第六感養成講座

鳴海璃生 




「う〜ん…。よしっ、これや!」
 閉じていた目蓋を開き、宣言するかのようにそう言って、私はピシッと勢いよく床の上に鏤められたトランプをひっくり返した。出てきた数字は、スペードの8。初めに私が開いていたトランプとは、物の見事に違っている。
「あ〜、何でやねん。俺の第六感は、間違いなくこれやと告げてたのに…」
 肩を落とし、私ははずれた2枚のカードを裏返した。これで既に8回続けて、はずれの数字を開いてしまったことになる。
「バッカじゃねぇの。最初はともかく、ここまで来たら勘じゃなくて記憶力の問題だってーの」
 よっ、と年寄りくさい掛け声をかけ、向かい側で胡座をかいた犯罪学者はひょいひょいと裏返しのトランプをひっくり返していく。口惜しいことに、出てくる数字出てくる数字、物の見事に同じなのだ。
「チッ、しまった。隣と間違えたぜ」
 このまま全てのカードを引き当てるんじゃないか、とさえ思えた先生は、最後に開いたカードの数字を見て、小さく舌打ちした。隙のない仕種で、数字のはずれたトランプを裏返し、開いている8枚のカードを纏めて膝の脇に置く。堆く積まれたトランプの山にちらりと視線を走らせ、私は僅かに眉を寄せた。対する私のカードといえば、床と同じ程度の高さしかない。
「これは第六感を磨くためにやってるんやから、記憶力になんて頼らへんもん」
 目を閉じ、掌をトランプの上に翳す。端から見ると、まるでインチキ超能力野郎のごとき仕種だが、私自身はそれなりに真剣なのだ。
「既に5連敗もしている奴の台詞じゃ、単なる負け犬の遠吠えにしか聞こえねぇな。もっとも第六感じゃなく記憶力に頼ったとしても、結果は似たようなもんだろうがな」
 何を言いやがる、この野郎。ぷっと紫煙を吹きだしながらの台詞に、私は思いっきり眉をひそめてやった。
「うっさいで、君。俺の集中のじゃまをすんなや」
「そりゃ、失礼」
 閉じた目蓋の向こうに、人をちゃかしたような犯罪学者の雰囲気が感じられた。だらりと身体を伸ばした様子さえもが、まざまざと目蓋の裏に描き出せる。
 ---畜生。俺は絶対負けへんで。
 決意も新たに、私は神経をトランプに集中させた。
 梅雨明け間近な7月の午後。窓の外には、夏を思わせる青空が広がっている。朝からぐんぐん上昇を開始した水銀柱の高さは、お昼のニュースでは体温なみの温度にまで上がってしまっていた。
 だが、がんがんに空調を効かせたこの部屋の中では、そんな外の暑さもまるで関係が無かった。ひんやりと冷えた空気の中で繰り広げられているのは、外の気温にも負けないぐらいの熱いバトル。記憶力対第六感の真剣勝負。そう---。専業推理作家である私、有栖川有栖は、長年の友人である犯罪学者の火村英生を相手に、神経衰弱をやっているのだ。
 いい年齢をした大人が、一体神経衰弱ごときで何を熱くなっているんだ、とお思いの方も多々あろう。私だって、他人が同じことをやっているのを目にしたら、アホやなぁ…、と思うに違いない。だがこれには、深く悲しく、とってもご愁傷様な理由があるのだ。
 畜生、火村のアホ野郎。食い物の恨みは深いんだからなッ。

◇◇◇

 ことの発端は、数時間前に遡る。
 頑張って朝も早くから起きてた私は、今か今かと玄関のチャイムが鳴らされるのを待っていた。というのも、昨日私の担当編集者である珀友社の片桐から、お中元に私の大好きな柏水堂のチョコレートを送ってくれたという電話があったのだ。
 柏水堂というのは珀友社の近くにある老舗のケーキ屋さんで、しかも口惜しいことにそこにしか店を構えていないという穴場的存在の店だ。厳選した素材で伝統の味を安くという方針を貫いているため、この店には2代、3代と続くファンが多いらしい。斯くいう私も、まだ初々しい駆け出し作家の頃、初めて珀友社を訪ねた時に打ち合わせと称して柏水堂に連れて行って貰ってからずっと、この店のファンだったりする。そこのチョコレートが午前中に着く予定なのだから、これはもう起きて待ってるしかないだろう。
