MERKMAL

鳴海璃生 




「有栖」
 耳に飛び込んできた声と同時に、パンッと何かが弾けたような感覚。ぽっかりと目が覚める。
 一番初めに視界に写ったのは、見慣れぬ白い天井。
「有栖、目が覚めたん?」
 アルトの声が勢い良く意識の中に流れ込んでくる。声のした方向へゆっくり視線を移動させると、泣きそうな、それでいてどこか怒ったような母親の顔があった。
 生まれて初めて見る表情に、私はいたたまれなくて、申し訳なくて、くしゃりと頬を歪めた。心配させたのだ、と痛切に感じる。
「ごめん」
 自分でも驚くほど素直に言葉が出た。生まれてこの方、こんなに素直な気持ちで母親に謝ったのは、もしかしたらこれが初めてかもしれない。
「この、アホ息子!」
 どこか泣きそうだった表情を一転させ、彼女は私を大声で怒鳴りつけた。
「いつまでも起きんでトロトロ寝て」
 機関銃のようなスピードと激しさで、次から次へと言葉を繰り出してくる。一応俺は病人なんやぞ、と思いつつ、私は有り難く母親の繰り言を拝聴した。
 それに拠ると、フィールドワークの現場で犯人からゴルフクラブで殴られた私は、何と三日間も寝こけて---母親談---いたらしい。
 ゴルフクラブで殴られた割りに、傷自体はたいしたことはなかったそうだ。検査の結果、骨にも脳波にも異常はなく、幸いにも傷は軽い打撲と裂傷だけで済んだ。
 にも拘わらず、私の意識は三日間も戻らなかった。
 私の意識が戻って安心したらしい母親に「寝穢い」だの「寝ぼすけ」だの散々な形容を頂いたが、私に反論の余地はない。
 言いたいことを言い終えて漸く人心地ついたのか、気が抜けたように母親がホッと息をつく。その隙をついて、私は一番気になっていた人物の名を口にした。
「なぁ、おかん。火村は?」
 目を覚まして一番最初に目に飛び込んできた人物が母親だったことに、異を唱えるつもりはない。だがあの皮肉気な笑みがそばにないのはどうにもむず痒いような、落ち着かない気分なのだ。
「ああ、火村君? あんたがここに担ぎ込まれた時に、毎日来るって言うてたのを、新学期で忙しいやろからって私が断ったんや。あんたみたいにフラフラしてるわけやなくて、火村君は大学の先生なんやからな。単に寝こけてるあんたのために、忙しい時間を割いて貰うわけにはいかへんやろ」
 あー、そうですか。どうせ俺はフラフラしてるわ。
 学生の頃から火村ファンと言い切っている母親は、いつも息子よりも火村の味方なのだ。
 それからまた、ひとしきり母親の繰り言と小言を拝聴した。よくもまぁ、こんなに喋ることができるものだと感心する。
 そして漸く満足したのか、母親は思い出したように枕元のナースコールを押した。「私の意識が戻ったら押して下さい」と言われていたそうだが、彼女がナースコールを押したのは私が目を覚まして30分ほども経った頃だった。
 駆け込んできた医師と看護婦を相手に、軽い診察を受ける。怪我も軽いし、特に悪い点もない。これなら明日には退院の許可がおりるか、と思ったら、念のため幾つかの検査を行うとのことだ。
 それを聞いて、思わずうんざりした表情を作った私を責めないでほしい。自由に動くことのできる人間にとって、病院は酷く退屈な場所なのだ。
 三日間病院に泊まり込んでついていてくれた母親は、会社帰りに寄った父親と一緒にいそいそと家に帰ってしまった。相変わらず脳天気な夫婦だと思いつつ、私は一人になった病室でホッと息をつく。私のいる病室は四人部屋だったが、私以外のベッドが空いていたのはラッキーだったかもしれない。
 翌日から脳波だのCTスキャンだの、一見無駄じゃないかと思える検査が始まった。日頃からのんべんだらりと生活している私は、この検査のおかげで逆に疲れてしまったぐらいだ。そしてその合間を縫うように、次から次へと見舞客が訪れる。
 一番最初に駆けつけて来たのは、船曳警部・鮫山警部補・森下刑事の、大阪府警の馴染みの面々だった。まだ面会時間には程遠い時刻だったが、ここが警察病院であること、そして私が事件に関係していたことで、彼らにはそれなりの便宜が図られたのかもしれない。
 病室に入って来た三人は、徐に自分達の不手際を詫びた。唖然としている私の目の前で何度も何度も頭を下げられ、却って恐縮してしまったぐらいだ。特に犯人の一番近くにいた森下刑事は、見ているこちらが気の毒になるほどに身体を縮ませて頭を下げていた。
 だが医者に聞いた話では、私が思いの外軽い怪我ですんだのは、犯人のそばにいた森下が咄嗟に犯人の服を掴んでくれたおかげなのだそうだ。そのせいで、振り下ろされたクラブの衝撃が緩和されたということだった。もしそのままの衝撃で殴られていたら、今頃私は儚い煙となって大阪の空に漂っていたのかもしれない。
 命が助かったのは、森下のおかげだ。感謝することはあっても、謝られる筋合いではないのだ。
 その後、続々と馴染みの面々が病室に顔を見せた。
 東京在住のお人好し編集者に、京都在住の太っ腹な姉御。隣りの真野さんも見舞いに来てくれたし、火村の下宿の婆ちゃんもわざわざ京都から見舞ってくれた。
 だが、私が一番待ち焦がれている犯罪学者だけが姿を見せない。
 まぁ私が怪我をした状況が状況だから、おいそれと顔を見せるとは思っちゃいないが…。
 帰り際に婆ちゃんが言っていた「大学が忙しい」という火村の言付けも、たぶん半分は嘘に違いない。火村のことだ。きっと、あれこれと余計なことを考えているのだろう。
「このままでなんて済まさへんからな」
 一人になった病室で、私は春の朧月に向かって決意を新たにした。

