MERKMAL

鳴海璃生 




 それはほんの一瞬の出来事だった。
 まるでエア・ポケットのようにぽっかりと空いた時間の隙間。
 うなだれた犯人が己の罪を告白して、誰もがホッと息をついた瞬間。少しだけ、ほんの少しだけ緩んだ空気。
 その一瞬の空気に背を押されたかのように、力無くうなだれていた犯人は1メートルほど離れた場所に立てかけられていたゴルフバッグへと駆け寄った。その中から手にした1本を抜き---。
 犯人へと、そばにいた刑事が手を伸ばす。
 その瞬間、私に向かって話し掛けていた火村。
 瞬きの間ほどの出来事が、スローモーションのように視界に写る。
 背中を向けた火村へと振り下ろされるゴルフクラブ。
 その時自分が何をしたかなんて覚えていない。
 目に写ったのは、鈍く輝く銀色のクラブヘッド。感じたのは、世界が弾け飛んだかのような衝撃。そして、沸騰するような熱。
「アリスッ!」
 大好きな声が、私の名を呼ぶ。
 闇へと落ちる瞬間に目に飛び込んできたのは、どこか泣き出しそうな火村の顔。
 ああ…、へんやな君。何でそんな顔してんねん。

◇◇◇

「有栖川。おい、起きろよ」
 軽く肩を揺すられ、私はゆっくりと目蓋を開けた。その瞬間、白い光が目に飛び込んできて、私は眩しさに目を細めた。
「もう授業終わったぜ」
 呆れたような声音に、私は再度ゆっくりと目を開いた。ざわざわとした室内の様子が、目と耳に同時に飛び込んで来た。
 陽の光が溢れた階段教室。
 さざ波のような明るい笑い声。
 視界に写る懐かしく、そして見慣れた風景。
 それは、私にとってはひと昔前の日常だった。
「あれ!?」
 私はキョロキョロと辺りの様子を見回した。そして、何度か目を擦ってみる。だが、それは見間違えようのない光景で---。
 一体どういうことなんだ? もしかして私は夢でも見ているのか?
 呆然とした私の様子を、まだ寝惚けているものと誤解したらしい。スポーツをやっているようなごつい身体を折り曲げるようにして、隣りに立つ男子学生が私の顔を覗き込んできた。記憶の底にあるその顔は、確かに見覚えがあるもので---。ああ、でも名前が出てこない。
 目の前の男子学生は、体格の良い身体には不似合いな愛嬌のある顔に、からかうような笑みを刻んだ。
「おい、有栖川。まだ寝惚けてんのかよ。早く行かないと、学食満席になるぜ」
「あ、ああ…」
 促すような言葉に、私はのろのろと椅子から立ち上がった。机の上にも空いた隣りの椅子の上にも、これといった荷物は無い。講義のための教科書もノートも。そして、私が学生時代に愛用していたブルーのリュックも---。
 学生であるならば当然持ち歩いているであろう様々な私物が、私の周りには何一つ無かったのだ。だが隣りに佇む気の良さそうな友人がそれを不思議に思っている様子は、微塵も感じられなかった。
 一体どうしたことだ。何故私はこんな所にいるんだ。まるで出来の悪いSFかファンタジー小説のように、時間と次元を越えてしまったとでもいうのだろうか。
 いや、そんな筈はない。だって、私は---。
「ツッ!」
 ズキリと頭が痛んだ。
 忘れてる。何かとても大切なことを---。
 だがそれを思い出そうとすると、割れるように頭が痛む。
「おい、有栖川」
『おい、アリス』
 不安そうな友人の声に重なるように、耳に馴染んだ声が脳裏に響く。
 そうだ、火村。
 火村は、一体どこにいるんだ。彼なら---。彼なら、きっとこの状況を何とかしてくれるに違いない。
