由緒正しい天気予報のススメ

鳴海璃生 




 狭いソファの上で器用にごろんと寝返りを打ち、私はぼんやりと視線を上げた。視界の先には、灰色に四角く切り取られた風景。空も空気も雨の色も、世界の全てがグレーに染まっている。
 その灰色の風景の中で、ゆらゆらと揺れているこの時期には良く見慣れた人形達。ベランダへと続く窓の全面を覆うように、大中小様々な大きさのてるてる坊主が風景にとけ込みながら、だがしっかりと自分の存在をアピールしていた。彼らの制作者は、もちろんこの私。この部屋の主でもある有栖川有栖だ。
 しとしと降り続く雨の音を聞きながら作ったてるてる坊主の数は、既に両手の指の数を超えてしまっている。どうせこの天気では洗濯物も干せないのだからと、ベランダの物干し竿一杯に並べてつり下げられているてるてる坊主軍団は、ある意味壮観。そしてある意味では、うんざりどっぷりと沈み込む気持ちをますます下降させる代物だ。

 そのてるてる坊主軍団のど真ん中。各種取りそろえられたサイズの中でも、特大に大きなてるてる坊主。ゆうに体長50cmはあろうかという巨大なてるてる坊主は、私が3年前に制作した秀逸の一品なのだ。
 何だそんなもの、と侮るなかれ。巨大てるてる坊主のテルちゃん(命名有栖川有栖)は、そんじょそこらのティッシュペーパーで作ったような安っぽいてるてる坊主とは一線を画している高貴な、言うなればブランドてるてる坊主なのだ。
 核となる綿も、それを包む布も、テルちゃんを形作る全ての材料は、お隣の真野さんに教えて貰った梅田の布地屋さんで購入してきたものだ。もちろん私とて、意気揚々とそんな場所に出掛けて行ったわけではない。様々な年代の女性達で溢れかえった店内に入るのは、まるで清水の舞台から飛び降りるかのごとく、とてつもない勇気がいった。

 店の前を行っては戻り、行っては戻りして、挙げ句の果ては喫茶店で気を落ち着けること約1時間。意を決してその店の中に足を踏み入れた時の私は、まるでお化け屋敷に飛び込む勇者のごとき心境だった。
 だが恥を堪え忍び、周囲の好奇の視線にぐっと耐えたお陰で、詰め物は何だか良く判らないがぬいぐるみに詰めるぷわぷわのやつで、布地は雨に濡れても大丈夫な耐水性。ぎゅっと抱きしめると、さらさらの布の感触はひんやりと心地良いし、ぷわぷわとした抱き心地は感涙ものだ。しかも、そのまんま丸洗いOKという超優れもの。
 そして私、名匠有栖川有栖の手で可愛く顔を描かれたテルちゃんは、梅雨のしとしとぴっちゃんな雨にも台風のごとき暴風雨にも耐え、健気にも3年間も私のために頑張ってくれている。ああ、愛しすぎる私のテルちゃん。

「でも、ぜんぜん役には立ってねぇよな」
 ガラス窓の向こうでゆらゆら揺れるテルちゃんを見つめ、感慨に浸っていた私の耳に、無粋な低い声が飛び込んできた。失礼な台詞を吐いたのは、昨日から居着いている客とも言えない居候。彼は自分の分だけとっととコーヒーを淹れ、どすんと乱暴に向かい側のソファに腰を下ろして、当たり前のように膝の上で新聞を開いた。

「そんなことあらへん。テルちゃんは地道に頑張ってくれてるんや。今かてきっと、俺の願いを叶えるために一生懸命頑張ってくれてるに違いない」
 少しだけむきになって言い返した私に、火村は態とらしく肩を竦めてみせた。

「こういう時期に、明日天気にして下さい、なんて非常識な願いを掛けられるてるてる坊主だって、すっげえ迷惑に違いない、と俺は思うけどね。どうせ無駄なんだから、とっとと下ろせよ、あれ。この部屋に来てあれがぶら下がってるのを見るたび、俺はいつ警察が来るかと気が気じゃねぇぜ」
 新聞から視線を離さず、とくとくと無礼な意見を述べる犯罪学者を私はじろりと睨め付けた。迷惑だの無駄だのという言葉は寛大な心でもって聞き流してやるにしても、警察とは一体なんのことだ。私の可愛いテルちゃんが私の部屋のベランダにぶら下がってるのが、何か警察沙汰を起こすとでもいうのか。マンションのベランダにてるてる坊主を下げてはいけません、なんて規則は聞いたことがない。梅雨の時期にベランダで揺れるてるてる坊主。風情があって良いではないか。もし街の美観を損ねる、なんて言いやがったら、即この部屋から叩き出してやる。
 睨め付ける私の視線を平然と受け止めた火村は、ゆっくりと新聞から顔を上げた。剣呑な眼差しに含まれた問い掛けに、にやりと質の悪い笑みを口許に貼り付ける。