「10時半過ぎか。もうそろそろやな」
 ちらりちらりと壁の時計に視線を走らせる。長針と短針の指し示す時間は、午前10時30分を回ったとこだった。午前中指定または指定無しの宅配便ならば、私の家にはだいたい10時半から11時の間頃に着く。それを考えあわせると、もうそろそろドアホンが鳴り響いても言い頃合いだ。
 普段なら迷惑千万な午前中の宅配便も、今日は待ち遠しくて仕方がない。いつドアホンが鳴ってもいいようにと、テーブルの上には印鑑もぴっしり用意してある。備えあれば憂いない。用意万端整えて、いざおいでませ黒ネコちゃん。---とその時、ピンボーンと軽やかな音が空調の効いたリビングに響いた。
「来たーッッ!」
 テーブルの上の印鑑をひっ掴み、足音も高らかに玄関へと向かう。相手を確かめもせず、勢いよくドアを開ける。むっとした熱い空気と共に、驚いたように目を瞠った配達のおじさんの顔が視界に飛び込んできた。
「おはようさんです、有栖川さん。今日は起きてらしたんやね」
 原稿の入った封筒を取りに来て貰ったり、出版社からの献呈本を運んできて貰ったりしているため、目の前の初老の配達員とは既に顔なじみと言っても過言ではない。目許に皺を刻み、柔らかな笑みを湛えた表情に、私は苦笑を返した。
「昨日荷物を送った言うて電話貰ってたんで、頑張って起きたんですわ」
 頭を掻きながらエヘヘと笑い、印鑑を渡す。所定の位置に判を押したおじさん---確か横沢さんとかいう名前だったと思う---は、雑誌2冊分ほどの四角い箱と印鑑を手渡してくれた。両手で抱えた箱はひんやりと冷えていて、素肌の腕に心地いい。
「何や生ものみたいやから、有栖川さんが起きててくれて良かったわ。ほな、また」
「あっ、ありがとさんです」
 くるりと踵を返した背に向かって声を掛ける。年齢を感じさせない軽い足取りで廊下を小走りに走っていった横沢さんは、エレベータに乗り込む前に振り返って、軽く手を挙げた。それにぺこりと会釈を返し、私はドアを閉めた。
 いそいそとリビングに戻り、ぺたりとフローリングの床に腰を下ろす。そっとテーブルの上においたダークグリーンの包み紙と金色の細いリボンできれいにラッピングされた箱を眺め、私は顔の筋肉が緩むのを止められなかった。
「さすがは片桐さんや。ありがたやありがたや」
 テーブルの上に鎮座ましました箱に向かって、思わず手を合わせる。毎回律儀に盆暮れの付け届けを送ってきてくれる珀友社イコール片桐さんは、その品物もきちんと私の好物を選んで送ってきてくれるのだ。私の好きな店のお菓子やチョコレートは言うに及ばず、ちょうどその時期に凝っている食べ物やビールにお酒。それは毎回驚くぐらいにどんぴしゃりと、ビンゴ状態だった。
 特にこれとはっきり言った覚えも、何が欲しいと催促した覚え---当たり前だ。私がそんな真似するのは、火村に対してだけだ---もないから、きっと会話の端々、言葉の一つ一つを覚えていてくれるのだろう。
「ほんまに編集者の鏡やな」
 満面の笑みで金の細いリボンをはずし、破らないように気をつけて包装紙を開ける。中から現れたチョコレート色の箱の蓋をそっと取り上げると、形や色の違うチョコレートが行儀良く並んでいるのが視界に飛び込んできた。
「やっぱ美味そうやなぁ…」
 並んだチョコレートに、じっと視線を注ぐ。ここのチョコレートはどれもこれも、みんな美味しいのは良く判っている。だがその中でも、私の1番のお気に入りはナッツクリームが入っているものだった。ほんのりミルクとクリームの味のするチョコレートに、絶妙の割合で余り甘くないナッツクリームが練り混んであるそれは、口に含むとうっとりするぐらいの絶品チョコなのだ。ああ、思い出しただけでも、涎が出てくる。