 救いを求めるように、私は教室内をキョロキョロと見回した。だがどこにいても目立つ長身は、影も形も見あたらない。火村はよく法学部の講義に潜り込んでいたが、もしかしたらこの授業には潜り込まなかったのかもしれない。それに、もしこの講義を火村が受講しているのなら、彼は私の隣りにいるはずだ。
「おい有栖川、大丈夫か?」
 心配そうな声に、私は声の主へと視線を移した。困惑を宿した眼差しに、私は安心させるように笑いかけた。
「大丈夫や。心配かけてゴメン。それより火村は…」
「火村? 火村やったら、この時間は社学の方の講義やないんか?」
 友人がお前の方が詳しいだろう、と怪訝な表情を私に向ける。だが、それを気にしている時間は私には無かった。
「社学の---」
 小さく呟き、私はくるりと踵を返した。戸惑いを含んだ声が、背中を追いかけてくる。しかし、それに構っている余裕は無い。
 早く---。
 1秒でも早く、火村に会わなければ。火村なら、きっと私を助けてくれる。
 階段を駆け下り、学生で溢れたホールを走り抜け、私は外へと飛び出した。昼休みで各教室から溢れ出てきた学生達の間をすり抜けるようにして、一直線に社会学部棟を目指す。
 ---火村…。火村。
 頭の中で、呪文のように何度も何度も同じ名前を繰り返す。
 社会学部棟に駆け込んだところで足を止め、私は周りの様子を一瞥した。ここも学生で溢れているが、あの目立つ長身はそのどこにも見いだせない。
 ---どこにいるんや?
 階上の教室を覗いてみようか。それとも隣りの棟の大教室の方だろうか。
 キョロキョロと視線を巡らし、一瞬躊躇する。そして、私は思いきったように大教室へと続く廊下に向かった。
 もしそこにいなければ上の階を見て、学食を覗いて、それから図書館だ。捜しても捜し足りないほど、構内には火村の行きそうな場所がたくさんある。
 ああっ、もうっ! 一体なんだって、ここはこんなに広いんだ!
 息を切らしながら、私は狭い廊下を駆け抜けた。外へと繋がるドアをくぐり抜け、大教室へと続く渡り廊下へと飛び出す。既に学生達は学食やティーラウンジに行ったあとらしく、辺りに人の姿はない。捜す場所を間違えたかと舌打ちし、社会学部棟へと戻ろうとした時、見慣れた長身が視界の端を掠めた。
「火村ッ!」
 大声で名を呼び、私は捜し人へと駆け寄った。一瞬驚いたように目を見開いた火村は、すぐにいつものポーカーフェイスに戻る。双眸を眇めて、検分するかのように私へと視線を巡らせる。
「火村…火村、俺…」
 言いたいことは色々あるのに、上手く言葉にならない。喉の奥に何か詰まっているかのように、上手く声が出ない。
「俺…」
 何とか言葉を絞り出そうとして、私はギクリと身を竦めた。
 ちょっと待て---。
 この状況を一体どう説明すればいいんだ? 知らない内に時間を飛び越して、過去の世界に紛れ込んだとでも言うつもりなのか?
 そんなことを言って、一体誰が信じるというんのだ。それでなくても火村は、他の誰よりもそういう現象を信じてはいないのに---。
 それに---。
 それに、階段教室で会った男子学生は、私を大学生の有栖川有栖として何の疑問も持たずに認識していた。果たして火村もそうじゃないと、何故言い切れる? 今この世界では、私は間違いなく大学生の有栖川有栖なのだ。
 洗濯機の中の洗濯物のように、頭の中で思考がグルグルと掻き回される。ああ、どうしよう。一体どうすればいいんだ。この状況を上手く伝える術を持たず、気持ちだけが先走りする。
「おい」
 鼓膜を震わせた低い声に、私は視線を上げた。真実を射抜く眼差しが、計るように私を見つめていた。
 こくり、と息を飲む。震える声を必死の思いで絞り出す。
「火村、俺…」
「何でこんな所にいるんだ?」
