Secret Mission <おまけ>

鳴海璃生 




「アリス…」
 低い声と髪に触れる指先の感触に、私は薄く目蓋を開けた。半分シーツの中に埋まったような恰好で、私はゆっくりと視線を動かし、辺りの様子を一瞥した。目に写るセピア色に滲んだ風景はどこかよそよそしく、見慣れないものだった。
「アリス、起きたのか?」
 セピア色の風景をそのまま音に置き換えたかのような低い声。まるで天鵞絨のような感触にうっとりと息を吐き、私は声のする方へと視線を彷徨わせた。風景に溶け込むように長身の影が私を見下ろしている。
 手櫛で撫でつけたようなヘアスタイル。黒いスーツにだらしなく緩めた黒いネクタイ。きっちりした恰好とは言い難いが、服の取り合わせだけ見れば、まるでこれから葬式にでも行くかのような恰好だった。だがしかし目を凝らして見ると、襟のボタンを一つ開けたシャツは白ではなく峡谷の水の色を薄く溶かしたかのような淡い浅黄色だ。もしかしたら黒に見えるスーツとネクタイも、実は濃い藍色かリクルートスーツのような紺色なのかもしれない。
「おはよ。もう行くんか?」
 温かいシーツの中で僅かに身動ぎし紡ぎだした声は、自分でもびっくりするぐらいに掠れていた。もし声に手触りがあるなら、まるでがさがさの藁半紙に触れているような味気ない感触だろう。いくら寝起きとはいえ余りにも酷すぎる。
 こくりと唾を飲み込み眉を顰めた私を見つめ、火村が滲むように口許に柔らかな笑みを刻んだ。ゆっくりと髪を梳く仕種は、まるで指先で子守歌を奏でているかのようだ。
「ああ…。お前は寝てていいぜ。チェックアウトは1時に変えてある。学会の方は12時までだから一度部屋に戻ってくるつもりだが、もし戻って来れなかったら悪いがチェックアウトしてロビーかティールームで待っててくれ」
「わあった。居眠りせんよう頑張ってな」
 寝惚けた頭で了承の返事を返し、私はごそごそとシーツの中に潜り込んだ。傍らで動く人の気配を意識の片隅で感じながら、ゆっくりと目蓋を閉じる。
 ---火村が戻ってくるんやったら、目覚ましはええかなぁ…。あ〜でも、もし戻ってこんかったら……。
 頭の中でこれからの段取りを描こうとしても、徐々に意識は睡魔の甘い誘惑に絡め取られていく。
 ---ん〜、チェックアウトが1時やったら…。
 ざらりと何かが意識の片隅に引っ掛かった。睡魔に抱かれそうな意識を必死で手繰り寄せ、そして---。
「ちょー待てっ。チェックアウトやてッ!?」
 腕立て伏せのようにシーツに両手をついて、がばりと半身を起こす。が、私はすぐにぐしゃりとシーツの中に沈み込んだ。身体の中に、鉛か砂袋を詰め込んだような倦怠感。何とか起きあがろうとしても、今日はやけに地球の重力が強く感じられる。
「う〜、何なんや一体」
 低く呟いた私の頭上から、低い溜め息の音が降る。
「何やってんだよ、お前は」
 呆れたような声音が鼓膜を振るわせる。絨毯を踏む微かな足音に続き、シャッと勢いよくカーテンが左右に割れた。窓から飛び込んで来た光の粒子が部屋に満ち溢れる。余りの眩しさに、私は顔を顰めるように目を細めた。
 重い身体をぐるりと回転させ、窓際に立つ長身へと視線を移す。窓に寄りかかるようにして立った助教授の姿は、まるで出来すぎの彫像のように一部の隙も無駄もない。
「何やあらへん。君、チェックアウトって言うたか?」
「言ったぜ。それがどうかしたか?」
「嘘やろーっ!」
 いつものクールな口調で語られた応えに、私は再び半身を起こし、敢えなくシーツの海に沈没した。そんな私の様子を窓辺に立つ助教授が、白々とした表情で見下ろしてくる。眼差しの中にどこか揶揄するような色合いが透けて見えるのは、果たして私の勘違いだろうか。
「嘘言ってどうするよ。学会は4日間。最終日の今日は12時で打ち上げだ」
 淡々と語られる火村の言葉に、私は愕然とした。学会が今日で終わりなら、ここまでやって来た私の労力は一体どう報いられるってんだ。
 期待に胸膨らませた、私の優雅なホテルライフ。クーラーの効いた部屋の中で過ごす鮪トドな至福の時。惰眠を貪って本を読んで、ついでにプールで泳いで---。夢に描いた私のパラダイスを一体どうしてくれるのだ。
