Secret Mission <5>

鳴海璃生 




 火村の所に行ってやるッ---そう思った時、アリスの頭の中にあったのは、とにかくクーラー。夏の暑さを蹴っ飛ばして、すっきりひんやり冷えた心地よい空間で、ゴロゴロ鮪かトドになって怠惰の限りを貪って、それに飽きたら本を読んで、昼寝をして、名だたるシティホテルだからついでにプールで泳いだりして幸せな1日を終わる。そういうパラダイスを夢見ていたのに、何で来た早々こうなってしまうのか。
 そうこう考えている内にも、火村の動きが徐々に具体的になってくる。---冗談じゃない。このまま好き勝手にされてたまるもんか。
「火村、やめいッ。こんなん俺の予定に入ってへん言うてるやろ」
「気にするなよ」
「気にするわい。俺はクーラーの効いた部屋でゴロゴロするために、わざわざこんなとこまでやって来たんやからな」
 火村を止めることが優先して、つい本音を大声で怒鳴ってしまった。まずった、と思った時には既に後の祭りで、喉の奥で小さく笑う火村の声がアリスの耳に届いた。
「アリース。もしかして恋しかったのは、俺じゃなくてクーラーなんじゃないのか」
 耳を掠めたバリトンの声に、一瞬の内に凍り付いたように動きが止まる。
 沈黙。---そして火村の笑い声だけが、耳に残る。
 ---あぁ、やってもた。俺のアホアホアホ。結局白状してしまったやないか。
 が、言ってしまったものは仕方がない。一度口に出した言葉を取り消すのが用意ではないことは、今までの経験から身に染みて判っていた。となると、残るは軌道修正。ここは何が何でも強気で押し通すしかない。
 アリスは気まずげな、それでいてどこか挑戦的な眼差しで火村を見上げた。その視線を正面から受け止め、火村が喉の奥でくぐもったように笑う。耳朶に触れる暖かな息づかいが妙にくすぐったい。
 ---畜生。やっぱこいつ、全部気づいてたんやないか。
 アリスは精一杯険を含んだ視線で、火村を睨め付けた。
「火村、根性悪いで。最初から気づいてたんやろ」
 腕の中に抱きしめられたまま、アリスはぼそりと呟いた。眉を寄せ、思いっきり陰険に言い放ったつもりなのだが、火村には一向に通じない。相変わらず火村は喉の奥で小さく笑い続け、笑いを納めようとはしない。否、どう見ても止まらないという感じだ。
「火村」
 不機嫌さ丸出し。出来うる限り低い声で、アリスは無礼極まりない犯罪学者の名を呼ぶ。その声に、漸く火村は溢れ出る笑いを押し殺した。
「アリス。普通気づかない方が、どうかしてるんじゃないのか。俺がバカンスも兼ねてるから一緒に来ないかと誘ったのを、あれだけ冷たくはねつけた奴が、今さら俺を恋しいなんて言ったからって簡単に信じられるわけねえだろうが」
 そう言われても、何て言ったかなんて全然覚えてない。だいたい締め切り前の人間に、まともな反応を期待する方が悪いんだ。極度の睡眠不足で頭はあっちの世界にいっちゃってるし、決して認めたくはないが、人間外生物であることを嫌でも認めざるを得ない状況なのだ。
 言い訳も返せず、さりとて覚えていないと真実を暴露することもできず、アリスは視線で無言の抗議を返すしかなかった。だがいくら睨みつけたといっても、もちろんそれに動じるような火村ではない。アリスの視線など気にもならない様子で、淡々と言葉を綴る。
「おまけに俺が恋しかっただの、会いたかっただの言ったすぐそばから、俺のことを恋人じゃない、なんてぬけぬけと返してくるしな」
 当然だ。私は火村の恋人なんかではありえない。火村だってそうは思ってないくせに、おふざけもしつこすぎると嫌味でしかない。
 「そういう君かて、俺のこと恋人なんて思ってないやろ」---火村の言葉にそう言い返そうとして、止めた。例えそうだとしても、それは私が口にしてはいけない言葉のような気がしたのだ。代わりに口をついて出てきたのは、我ながら呆れる程にすっ惚けた言葉だった。