「えっと、どれやったっけ?」
 それぞれ色や形やデコレーションが微妙に違ってはいても、ホワイトチョコレートとブラックチョコレートのようにはっきりとした違いがあるわけではない。睨みつけるようにチョコレートを見つめ、ついでに手を翳してみる。そうして、何かを確かめるようにゆっくりと手を動かしていく。端から見れば怪しげな超能力者もどきの仕種だが、私にしてみればこれ以上ないぐらいに真剣そのものだった。
「よし、これやッ!」
 チョコレートの上を移動させていた手を止め、その真下にあるチョコわつまみ上げる。陽に翳すように眺めまわし、ぽいっと口の中に放り込んだ。舌の上でとろけていく感覚に、うっとりと目を細める。
「あ〜、美味いわ。---って、これとちゃうやんか」
 口にしたチョコレートは、申し分なく美味かった、が、残念なことに、それは私が食べたかったナッツクリームのチョコではなかった。
「1回目で当たったら、マジでエスパーやからな」
 「ほんじゃま、次」と気を取り直し、私は再度チョコレートの上に手を翳した。そうしてはずれること4回。それでも諦めずに5回目のチョコレートに挑戦しようとした時、頭の上からぬっと腕が伸びてきた。あれれっ、と思っている間に、長い指がチョコレートを一つつまみ上げる。
 ゆっくりと空を切るように動いていくチョコレートにあわせて、私の視線も動いていく。行き着いた視線の先には、見慣れた犯罪学者の顔があった。
「火村ッ! お前なんで---」
「玄関開いてたぜ。相変わらず不用心だな」
 呆れたような口調でそう言いながら、火村は止める間も無く、手にしたチョコレートを口の中に入れた。
「あーーーッッッ!」
 悲鳴のような大声に、火村が眉を寄せる。
「何だよ、煩せぇな」
「煩ぇとちゃうわ」
 思わずズボンの裾に縋り付く。
「出せ、出せ。それ喰うんやないッ。とっとと吐き出さんかい!」
「なに無茶苦茶言ってんだよ。もう喰っちまったぜ」
 外人のような気障な仕種で、火村は肩を竦めてみせた。人によっては滑稽にも写るそんな仕種が、妙に填っているのが小憎らしい。
「これ、前にお前が土産だって言って買ってきたチョコだろ。相変わらず美味いよな、このナッツクリームのやつ」
「何やって…?」
 全身の力が抜けたようにペタリと座り込み、呆然と呟く。頭の中では、ガーンとかゴーンとか銅鑼の音がけたたましく鳴り響いている。
 人様のチョコレートを無断で喰っただけじゃなく、私の1番大好きなナッツクリームのチョコを喰ってしまっただと?
 しかも私が4個もはずしたっていうのに、何でこいつは1回で大当たりなんだ。理不尽だ。もしかしてこの世には、悪魔しかおらんのかい。
「---出せ」
「はぁ?」
 拳を握りしめ、ぼそりと低く呟いた声を聞き咎めるように、火村は少しだけ腰を折った。
「出せッ。吐き出すんや。ナッツクリームのチョコは、俺が1番楽しみにしてたやつなんや。それを喰うてまうなやんて、人非人。極悪非道の鬼、悪魔」
 ぐいぐいとズボンの裾を引っ張る私に、火村は呆れた表情で緩く頭を振った。
「他にもまだあるじゃねぇか」
「ナッツクリームは1個だけなんや。ドアホ。どないしてくれるねん、俺のナッツクリームチョコっ!」
 今にも掴みかからんばかりの勢いに、火村がうんざりしたように溜め息をつく。が、それも束の間、すぐに火村はにやりと口許に笑みを刻んだ。
「しょーがねぇなぁ。そこまで言うなら、返してやるよ」
「へっ?」
 きょとんとした表情で見上げた視界の中に、火村のドアップが迫ってくる。
「おい君、何---ん…」
 不意に口づけられ、咄嗟に目を瞑る。何とか逃れようと身を捩るが、肩を押さえられ、それもままならない。我が物顔で口内を蹂躙する舌の動きには、逆らう術もなかった。呼吸も上手くできず、息苦しさに頭を振った時、始まりと同じ唐突さで火村は口付けを解いた。
「何すんねん、アホ」