◇◇◇

 検査を終え、私が懐かしの我が家へと帰ったのは、目が覚めてから三日後のことだった。
 それほどたいした怪我だったわけでもないのに、一週間近くも病院に足止めをくらったことになる。その間、検査検査の繰り返し。人間ドッグに入って疲れた、という話を聴いたことがあったが、今回の私の状況もきっとそれと似たようなものだろう。
 正面玄関まで見送りに出てくれた看護婦さん礼を言って、迎えの車に乗る。
 天王寺区北山町にある大阪警察病院から夕陽丘の私のマンションまでは、歩いても15分ぐらいだ。散歩がてらにぼちぼち歩いて帰るから、と断ったのだが、生真面目な森下刑事は「船曳警部からも言われてますので」と強引ともいえる押しの強さで、私をマンションまで送ってくれた。
 マンションの前で「コーヒーでも」と御礼代わりに誘ったのだが、勤務中だからとやんわり断りを入れ、森下は取って返すように府警へと帰っていった。う〜ん、何だか申し訳ないことをした。こんど時間のある時にでも、コーヒーを奢ることにしよう。
 車の流れに消えていく黒のセダンを見送り、私はマンションのドアをくぐった。管理人室の前を通り過ぎようとした時、「有栖川さん」とガラス窓の向こうから声を掛けられる。
 メールボックスやドアポケットから溢れていた郵便物に新聞。そして宅配便等を、管理人さんが纏めて引き受けていてくれたらしい。ねぎらいの言葉と共に渡されたそれらは、ペーパーバッグ二袋分もあった。どうせその殆どがダイレクトメールの類だろうと思うと、些かうんざりする。
 人の良い管理人さんに礼を言い、私は紙袋二つとパジャマや下着の入ったバッグを手にエレベーターに乗り込んだ。
 たった一週間程度だったにも拘わらず、久し振りに戻った我が家は何だか懐かしい匂いがした。火村に呼び出されて出掛けた時のままの雑然とした部屋の様子にも、ホッと気分が落ち着く。
 籠もったような空気を入れ換えるために、私はベランダの窓を開けた。少し埃っぽい春の暖かな空気が、リビングに流れ込んでくる。病院では感じられなかった街の喧噪を、私は深呼吸と共に身体一杯に取り込んだ。
 ごろんとソファに身体を転がし、うーんと大きく伸びをする。さてさて、これからどうしようか?
 目を瞑り、コチコチと時を刻む秒針の音に耳を傾ける。
 やりたいことは決まっている。---火村だ。
 私の怪我に責任を感じ、何も言わずに離れていこうとしている火村を取り戻すんだ。
 そのためには、何をおいてもまず火村に会わなければならない。だが正攻法で打ち当たっても、きっと火村には通用しないだろう。それにもしここで逃げられたら、火村を捕まえることはますます困難になってしまう。
 ---急襲するしかあらへん。
 私が今日退院したことは、たぶん火村も知っているはずだ。いくら何でも退院したその日に、私が自分を訪ねてくるとは思わないだろう。それに、明日じゃ遅すぎる。火村に会うのは、絶対に今日じゃなくちゃいけない。
 私は腹を決めた。
 目を開き、壁の時計を見つめる。現在の時間は、午後二時半。火村を確実に捕まえるためには、夕食後の時間を狙うのがベストだ。
 ソファから立ち上がり、キッチンへと向かう。取り敢えずコーヒーでも飲んで、夜の一発勝負に備えることにしよう。
 見とれよ、火村。腹を括った有栖川有栖様は、無敵なのだ。