「火村、もしかして腹空いてるんやないか?」
「は?」
 突然の脈絡のない言葉に、火村は間抜けた返事を返した。ま、当たり前か。私自身にも、寝惚けた台詞を口にしたとの自覚はある。
 言葉を操るプロの作家でありながら、こういう場合の言葉遣いの下手さには我ながら感心してしまう。でもだからといって、ここで前言撤回なんて真似を晒すわけにはいかない。めちゃくちゃだろうと何だろうと屁理屈ではどう頑張っても敵わないのだから、助教授相手には強気で攻めるしかない。
「せやかて君、さっきから嫌味ばっか言うてるやないか。それは、腹が空いてるせいやないんか。それに食欲と性欲は一緒やて言う---」
 いかん。自分の身が大切なら、これ以上は言わない方がいい。
 もちろん口にした台詞には、理由も何もあったもんじゃない。だが例えめちゃめちゃであろうと何であろうと、こういう場合は勢いで言い切った者の勝ちだ。その証拠に火村はうんざりした様子でアリスを見つめ、若白髪の混じった髪の毛を所在なげにぽりぽりと掻いた。
「別に腹は空いてねぇよ」
「ふ〜ん…。まっ、それならそれでええわ。でも、俺はお腹空いてるんや。こんなことやってる暇があったら、飯喰いに行きたいわ」
 上目遣いにじっと見上げたアリスに向かって、火村はこれ見よがしの態とらしい溜め息を一つ漏らす。そうして渋々というようにアリスの上から身を起こした。
「---判ったよ。何が喰いたい?」
「何でもええけど、和食はパスや。こっちの味付けは濃すぎて口に合わへん」
 言うなり鮪トド状態から脱却したアリスは、弾みをつけるように勢いよくベッドから起きあがった。お腹が空いたというのは、この場を逃れるための適当な言い訳だった---火村の自分に対する認識から考えれば、結構上手い言い訳だったとアリスは自負している---が、実際口に出してみると、相当に胃袋が空腹を訴えていることに気づく。そういえばこの2日間、暑さに参ってまともな物を口にしていなかったのだ。
「アリス」
 意気揚々と足取りりも軽くドアへと向かうアリスの背に、火村が低く声を掛けた。既に食事のことで頭が満杯状態のアリスは、振り向きもせずに曖昧な返事を返した。
「恋人じゃないなら、俺はお前の何だ? 躯を合わせる、ただの友人か?」
 思い描きもしなかった問い掛けを浴び、アリスが反射的に振り向いた。凍り付いたように火村と向き合う。
 ---もしかして俺、めっちゃ驚いたような顔を火村に晒しているかもしれん。
 いや、違う。実際、アリスは驚いていたのだ。まさか今この時に、火村からこんなことを訊かれようとは夢にも思っていなかったのだから。
 冗談なのか本気なのか、火村の本心を見極めるようと、アリスは食い入るように火村を凝視した。
 ---でも、俺には判らへんねんけどな。
 火村の言葉の意味も、本心も。火村の全てが、アリスにはいつも謎でしかない。
 もちろん心のどこかで、いつかその日がくるかもしれないとは思っていた。耐えきれなくなって、抱えきれなくなって、いつか問う日が来るかもしれない…、とは思っていた。だが例えその日が来ても、それを口にするのは火村ではなく自分だと、アリスは確信に近い感覚でそう思っていたのだ。
 だから、驚いた。ありえるはずのない瞬間を、目の前に突きつけられたことに。
 何度となく触れ合い、抱きしめ合い、口付けを交わし、数え切れないほど躯を重ねようとも、アリスと火村はお互いをどう思っているかを口にしたことはなかった。意識してそうしたわけではない。ただいつの間にか、それが二人の間の暗黙のルールになっていたのだ。
 だからアリスには、本当のところ火村が自分のことをどう思っているのかは判らなかった。面と向かって訊いたこともないし、訊こうとも思わなかった。
 ---違う。
 アリスは火村にそれを訊くのが怖かった。どんなにそばにいても、触れ合っていても、アリスには判らないことが多すぎるから…。
 ---なのに、何で俺やなく君が問うんや?