 私の言葉を遮るように、抑揚のないバリトンの声が重なる。どこか冷たい響きを持つ声音に、私は縋るように男前の顔を見つめた。
 記憶の中に鮮やかに残る姿は、目の前のそれと一分の違いもない。だが鼓膜を震わす冷たい声は、私が一度として聞いたことのないものだった。
 ズキリと心臓が痛む。そんな私を観察するかのように見つめ、形の良い薄い唇がゆっくりと動く。
「ここはお前のいる場所じゃないだろ。とっとと還れ。還れなくなるぞ」
 低い、だが強い意志を持った言葉に、私は表情を歪めた。
 還りたい。還りたい。還りたい---。
 私だって、還れるのなら一刻も早く還りたいのだ。
「俺を一人残していく気か?」
 耳に飛び込んできた言葉に、キッと視線を上げる。そして、目の前の皮肉気な表情を強い眼差しで睨め付けた。
「ふざけるなッ! 俺は絶対にそんな真似せぇへん。俺は…。---俺は何があっても君の手を離さへん」
 火村が微かに表情を崩す。少しだけ照れたような、嬉しさを隠すような微かな笑みを口許に刻む。
「だったら、還れよ」
 さらりと零れた言葉に唇を噛む。今の私にとっては、何よりも残酷な言葉。それを火村が口にする。
「やって…、やって還り方が判らへんねんもん」
 自分でも信じられないほどのか細い声。じわりと目頭が熱くなった。
 情けない自分。
 頼りない自分。
 還りたくて還りたくて堪らないのに、その方法がまるで判らない。もしどこかにどうやれば還れるのか知っている人間がいるのなら、何をおいても教えてほしいぐらいだ。
「---そんなことはない。お前にはちゃんと判っているさ」
 膚に感じる陽の光のように、柔らかく鼓膜をくすぐるバリトンの声。
「大丈夫。お前はちゃんと判っているよ」
 見上げた視線の先で、歌うように火村が同じ言葉を繰り返した。優しい口調とは裏腹の切なさに、くしゃりと顔が緩む。
 そんなことはない。
 口に上らせようとした反論は、伸ばされた火村の人差し指に遮られた。いつも私に優しく触れてくる長い指が、軽く胸に触れる。
「知ってるさ。ここがな」
「ここ、が…?」
 返事の代わりにゆったりと頷く火村を見つめ、私は指が触れた場所にそっと手を当てた。掌の下で、心がトクンと鼓動を刻む。
 目を閉じ耳を澄ますと、身体の中に感じる確かなリズム。
 規則正しいその音に、不安も焦燥もゆっくりと溶けていく。
 ---ああ、そうだ。俺には最初からちゃんと判っていたんや。
 私の還るべき場所。
 私のあるべき所。
 ここじゃない、この場所じゃない確かな場所。
 私は、私の火村が待つ場所に還らなくちゃいけない。
 身体の中にこだまする命の音を聞きながら、ゆっくりと目を開ける。目の前の火村の姿が、光に滲むように輪郭を薄くしていく。
 声を掛けようとしたら、片頬を歪めるように笑った火村が軽く右手を上げた。
 紗を通したように霞んでいく場所。
 その場所から耳に馴染んだ声が聞こえてきた。その声に、火村がくるりと踵を返す。
 滲んでいく視界。
 陽炎のように霞んでいく風景。
 その中に、笑いながら火村へと駆け寄ってくる姿が見えた。その人物に向かって、火村が声を掛ける。
「アリス」
 ---ああ、そうか。やから、君は俺の名を呼ばへんかったんや。
 この場所で彼の隣りにいるのは、私ではないのだ。
 彼の隣りにいるのは、彼と同じ時を生きている私---。彼のための有栖川有栖。
 だから、還ろう。
 私は私の場所へ。私のための火村英生が生きている場所へ---。
 ありがとう、火村。
 形をなくす意識の中で、私は記憶の底に眠る火村にそっと囁いた。







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