鳴海璃生
京都在住の先輩推理作家に呼び出され、私と火村は夕陽丘から天王寺への道程をてくてくと歩いていた。時刻は既に午後5時30分を回り、街には1日の仕事を終えた人々が溢れ出し始めている。
明日が祝日のためか、それとも夏の熱気に誘われたのか、道行く人の数は常よりも随分と多いような気がした。人混みを避けるために入った裏通りも、それまたしかりで、狭い道幅を埋めるように人の波が行き交っている。
「何や、すごい人やなぁ…」
辺りの様子を見回しながら、火村の隣を歩く。常日頃から歩き慣れた道ではあるが、縦横無尽。これといった秩序も無く歩いている人を避けながらの道程は、歩きにくいことこのうえない。ちょっとした散歩のつもりで地下鉄ではなく歩きを選んだのだが、この暑さといい人混みといい、どうやら私達は選択に失敗したかもしれない。
狭いスペースを利用して、道の両側にひしめき合うように立ち並んだ店構えを見つめながら、ぼんやりとそう思う。とその時、1枚の立て看板が私の目に飛び込んできた。
『名物もも焼き』
味も素っ気もなく、もちろんポップなどとは言えないその文字に、私の視線は引きつけられた。歩くスピードに合わせて、視界の中をゆっくりと看板の文字が移動していく。私は、無意識に隣を歩く火村のシャツの袖を引いた。
「何だよ?」
人混みにうんざりしているのか、どこか憮然とした口調で応えてくる。どうやら火村先生のご機嫌は余り麗しくないようだが、その様子に頓着することなく、私の視線はその看板から動かなかった。
「なぁ、あれ見てみ。もも焼きやって」
空いている方の手で、看板を指し示す。その私の指先を、火村の視線が辿っていった。
「へぇ、もも焼きか。美味そうだな」
ぼそりと呟かれた言葉に、私は自分の耳を疑った。
---こいつ、今確かに美味そうって言うたよな。
視界の中を通り過ぎていく看板から視線を外し、私は訝しむように隣を行く犯罪学者を見つめた。たった今口にした台詞には、これといって何ら感じ入るところは無いらい。火村の横顔には、いつもと同じクールな表情が刻まれていた。
「なぁ、君。今、もも焼きが美味そうって言うたんか?」
恐る恐るというように訊ねてみる。火村は僅かに眉を寄せ、不思議そうに私を見つめた。
「何だよ、その惚けた顔。お前だって好きだろ?」
惚けたは余計だ、と思いながら、私は首を傾げた。
---好き? 好きって、もも焼きをか。
う〜ん、どうだろう。食べたことがないので判らないが、「好きか?」と訊かれて素直に頷ける代物でもないと思う。どちらかといえば、普通というよりはゲテモノの範疇に入る代物のような気もするが---。
腕を組み応えに窮する私を観察するような眼差しで眺めていた火村は、唐突に「あっ!」と小さな声を上げた。
「何やねん、急に」
反射的に振り向いた私をまじまじと見つめ、ハァ〜と大きな溜め息をつく。これ見よがしなその態度は、一体何なんだ。
むっとしたように睨みつける私に、再度溜め息を吐く。これといった理由は判らないが、その様子や仕種の一つ一つからは、あからさまに人のことをバカにしたような雰囲気が感じ取れた。
「お前、何考えたよ」
「へ?」
突然の質問の意味が掴めず、私は首を傾げた。その様子を横目に眺め、火村がやれやれとでも言うようにぽりぽりと頭を掻く。
「だから、もも焼きだよ。それでお前は、一体なにを想像したんだ?」
呆れたような表情で「何を」と訊かれても、もも焼きといえば、そりゃ一つしかないだろう。
「もも焼きいうたら、あの真ん丸い桃がぐっさりと割り箸か串に刺されてるやつやろ。それを焼くやなんて、想像しただけでも不気味と違うか」
嫌そうに顔を顰めた私にちらりと視線を注ぎ、火村は「あーあ…」と天を仰ぐ。だから、さっきから一体何なんだ、そのリアクションは。
「お前、作家になって大正解だよ」
「---はぁ」
ぽそりと呟かれた言葉に、私はますます首を傾げた。これはバカにされているのだろうか。それとも、もしかして誉められているのだろうか。口調から鑑みると、とてもそうとは思えないのだが---。う〜ん…、取り敢えず礼を言っておいた方がいいんだろうか。
「---何やよぉ判らんけど、ありがと。俺も推理作家は天職やと思うてるけど?」
「だろうな。それ以外使い道ねぇよなぁ、その突飛な発想は…」
突飛な発想? 困惑は深まるばかりだが、これは誉められてるというよりは、何だかバカにされてる気がするぞ。畜生。そんなこと言われるような一体なにを、私がしたってんだ。
横目に睨め付ける私に、火村はにやりと口許に質の悪い笑みを刻んだ。爽やかなんて笑顔は似合わんくせに、こういう腹に一物ありそうな笑みだけは、本当に良く似合う奴だ。ああ、性格の悪さが忍ばれる。
「もも焼き」
ぼそりと呟く。次は一体何を言われるのだ、と身構えていた私は、思わず肩から力が抜けた。だから、それが何だっていうんだ。そんなに拘るほど喰いたいんなら、今から戻るか?
「お前、もも焼きのももを果物の桃だ、って言っただろう」
言ったとも。それがどうしたって言うんだ。私の発言は、真っ当正確。忘れているなら言ってやるが、そんな不気味なものを好きとか美味いとか言ったのは、私じゃなくて他ならぬ君自身だ。
「信じらんねぇな。まだ気づかねぇのかよ。一体どこの世界にもも焼きと聞いて、あの丸い桃を串に刺して焼く、なんて考える奴がいるんだよ。---ああ、ここにいたか」
人のことを思いっきりバカにしたような口調に、思わず私は声を上げた。幾らなんでも、そこまで言われる覚えはないぞ。
「やって、あの店の看板に書いてあったやないか」
「ばぁーか」
間髪入れずに、火村の声が跳ね返ってくる。勢い込んだ私の顔を覗き込み、思いっきり嫌味ったらしく、火村はその言葉を口にした。
「失礼な奴やな。今の言葉、訂正せんかいッ!」
「バカだからバカって言ったんだ。あの看板に書いてあったもも焼きってのは、鳥のもも肉を焼いたやつに決まってんだろうが」
「---あっ!?」
歩いていた足が、思わず止まる。立ち竦み、唖然とした表情を晒す私の頭を、火村がぺしりと軽く小突いた。
「そんなこと気づきもしませんでしたって顔だな、作家先生」
そりゃ確かに、もも焼きが鳥のもも肉を焼いたやつだってこともあるだろう。でも単に『もも焼き』って書いてあったら、桃を焼いたやつだって思う人間だっているかもしれないじゃないか。それが、この世に私一人だけだとは限らない、と思う。---多分。
「いるわきゃねぇだろ。断言してもいいが、そんなのは絶対お前だけだぜ」
きっぱりとそう言い切った火村は、くるりと踵を返し、人混みの中を泳ぐように歩いていく。少しずつ遠くなっていく背中を見つめ、私は呆然と佇んだ。
その後の朝井さんとの呑み会で、火村が『もも焼き』を話題に出し、私は遠慮会釈の無い笑いに晒される羽目に陥った。だが、実際あの『もも焼き』なるものが、鳥のもも肉を焼いたものだったのか、それとも桃を焼いたものだったのかは、未だに判明していない。もちろん私は桃を焼いたものだ、と固く信じている。End/2000.07.15
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