試みた。ラッキースターが私の上に輝いていれば、この状態から抜け出せる蜘蛛の糸が火村の言葉の中に見いだせるかもしれない。
もともとメモリーの偏りと取り出しに少々の困難を感じる頭だが、人間やる気になれば何だってやれるに違いない。---ただ、余り自信はないのだが。しかし内容如何によっては、この状態から脱出できるかもしれないのだ。となれば、藁にも縋る思いで結構必死にもなる。
「そんな都合のええことあらへんよなぁ…」
溜め息と共にそう呟いた途端、私はがばっと勢いよく跳ね起きた。唐突に火村の声が、頭の中で鳴り響いたのだ。私の名を呼ぶクールなバリトンの声。そして、その後---。
---あの時、火村は確か…。
溶けた脳味噌を何とか固め、私は曖昧な記憶を必死の努力で掘り起こした。
こういう場合の人間の記憶システムとは実に便利なもので、どうやら結構いい加減に聞いていた話の内容でさえも、自分にプラスになることだったら、無意識の内にも記憶の引き出しの中に残しておくものらしい。そして必要な時に都合良く、その一端がぽろりと引き出しの奥から零れ落ちてくるのだから、たいしたものだ。
もちろんその内容は記憶の引き出しの中で熟成され、自分に都合が良いように脚色されているかもしれない。が、そんなこと私の知ったことじゃない。零れ落ちた記憶こそが、私にとっての真実。棚からぼた餅、鴨が葱しょって飛んできたってなもんだ。
そして今日も今日とて都合良く、私は火村の言葉を根性と努力と意地でもって見事に思い出したのだ。確か『学会とはいってもバカンスも込みみたいなものだから、一緒に来ないか…』とか何とか言っていたんだ、あの助教授殿は---。
それに対して私が何と応えたかは、今現在私がここにいることで何となく想像はついてしまう。だが、己の幸せのためにも、この際そういうことはすっきりきっぱり忘れてしまうことにする。
---そうや。何も俺独りが、こんな所で我慢してることはないんや。
せっかくの親友からの有り難いお誘い。それを断るなんて、これはもう友情の終わりだ。あぁ…、俺のアホアホ。何でもっと早くに思い出さなかったんだ。幾ら謙虚な性格とはいえ、それを使う場所にも善し悪しってものがある。
にんまりと微笑んだ私は、慌ててリビングに散らかした缶ビールやスナック菓子、そして死んでしまった《冷え冷え》を片づけ始めた。押さえようとしても、口許には押さえきれない笑いが浮かぶ。
サウナの部屋よ、さようなら。愛しのクーラー、こんにちは。そして私は、この2日間の寝不足と憂鬱を一気に解消してやるんだ。to be continued
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