「人がぶら下がってるみたいに見えるだろうが、あの首吊り人形」
 ああっ、思い出した。
 意気揚々と私の傑作を見せてやった3年前、この無礼者の助教授は、私のテルちゃんを『首吊り人形』と評しやがったのだ。それ以来、梅雨になって私がテルちゃんをベランダにつり下げるたび、この先生は「首吊り人形」「首吊り人形」と連呼していた。
 今年はまだ火村がテルちゃんを見ていなかった---昨日は部屋に入った途端、寝室に直行したし---から、そんな台詞すっかりくっきり忘れていた。それにしても、私の可愛いテルちゃんを首吊り人形だとは暴言も甚だしい。何てことぬかすんだ。
「失礼なこと言うな。俺のテルちゃんが、そんな不気味なもんと間違えられてたまるか」
「俺は極一般的な意見を述べたまでだが」

「何が極一般的な意見やねん。君の感覚が普通と違いすぎるんや」
 ふんと顔を背け、私は窓に並ぶてるてる坊主の行列に視線を移した。
「ごめんなぁ、テルちゃん。火村のアホが失礼なこと言うて。テルちゃんは世界一立派なてるてる坊主やで」

 灰色の景色の中で風に揺れているてるてる坊主は、どこか物悲しげに見える。う〜ん、いっそのこと部屋の中に入れてしまおうか。
 ---いや、いかん。
 ここで部屋に入れたら、テルちゃんはてるてる坊主としての仕事を全うできなくなってしまう。そうすると、このまま雨は降り続いてしまうわけで---。私は心を鬼にして、テルちゃんをベランダにつり下げたままにしておくことにした。てるてる坊主としてのテルちゃんの尊い使命は、雨の降る外にいてこそ果たされるのだ。
「まっ、見解の相違ってやつだな。でもどっちにしても、役立たずのてるてる坊主じゃ下げてる価値はねぇだろ」

「そんなことあらへん。テルちゃんが、絶対晴れさせてくれるもん」
 たかだか明日の天気のことで、いい歳した大人が何をマジになっているのか、と呆れていらっしゃる方もいるかもしれない。だが、これにはちょっとしたのっぴきならぬ理由があるのだ。でなければ、小学生か就学前の子供じゃあるまいし、ここまで必死になっててるてる坊主に祈ったりするもんか。

 昨日の夜、通天閣に見下ろされながらビールを呑んだ私達は、興に乗ってちょっとした賭をした。それが、今私が必死になっている明日の天気なのだ。
 幸いにも私は家の中で事足りる専業作家を生業にしているため、毎日大学に通っている火村や会社に出掛けるサラリーマンと違い、雨の中わざわざ外に出る必要はない。ああ、推理小説家で良かった、と思える一瞬なのだが、例え一日家の中にいる生活とはいっても、ここ数日降り続いている雨にはいいかげん閉口してしまっていた。それで私は、なにげに火村が言い出した賭けに一も二もなくのってしまったのだ。今にして思えばアホなことをした、と思わざるでもない。が、それも後の祭り。致し方ないではないか。
 その結果、火村は明日の天気は雨だ、と言い切り、私は晴れ、もしくは曇り。とにかく雨が降らない方に賭けることになった。この梅雨の時期、幾分分の悪い賭けかもしれない。だが、これには密かな私の願望も含まれていた。

 何せここ4日の間ずっと雨が降り続いたため、精神的に腐っていた。しかも週末に限ってだけいえば、既に5回も続けて雨が降っている。6回目ともなれば、さすがに雨は降らないだろう、との安直な期待。そして何より、とにかくもう雨はイヤだ、という私自身の気持ち。それらが複雑にミックスした結果が、この賭けの答なのだ。だが、この時点ではまだ、この賭けも酒の上での戯れみたいなものだった。
 それが今、何が何でも賭けに勝つために、明日は雨が降らないでほしい、と痛切に思う。ほんの戯れのつもりで始まったこの賭けが一変し、私にとって単なるお遊び以上の意味を持ってしまったのは、火村が言い出した賭けに私が負けた時の賞品のせいだ。

「お前が勝ったら、賞品は何がいい?」
 ビールを傾けながらの火村の問い掛けに、私はちょっと考えて「火村の奢りの昼食付きのドライブ」と応えを返した。雨があがったのなら、久し振りに外に出て過ごすのもいいかな、と思ったのだ。しかもそれに、火村の奢りで昼飯がつくのなら申し分ないではないか。
 ふんと曖昧に頷く火村を見つめ、「君は?」と問い返す。コップの中の黄金色の液体を美味そうに飲み干した助教授は、私の問いに不穏な笑みを作った。嫌な予感が背中を伝い下りた時には、全てが遅かった。続く言葉でこの先生は「明日雨が降ったら週末はずっとベッドの中で過ごす」などと、とてつもないことを口にしてくれたのだ。
 私だとて、一日ベッドの上でごろごろしているのは吝かじゃない。だが、この変態性欲の先生が一緒にいる限りそれだけで終わらないのは火を見るより明らかだし、火村の言う言葉の中にはそれだけの意味合いがしっかりと含まれている。貴重な---幾ら平日も休日も余り関係がない職業作家とはいえ、やっぱり週末は週末として貴重なのだ---週末を、何でそんなことして過ごさねばならないのだ。
「そんな真抜けた台詞を言ってられるのも、あと5時間30分だな」