 手の甲で唇を押さえ、少しだけ上がった息を整える。尻餅をついたままでズリズリと後ろに下がるが、すぐにテーブルにぶつかってしまい、私は動きを止めた。ニヤニヤと楽しそうな表情の火村は、膝をつき私の顔を覗き込んできた。
「何って、返してやったんだろうが」
「---何を?」
「喰っちまったチョコレート」
 見せつけるように、ゆっくりと舌で唇を嘗める。まるで生き物のように薄い唇の上を動いていく舌に、思わず私の目は釘付けになる。ドキンと鼓動が跳ね上がり、同時に全身の血が沸騰したかのような感覚を覚え、ごくりと息を飲んだ。
「こ、このドアホ。そんなんで返したことになるかいッ!」
「そうか? じゃ、もう1回---」
「いらんわッ!」
 ひょうひょうとした表情で近づいてくる火村の顔を押しのけ、私はハァーと大きな溜め息をついた。
「だいたい俺が4回もはずしたってのに、何で君は1回で当ててしまうねん」
 がっくりと肩を落とした私の頭上から伸びてきた腕は、箱の中のチョコレートをまた1個浚っていった。
「そりゃ、日頃の行いの差ってやつじゃないか?」
 したり顔でにやりと笑い、チョコレートを口の中に放り込む。冗談じゃない。日頃の行いが根底にあるのなら、ナッツクリームは間違いなく私の胃の中に収まっているはずだ。
「いいや、違う。きっとこの暑さで、俺の第六感が鈍ってるんや」
「そりゃ、ご愁傷様なことだな」
 私の言葉を右から左に聞き流し、火村は再度チョコレートへと手を伸ばす。それをぴしりと叩き落とし、私はチョコレートの入った箱の蓋を閉めた。胸の中に抱き込むように箱を抱きしめ、火村の鼻先にぴしりと指を突きつける。
「俺のチョコを喰った罪は重いんや。その罪滅ぼしに、君には協力する義務がある」
 何を、と訊ねる代わりに、火村は眉を上下させた。
 斯くして鈍った私の第六感を復活させるために、トランプの神経衰弱を始めたのだが、今までの結果は火村の5戦全勝一人勝ち。ああ、私の一体なにが悪いというんだ。

◇◇◇

「5で8で2…と」
 歌うように口ずさみながら、ひょいひよいと長い指がカードをひっくり返していく。その動きを見ているだけで、むかむかと胸の中が苛ついてくる。私の第六感が火村の脳味噌の皺に負けるなんて、全く持って口惜しいったらない。
「ほい、これで終わり」
 火村が最後の1枚をひっくり返す。とその時、まるでその瞬間を待ちわびていたかのように電話のコール音が鳴り響き始めた。ぎくりと反射的に身を竦め、音の方向へと視線を移す。
「フィールドワークのお誘いやないんか?」
「お前の第六感か? だったら、違うんな」
 にやにやと笑いながら、小憎らしいことを言う。それを横目に睨みつけながら、私は電話のおいてあるローチェストの方へと這っていった。
「もしかしたら片桐さんからじゃねぇのか。チョコレート着きましたか、って確認の電話だぜ、きっと」
 背中を追ってきたバリトンの声に、確かにそれはあり得るかもしれないと納得する。何事にも律儀な片桐さんのことだ、きちんと予定通りに中元の品がついたかどうか、遙か東の空の下でやきもきしているのかもしれない。
「もし片桐さんからやったら、せっかくのチョコレートを火村に喰われたって言うてやる」
 ぱらぱらと優雅な手つきでトランプを繰っている男をじろりとひと睨みして、私は煩く自己主張を続けている電話機から受話器を取り上げた。
「はい、有栖---」
『遅いッ。何してんねん』
 こちらが名乗る前に、元気のいい声が耳に飛び込んでくる。声の主は、京都在住の先輩推理作家、朝井小夜子女史だった。
 それにしても、私の知り合いはどうしてこう電話のかけ方が一方的なのだろう。煙草をくわえ、トランプを切っている助教授も、またしかりだ。それとも、京都に長く住んでいると、皆こういう電話のかけ方になってしまうのか。---いやいや、それは余りにも他の京都市民の方々に対して失礼というものだろう。