 それは、私にとってまだ夏が特別の季節だった頃…。忘れもしない、あの夏の熱い1日。
 あの時、先に手を伸ばしたのはどちらだったのだろう。欲しいと、手に入れたいと望んだのは、どちらが先だったのだろう。
 今でも、飢えに似た乾きを覚えている。焼け付くような痛みを覚えている。でもそれが火村のものだったのか、私のものだったのかが判らない。
 あの始まりの時、想いに応えたのは、私だったのだろうか、それとも火村だったのだろうか。一瞬の内に魅せられて捕らえられたのは、一体どちらだったのだろう。
 時の流れの中で、判らないことだけが増えていく。だから、訊けなかった。まだ大丈夫だと、そう自分をごまかしていることさえ忘れてしまうほどに…。
 判っていたのに、ずっと目を瞑っていた。気づかない振りをしていた。いつも、いつだって認めたくはなかった。認めてしまったら負けてしまうようで、全てが変わってしまうようで、口惜しくて怖かった。初めて会った時からずっと、私の中の火村は同じ位置にいたのに…。そして、火村にとっても私がそうであって欲しいと、ずっと私は望んできたのに---。
 火村と私の距離---。僅か1メートルにも満たない距離が、今は遙かに遠い。二人の間に横たわる沈黙が、空気の色さえ変えていく。その中で、火村の表情がゆっくりと皮肉気に歪んだ。
「なぁ、アリス。俺は、お前の何だ?」
 抑揚の無い口調。視線は昏く、刺すように強い。
 以前、府警の森下刑事が何気なく漏らした言葉をアリスは思いだした。「時々ぞっとする時がある…」と、そう彼はアリスに言ったのだ。聞いた時は判らなかった。でも、今なら判る気がする。それは、もしかしたらこういう時の火村なのかもしれない。
 なのに、不思議なほどに私は火村が怖いとは思わなかった。例え目の前にいるのが血に飢えた殺人鬼であ
ろうと、それが火村ならば、私はきっと怖いとは思わないのだろう。---それが答だと思う。私にとって、
火村はそういう存在なのだ。
 ---火村。お前、ほんまにずるいわ。
 そうやって気づかせて、目を瞑ることを許さない。私に答を求めるくせに、それなのに火村自身は何も言わない、返さない。彼の中の闇も、彼の中の想いも、彼の中の全てのものの断片だけを垣間見せて、何ひとつ答を与えてはくれないのだ。全てを手に入れたいと思っているのは、火村も私も同じなのに---。
「アリス…」
 抑揚の無いバリトンの声。冷たい指先が、そっと喉元に触れる。射るような視線の中、火村の双眸に微笑んでいるアリスが写っていた。
「火村は恋人やあらへん」
 戸惑うことなく応えたアリスの言葉に、火村の眸がゆっくりと細められる。喉元に触れる指先に、僅かに力が籠もる。
「---だって、そうやろ? 恋人には誰かてなれる可能性があるんや。でも、俺にとっての火村には誰もなれへんのやから…。火村は火村や。それ以上でもそれ以下でも、それ以外の何者でもあらへん。初めて会った時から、俺にとってはずっと特別なんやから」
 喉元に掛かっていた火村の指が、スローモーションフィルムを見ているようにゆっくりと動く。魅せられたように、アリスはその指先を目で追った。動き始めた時と同様に、ゆっくりと宙空で指が止まる。
「---あでッ!」
 途端、その指がピンとアリスの額を弾き、アリスは咄嗟に声を上げた。強く弾かれたわけではないが、むちゃくちゃ痛い。
「な、何するんやッ」
 ズキズキと痛む額を両手で押さえながら、アリスは恨めしげに火村を睨みつけた。目にはうっすらと涙が滲んでいる。
 私にしては珍しく、これ以上はないってぐらい一世一代の告白をしてやって、しかも一生言うつもりはないぞってなことまで言ってやったつもりなのに、それなのにその応えがこれかい?