◇◇◇

 テレビを見ながらのんびりと夕飯を喰って、京都へと向かう。つい1ヶ月ほど前に比べると、驚くくらいに陽が長くなっている。だが私が北白川に着いた時には、とっぷりと夜の帳が降りきっていた。
 木戸の前に立ち、二階の窓へと視線を走らせる。庭に面した窓には、白い明かりが灯っていた。窓際でゆらゆらと動く人影は、間違いなく火村のものに違いない。
 カラリと軽い音をたて、古い木戸を開ける。飛び跳ねるようにして丸い敷石を渡り、玄関の前に立つ。昼間は鍵などかけていない玄関も、さすがにこの時間ともなるとしっかりと鍵が閉められていた。
 古い形の呼び鈴を押す。リーンリーンと、鈴の鳴るような音が鼓膜を震わせた。中から「どちらさん?」と申し訳程度に誰何の声がして、木組みのガラス戸がカラカラと引き開けられた。
「こんばんは。先日はお見舞いありがとうございました」
 目の前の小柄な身体に向かってペコリと頭を下げ、私は持参した手土産を渡した。目尻に深い皺を刻み嬉しそうに笑った婆ちゃんは、いそいそとした仕種で私を中に招き入れてくれた。
 中に入り、ちらりと伺うように階段の上に視線を走らせる。当然ながら、火村が姿を現す雰囲気は微塵も感じられない。だが、これも予想の範囲内だ。動揺なんてするもんか。
 「下でお茶でも」と誘ってくれた婆ちゃんに丁寧な断りを入れ、私はギシギシと階段を鳴らして二階へと上がった。見慣れたドアの前に佇み、大きく深呼吸をする。ぴったりと閉じられたドアは、火村の心の壁を表しているかのようだ。
 トントンと、普段はやらないノックをする。もちろん中からの返事はない。だがそんなもの、私だって期待しちゃいない。部屋の主の返事などお構いなしに取っ手に手を掛け、ガチャリと勢いよくドアを引き開けた。
 鍵が掛かっていないことに、内心ホッと息をつく。だがもしそうだった場合、近所迷惑も顧みずドアを叩きまくってやるつもりだったのだ。怯むもんか。
 足を踏みならすようにして、部屋の中へと踏み込む。ドアの反対側、庭の面した窓に身体を預けるようにして、火村が座り込んでいた。何の感情も見いだせないようなポーカーフェイスに、一瞬だけ苦いものが走る。
 後悔と焦燥と苦悩。
 火村の発している苦い感情を感じ取り、私はそれらを振り切るように頭を左右に振った。ここで私が火村の感情に流されたら、事態は膠着したまま一歩も好転しないことになる。
 大股に火村の方へと歩み寄り、ペタリと火村の前に座り込む。つっとさりげに視線を逸らす火村の頬を、私は両手で挟み込んだ。
 視線を合わせ、真っ正面から端正な容貌を見つめる。たった一週間会わなかっただけなのに、懐かしさに泣きたくなる。
「薄情者。見舞いに来ぃへんかったやろ」
 きゅっと唇を噛み、強がりにも似た言葉を口にする。頬に触れた両手を振り払い、火村は強引ともいえる仕種で私から視線を逸らした。
 くっそー、この野郎。
 俺を切り離そうとしたって無理なんやからな。いいかげん気付いて諦めろってんだ。
「帰れ」
 喉の奥から絞り出されたような低い呟き。だったら、引きずってでも私をこの部屋から追い出せばいいのに、顔を背けた火村は凍り付いたように動かない。
 そんな態度に、私が怯むとでも思っているのか。
 ゆっくりと手を伸ばした私は、ぎゅっと火村を抱きしめる。ピクリと小さく震えた身体は、そのまま動きを止めた。
 トクントクンと、優しい鼓動が鼓膜を震わせる。
 鼻孔をくすぐるキャメルの香り。それを胸一杯に吸い込んで、漸く還ってきたのだと実感する。
「---アリス」
 痛みを含んだバリトンの声さえ心地良い。
 私の場所。私の還るべき所---。
 私は間違えることなく還ってこれたのだ。
「やっと還ってこれた」
 ぽつりと口をついて出た言葉に、火村が腕の中で微かに震える。
 見失いそうになった真実を気付かせてくれたのは、君だ。
 視線を上げ、眼差しを絡ませる。トクントクンと命を刻む二つの音が一つに混じる。
 目の前の薄い唇に、私は掠めるように触れた。
「ただいま、火村」
 想いの全てを込めて、そっと呟く。唇から唇に---。
 私の想いは間違えることなく君に伝わっただろうか。
「アリス…?」
「うん」
「アリス」
「うん」
 ロンドのように繰り返される言葉。
 世界中で一番好きな声---。私の名を呼ぶ、君のバリトン。
 啄むような口付けを何度も交わし、やがてそれは少しずつ深くなっていく。
 触れ合う熱が愛しい。
 溶け合う鼓動が切ない。
 還ってきた私の場所。もしまた見失うことがあっても、私は必ず還ってくる。
 快楽に意識が溶けていく。耳元で何度も何度も囁かれる私の名前---。
 火村---。
 俺は絶対に君の手を離さない。