『ちょお、アリス。聞いとんの?』
 威勢の良いハスキー・ヴォイスが、キンと耳朶を打つ。何だっていつもこんなに元気なんだろう、この人は---。溜め息を隠し、私は受話器を握り直した。
「ちゃんと聞いてますよ。どないしたんです。こんな時間に珍しいやないがすか。何かあったんですか?」
『別に何もないわ。今、大阪まで出てきてるんやけど、これからビールでも呑みにいかへん? どうせ火村先生と二人して閑してんのやろ』
 まるで見ていたかのような台詞に、思わず舌を巻く。それにしても、どうしてここで火村が出てくるんだ。もしかして、火村が私の家にいる、と朝井さんに教えたのだろうか。いや、まさか。幾ら何でも、そんなはずはあるまい。
「朝井さん。何で、火村がここにいてるって判ったんですか?」
 口をついて出た素朴な疑問に、小夜子はけらけらと高い声で笑った。
『やっぱり先生、そこにいるんや。明日休みやから、もしかしたらそうやないかと思うたんやけど、私の勘、大当たりやね』
 これぞ正しく女の勘てやつだろうか。ああ、恐ろしい。そう思いつつも、彼女の言葉の中のフレーズに、私は緩く首を傾げた。
「休みって、明日は水曜日でしたっけ?」
 朝井さんが火村のことを気に入っているのは良く知っているが、だからといって奴のスケジュールまで把握しているなんてことはないはずだ。---だとは思うが、相手は天下の朝井小夜子。何がどう転んで、火村のスケジュールが彼女の耳に入ったとしても、決して不思議じゃない。
『水曜日? 何言うてんの、あんた』
 私の問い掛けに、今度は小夜子が訝しむような声を返す。口調から何だか話に妙なずれを感じるが、その原因が私にはさっぱり判らない。押し詰まった締め切りも無く毎日が夏休み状態で、私の体内カレンダーもいい加減怪しくなってきてはいる。だがそれでも、明日が週末ってことだけはないはずだ。それ以外で平日休みといえば、火村の講義の無い水曜以外の一体何があるっていうんだ。
「えっ! やって明日が水曜日で火村の講義の無い日やから、朝井さん明日休み、って言うたんやないんですか?」
『今初めて知ったわ、そんなこと。ついでにあんたのカレンダーが、火村先生を中心に回ってるってのも、良ぉ判ったわ』
 呆れを含んだ小夜子の言葉に、私はひくりと頬を引きつらせた。冗談じゃない。誤解も甚だしすぎる。別に、私のカレンダーが火村を中心に回っているわけじゃない。単に平日で休みといえば、それ以外に思いつかないだけだ。
『余所で余計な恥をかかん内に教えてあげるけど、明日は日本全国休みの日やで。国民の祝日って日やわ』
 余計な世話だと思いつつも、小夜子の言葉をおとなしく拝聴していた私は、最後の祝日という単語に頭を捻った。こんな時期に国民の祝日なんて、そんな有り難いもんが果たしてあっただろうか。
「祝日なんてありましたっけ?」
 受話器の向こうで、小夜子が大仰に溜め息を吐いた。鬱陶しげに髪を掻き上げる仕種までもが、まざまざと見える気がする。
『あるやろ。7月20日、海の日やないの』
「海の日?」
 小さく口中で繰り返す。そう言われてみれば、確かにそういう出所不明な祝日があった気がする。ああ、そうだ。そういえば去年、「試験中だってぇのに、冗談じゃねぇ」とか何とか、火村がブツブツと文句をたれていたっけ。
「明日が休みってのは、よーく判りました」
『やったら、何も問題はあらへんね。今ヒルトンのティールームにいてるんや。これから---』
「ちょっと待って下さい」
 慌てて小夜子の言葉を遮る。このまま放っておくと、勝手に納得して仕切られてしまう。
「急にそないなこと言われても、こっちにだって都合ってものが---」
『何かあんの?』
「いや、ありませんけど…」
 ああっ、しまった。朝井さんの勢いにつられて、つい反射的に応えてしまった。受話器の向こうでしてやったりと、微笑む彼女の姿が脳裏を過ぎる。