 いくら何でもあんまりじゃないか。
「アリスにしては上出来の答だよな。その御礼に、今夜はカレーでも奢ってやるよ」
 クックッと喉の奥で笑いながら、火村はアリスの横をすり抜けた。
「ドアホッ! 俺の告白は、そんな安うはないわいっ」
 ドアを開け、廊下へと滑り出す火村の背中に向かって、アリスは大声で怒鳴った。が、言葉の全てを言い終える前に、無情にも重い扉はその大きさに似合わぬ滑らかな動きで閉まった。
「だーっ、腹立つ。何やねん、あいつはッ」
 地団駄を踏みたいほど口惜しい。何か火村にのせられて、とんでもないことを言ってしまったような気がする。なのにカレーだなんて、冗談じゃない。せめてフランス料理とか、中華料理ぐらいは奢れ。
 閉じたドアを睨みつけながらぶつぶつと呟いていると、閉まったドアが音もなく開いた。細い隙間から、火村が顔を覗かせる。
「何やってんだ。さっさと来ねぇと、奢ってやらねえぞ」
 ニヤニヤと質の悪い笑みを口許に張り付けた火村に向かって、思い切り顔を顰めてみせる。
「カレーは安すぎや」
「なら、ハンバーグがいいか?」
「あのなぁ…」
 止まらない火村の笑いに、いい加減毒気も抜ける。何となく身体中から気張っていた力が抜け落ちたような気がして、アリスはがっくりと肩を落とした。顔の前で、力無く手を振る。
「も、いい。奢りやったら何でもええことにするわ」
「もちろんその後、たっぷりサービスしてやるって」
 笑いながら片目を瞑った火村の意味ありげな表情に、カッと頬に血が上る。こいつ、結局そこに話をもっていくか。
「アホっ。んなサービスして貰わんでもええっ!」
 火村の楽しそうな笑い声とアリスの怒鳴り声が、部屋中に響き渡った。


−5−

 いつだって夏は特別だった。忘れていた時も、そうじゃないと思っていた時も---。
 そしてこれからも、私にとって夏は特別な季節なのかもしれない。嫌味で我が儘で、そして誰よりも私にとって特別な犯罪学者がそばにいる限り、きっとそれは変わらない。
「ほんまは君と一緒にいれば、さりげなく過ぎていく日々の全てが愛しくて特別なんや」
 なんてなことを言ったら、火村は笑うだろうか。
 並んでホテルの玄関を出たところで、アリスは空を見上げた。陽が沈み、空の色が青から藍に変わっていく。地球の色が少しずつ宇宙の色に染まる。
「アリス、何やってんだよ」
 ロビーを出るや否やキャメルに火をつけた火村が、立ち止まってアリスを振り返る。その顔に、アリスはにやりと笑いかけた。
「何でもあらへん。それより、はよ行こう。もうお腹ペコペコや」
 僅かに肩を竦めた火村の横を小走りに駆け抜けて、アリスは歩道へと続く階段を駆け下りた。
「おい、アリス」
 呆れたように、火村が背後からアリスを呼ぶ。その声に足を止め、アリスはゆっくりと振り向いた。
 私の名を呼ぶ時の、誰とも違う独特のイントネーション。優しくて皮肉気で、愛しくて、時々憎たらしい。
 ---俺の名を呼ぶ君の声が好きや。…もちろん、絶対言わへんけどな。
 くわえ煙草の火村が、ゆったりとした足取りで階段を下りてくる。それを見つめながら、アリスは火村が隣りに並ぶのを待った。


End/2000.10.19




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