 頭を抱え込むようにベッドに突っ伏して唸る私に、火村のバリトンが降り注いでくる。
「明日帰るっていうのにわざわざ東京くんだりまで来てくれたから、俺はアリスの愛にいたく感動していたんだがな。そうか知らなかったのか。そりゃ悪いことをしたな」
 一見同情するような慰めの言葉も、声に含まれるどこか楽しそうな色合いに一掃される。
 違う。今日の夕飯を賭けてもいいが、絶対にこいつは全部を理解していて楽しんでいたに違いない。
「そんな親切ごかしたって、俺は騙されへんからな」
 シーツに突っ伏したままじろりと横目に睨みつけると、火村は大仰な仕種で肩を竦めてみせた。大股にベッドに近寄り、僅かに空いた空間に腰を下ろす。ベッドが僅かにぎしりと傾いだ。
「何言ってんだよ。学会がいつまでかなんて、婆ちゃんに聞いていたんだろ」
 そんなのは当然だと言うような火村の口調に、重い溜め息が零れる。---聞いていない。婆ちゃんから一昨日から火村が東京に行っているとは聞いたが、それがいつまでかなんてのは聞いていない。いや、もしかしたら婆ちゃんは、ちゃんとそのことも言ってくれたのかもしれない。だがどうやらその大事な言葉は、私の耳を素通りしてしまったらしい。ここは己の迂闊さを反省すべきか、それとも---。
「それに俺が電話した時にも、ちゃんと言ったじゃねぇか」
 殊勝な気持ちが空気の抜けた風船のように萎む。私は『反省』という単語を丸めてゴミ箱の中に投げ捨てた。ここは反省するより先に、助教授を恨む方が真っ当なな対処の仕方だ。口許刻まれた笑いに、助教授の底意地の悪さが透けて見える。決して私の迂闊さが悪いんじゃない。全ては火村の底意地の悪さが、諸悪の根元なんだ。
「君、あん時俺が邪険に電話を切ったのを根に持ってるやろう」
 ぼそりと呟いた言葉に、火村は心外だと言わんばかりの表情を作る。だが絶対これは、私の八つ当たりでも気のせいでもないはずだ。でなければ、今私がベッドから起きあがれなかったり、昨日来て今日帰るだなんて不幸な羽目に陥るわけがない。
 ---畜生、めっちゃむかつくで。結局いい目見たんは、火村だけやないか。
 重い身体をぐったりとシーツに伸ばし、私はぐっと拳を握りしめた。確かに夕食は奢って貰った---しかもカレーじゃなく、中華だ---が、有言実行な火村先生はそのあとのサービスってのもきっちりと実行してくれたのだ。眠ったのか気絶したのか判らない状態で意識を手放した時には、絶対1番早起きな蝉はどこかで鳴いていたに違いない。それでも今日からの鮪トドなパラダイスが待っていると思えば、全てがパラダイスへの回り道だったのに---。
「言い掛かりだぜ、アリス。全ての原因はお前だろ。ゴロゴロした生活がしたきゃ、家帰ってからやればいいじゃねぇか。食事の面倒ぐらいはみてやるぜ」
 ニヤニヤ とどこか楽しげな笑いを含んだ言葉に、私は眉を寄せた。それができるくらいなら、誰がわざわざ東京まで来るかってんだ。
「あかんねんもん」
 力の抜けたような声に、火村がおやと眉を上げる。私はちらりと助教授に視線を走らせ、もそもそとシーツの中に潜り込んだ。
「うちのクーラー、今壊れてるんやもん。電気屋さん忙しいらしいし、修理はいつになるか判らへん」
 シーツの中からくぐもったような声で、ぼそぼそと呟く。瞬きの間ほどの沈黙が部屋に落ちる。ついでポンポンと軽く、シーツ越しに火村が私の頭を叩いた。
「そりゃご愁傷様。だったら、アリスは暫くの間俺の部屋に避難だな。---さて、と。そろそろ行くか。あと宜しくな」
 ぎしりとベッドが軋み、ゆっくりと火村の気配が遠離っていく。遠くでパタンと扉の閉まる軽い音が響き、部屋の中にはしんと冷えた沈黙が満ちる。そっとシーツから頭を覗かせ、私は光の踊る部屋に視線を彷徨わせた。つんと鼻をつくのは、嗅ぎ慣れた煙草の匂い。見知らぬよそよそしい部屋の風景も、それだけで私の膚に馴染む場所になる。
「火村の部屋で避難になんかなるかい」
 負け惜しみのような言葉が、染みるように光の中に溶けていく。そのあとには、どこかふんわりとしたくすぐったいような幸せだけが残っていた。


End/2000.10.19




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