◇◇◇

 気怠い疲れに身を任せ、私はそっと火村の胸に耳を寄せた。命を刻む心臓の音にうっとりと目を閉じる。
 闇に落ちる静けさは、深い水底を思わせる。銀色の月の光に浮かび上がる部屋は碧く、ユラユラと揺れる深海のようだ。
「---アリス」
 闇色の天鵞絨のようなバリトンの声。惹かれるように、私はゆっくりと視線を上げた。
「アリス、俺は…」
 眉を寄せた表情に、私はふわりと笑った。続きを聞かなくても、火村が何を言いたいかなんて判っている。
 でも、そんな言葉はいらない。
 私が傷を負ったことで君が負い目を感じる必要も、謝罪を口にする必要もないのだ。私は目に見える部分で君を庇ったけれど、君は見えない所で私を救ってくれた。
「あのな…」
 言葉の先を躊躇する火村を遮るように、私はゆっくりと口を開いた。訝しむように視線を合わせてくる火村に、薄く微笑みを返す。
「病院で寝てた時に、俺、君に逢うたんや」
 唐突な言葉に、火村は訳が判らないという風に緩く首を傾げた。それを見つめ、私は一つ一つ噛み締めるように言葉を継ぐ。
「正確には大学生の君に、や。夢の中で俺、過去の世界に迷い込んでたんや。還りたくて…。めっちゃ還りたかってんけど、全然その方法が判らなくて、もう泣きたい気分やった」
 一端言葉を切り、私はそっと火村の胸に耳を寄せた。
 私の名を呼ぶ柔らかな声。暖かい温もりが私を抱きしめる。
「そん時な、君が教えてくれたんや。俺はちゃんと還り方を判ってるって。それで俺、ちゃんと還ってこれたんやで」
 火村の背に腕を回し、力を込める。そして---。
「ただいま、火村」
 応えを貰えなかった言葉を、もう一度口にする。
 一瞬の沈黙。ついで柔らかなバリトンが降ってきた。
「おかえり、アリス」
 欲しかった言葉。
 何よりも君に言ってほしかった言葉。
 夢の向こうの君に大学生の私がいたように、私は間違いなく今の君のそばにいる。
 暖かな蒲団の中で、交わす言葉も無く抱きしめ合う。
 静けさの中に、君の鼓動が聞こえる。そして、それに重なり合うように響く私の鼓動。
 鼓膜が痛むような静寂の中で、うっとりとその音に耳を傾ける。
 とその時、婆ちゃんの居間にある古い柱時計が、ポーンポーンと時を刻む音が聞こえてきた。その数を心の内で数え、私は抱きしめられた腕の中から半身を起こした。枕元の目覚まし時計を眺め、日付が一つ進んでいることを確認する。
「火村---」
 囁くような呼びかけに、火村が視線を上げる。
「誕生日おめでとう」
 不意の言葉に、火村は驚いたように目を見開いた。枕元の時計に視線を走らせ、滲むように笑う。
「もう4月15日か…」
 どちらからともなく腕を伸ばし、抱きしめ合った。
 還ってこれて良かった。
 誰よりも早く、君にこの言葉を言えて良かった。
 記憶の底の火村が、夢の向こうでニヤリと笑う。
 大丈夫。例えまた迷っても、私は還るべき場所を知っている。
 ありがとう。そして、おめでとう。
 遠い過去も、遙かな未来も---。君の傍らにいることが、私はこんなにも嬉しくて誇らしい。


End/2001.04.15




NovelsContents