『やったら、ええやないの』
「いや、俺は良くても火村の都合が---」
 言葉を濁し、助けを求めるように慌てて視線を移す。のんびりと煙草をくゆらせていた助教授は、どこか諦めを含んだ風情で肩を竦めてみせた。チッ。小夜子の誘いを断る口実を、何か適当に考えてくれればいいものを---。普段は偉そうにしているくせに、いざとなると使えん先生だ。ええいっ、お前の脳味噌の皺は何のためにあるんだ。
 もちろん私だとて、先輩作家である彼女と呑むのが嫌なわけじゃない。気っぷの良い姉御膚の小夜子との酒席は、総じて楽しいものである。だが、夕方近いというのにギンギラギンと輝く太陽。クーラーの効いた部屋の中にいてさえ想像できるその熱気を考えると、自然と外に出ていくのが億劫になってくるのだ。
『ちょっとアリス、どないしてん。火村先生は何て言うてはるの?』
 焦れたようなアルトの声に、私は大きく息をついた。私ごときが朝井さんに立ち向かおうなんて、きっと数10年は早いに違いない。
「火村も別にこれといった予定はないそうですから、今から出れます。ヒルトンのティールームに行けばええんですね?」
『この間連れてってくれた新世界の串カツに行きたいから、私がそっちに行くわ。でもその前に、もう1件すまさなあかん用事があんねん。やから、6時にMIOの旭屋書店で待ち合わせしよ』
「判りました。それやったら、文庫のとこで待ってます」
『ええよ。---なぁ、アリス』
 何かを含んだように、小夜子が電話の向こうでクスクスと笑う。
『私の第六感もなかなかのもんやな。火村先生がそっちにいてるって睨んだのは、たいしたもんやと思わへん?』
 応えに窮し、引きつったように乾いた笑いを返す。どこか勝ち誇ったような笑いを耳に残し、小夜子は通話を切った。鼓膜を振るわせる不通話音に、私はうんざりしたように詰めていた息を吐き出した。たいしたものどころか、女の第六感てのは恐ろしすぎる。
「お前の第六感より、朝井さんの方が冴えてるみたいだな」
 不意に響いたバリトンの声に、私は勢いよく声の主へと振り返った。確かにそうだとは思うが、素直にそれと認めるのは口惜しい。
「そんなことあらへんもん。今までのは、ちょっと調子が悪かっただけや」
「へぇ。だったら、もうひと勝負するか? 朝井さんとのまちあわせまで、時間はまだ十分あるだろう」
 にやにやと笑いながら、火村が手の中でパラパラと器用にトランプを繰る。その様子はまさに癖の悪いギャンブラーそのもので、助教授なんかよりずっと彼に似合っている。
「受けてたったろやないか。今度こそ俺の勝ちやで」
 大股に火村の方へと歩み寄っていき、私はどすんと乱暴に腰を下ろした。既に 6連敗しているのだ。幾ら何でも、これ以上負けることはあるまい。それに世の中、七転び八起きという有り難い格言が…。---と、いけない。7回目は転んではいけないんだった。そうじゃなくて、ここはラッキーセブンだ。甲子園の阪神戦でいえば、ブワァ〜と風船が球場を覆う大一番だ。
「大した自信だな。それじゃ、何か賭けようぜ」
 裏返した札をフローリングの床にばらまきながら、火村が上目遣いに見上げてくる。どこか意味深なその眼差しに、ぎくりと背筋を寒いものが這う。が、元来の負けず嫌いが頭をもたげ、「嫌だ」という言葉を引き止めた。毎回毎回これで、後悔先に立たずを実践することになってしまうのだが、戦わずして負けを認めるのは、めっちゃ口惜しい。
「--- ええで」
「それじゃ始めようぜ、先生」
 パンと両手を打ち、火村は芝居じみた仕種で両腕を広げてみせた。今度こそ私の勝ちだ、と告げる第六感が当たったかどうかについては、絶対に内緒だ。


End/2000.07.15




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