 ぼんやりと窓の外を見つめていた私の耳朶に、バリトンの落ち着いた響きが触れた。
「5時間30分?」
 妙に具体的な数字に、私は眉を寄せた。

「そうだろ。今の時刻が6時半。午前0時過ぎれば、明日だ」
「何や、それ!?」

 胸に抱いていたクッションを放り投げ、勢いよく半身を起こす。火村の言う通り午前0時を過ぎれば確かに明日だ。だが、普通こういう場合の明日ってのはそんな具体的な時間じゃなく、もっと曖昧な朝のことを言うんじゃないか。
「間違ったことは言ってねえだろ。賭けをした時、俺は明日とは言ったが、明日の朝なんて言葉はひとっ言も言ってねぇぜ」

 そりゃ確かにそうだが、納得できない。そういうのを屁理屈って言うんじゃないか、と思っても、おいそれと反論できない。口惜しいことに大学時代からの長い付き合いの中で、私が火村に口で勝てたことなんて数えるほどしかないのだ。ここで下手なことを言って揚げ足を取られるより、忍の一字で口を噤んだ方がずっといい。あと5時間半だろうが8時間だろうが、要は雨さえ止めばいいんだ。
「あと5時間30分。頑張ってあの首吊り人形に縋ってんるんだな。まっ、俺の勝ちは決まったも同然だがな」

 如何にもな態度で自信ありげな火村に、私は双眸を眇めた。
「そんなん判らへんやんか。あと5時間30分もあるんや。その間にテルちゃんが、俺の願いを叶えてくれるかもしれへん」
「無理だな。明日は雨だぜ」

 テーブルの上のリモコンを手に取り、火村は振り向いてテレビをつけた。
『本州付近に停滞した梅雨前線は---』
 ちょうどニュース番組に行き当たったのか、ブラウン管の中ではブラウンのスーツをおしゃれに着こなしたアナウンサーが天気概況を口にしている。彼の後ろのディスプレイ上には、日本中を覆った白い雲がゆっくりと東に向かって動いていた。やがてそれはコンピューターグラフィックの日本地図に変わり、北海道を除いた全てに地域で傘のマークがくるくると回り始める。
『明日の天気は---』
 アナウンサーの穏やかな声が、占い師の予言のように明日の天気を告げていく。
「君のその妙な自信がどこから来るんかは判らへんけど、天気予報なんてあてにならん。今日かて折り畳みの傘で十分でしょう、って言うてたのに、実際は土砂降りやんか」
 テーブルの上にリモコンを放り投げた火村は、まるで外国人のような大げさな仕種で肩を竦めた。そうして喉を湿らすように、ゆっくりと温くなったコーヒーを口に含む。ある意味絵になるその姿が、今の私には妙に癪に障る。

「あんな外れる確率の方が高い天気予報なんて、あてにしちゃいないよ。俺のは、もっと古来からの民間に伝わる天気予報に基づいているんだ」
「ほぉ…。俺のテルちゃんが役に立たん、なんて言うたくせに、よぉ言うわ。それじゃお伺いしますが、一体どういう理由で明日は雨だ、と仰るんでしょうか?」

 嫌みったらしく、最後の言葉を一文字ずつ句切って訊いてやる。火村はにやりと片頬を歪め、悪戯っ子のような笑いを口許に刻んだ。
「ウリもコオも桃も、顔を洗ってた」

「はっ?」
 それはもしかして、猫が顔を洗うと雨が降るってことか。唖然とした表情を晒す私に、火村がにやにやと楽しそうな笑いを零す。

「アホかっ。そんなん、俺のテルちゃんよりあてにならへんわッ」
「あんな首吊り人形より、ウリ達の方が確かだぜ」

 しらっと応えた火村に、私は渋面を作った。親ばかならぬ猫バカだとは思っていたが、まさかここまでだと思わなかった。最高学府で教鞭を取る助教授が、情けないことこのうえない。
「ようし、判った。やったら、俺のテルちゃんが勝つか、君んちのウリ達が勝つか勝負やっ」

「いいぜ」
 威勢良く立ち上がり、ぴしりと鼻先に人差し指を突きつけた私を見つめ、火村はどこか勝ち誇ったような笑みを表情に刻んだ。それを横目に見つめ、私は窓辺で揺れるてるてる坊主軍団へと眼差しを向けた。少しだけ灰色を濃くした夕闇の中で、私のテルちゃんはゆったりとシルバーブルーの布を風に揺らしていた。

 ---テルちゃん、俺は君を信じてるで。
 心の中で、私はテルちゃんへの応援歌を歌った。

 そして5時間30分後。私の愛しいテルちゃんが勝ったのか、それとも火村の家の猫ズが勝ったのか。その結果については、余り多くを語りたくない。


End/2000.06.28




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