由緒正しい天気予報のススメ <おまけ>

鳴海璃生 




 陸に打ち上げられたマグロのように傍らで長々と身体を伸ばしている助教授を避けながら、私は四つん這いで窓際へと近づいた。そろりとカーテンを開けて窓の外を覗き見る。夜半の間、台風並みに吹きすさんでいた暴風雨はすっかりと影を潜め、ガラス越しの街はしんとした静謐に包まれているかのようだ。空全体を覆った灰色の雲の合間から、申し訳程度に薄日が差している所さえある。
「あ〜あ…。こんなことなら、午前0時なんていう火村の戯言を無視しとけば良かった」
 今さら言っても詮無いことだが、ついつい唇からは愚痴が零れる。窓を打つ激しい雨と風は、私に悪意を持っているのかと疑いたくなるかのごとく明け方には遠くに過ぎ去っていた。これじゃ、多少の愚痴を私が漏らしても仕方がないではないか。せめてあと数時間早く雨が止んでいてくれたら、私は火村をベッドの中から蹴り出すことも可能だったんだ。

「あ〜あ」
 止めても止め切れぬ溜め息を再度吐き出した時、ぐいっと力任せにパジャマの裾を引かれた。不意のことにこれといった抵抗もできず、私は力に導かれるままに倒れ込んだ。

「煩せぇな。目が覚めちまったじゃねぇか」
 寝起きの助教授がいつもより低い声で、文句をたれる。些か掠れ気味の声はセクシーとも言えるが、あいにく今の私は、それに聞き惚れてやれる気分じゃない。斯くいう私の声だって、嫌になるくらいに掠れているのだ。

「全く諦めの悪い奴だな。賭けに負けたんだから、おとなしくベッドの中にいろよ」
 言いながら、火村の手は私のパジャマの裾をかいくぐる。たった今目覚めたばかりなのに勤勉というか、しつこいというか---。パジャマの中でもぞもぞと不埒な動きをする躾の悪い手を、私は思いっきりつねってやった。

「おい、アリス」
 掠れた声は、普段にも増して妙な凄みがある。だがそれで怯んだら、マジで今日1日ベッドの中で過ごす羽目に陥ってしまう。ここはやはり少しでも抵抗を試みて、真っ当な週末を取り戻すべく努力するのが、人の道ってもんだろう。

「そりゃ確かにベッドの中で1日過ごすってのが、賭けに勝った君の言い分やろうけど…。でもな、それには、こんなことまでするってのは入ってへんはずやで」
 諦め悪く再度私の方へと伸びてきた手を、思い切りよくはたき落とす。じろりと睨みつけてくる闇色の瞳に負けじと、私も真上から火村を睨め付けた。

「それはお前の勝手な解釈だろ。俺の言った賞品の中には、ちゃんと入ってるんだよ」
 そう言うなり、火村は自分の方へと私の腕を引っ張った。慌てて腕を突っ張らせ、何とか抱き込まれないように、と懸命の抵抗を繰り広げる。私より火村の方が腕力に勝ることは判っている。だがここで押し倒されたりしたら、あとはなし崩しだというのが嫌ってなぐらい判っているから、私だって必死だ。

「てめぇ、往生際が悪いぞ」
「悪くて結構。あーっ、もう触んなや。べたべたして気持ち悪いやんか」

 幾ら雨は上がったとはいえ、未だに季節は梅雨の真っ只中。部屋中の空気が水分を含み、私の身体もしっとりと濡れているようで、人と触れ合うのが気持ち悪いのだ。それはもちろん、相手が火村であっても例外じゃない。いつもならさらりと冷たくて気持ちの良い火村の掌も、今日は余り触れられたくはない。冷たいようだが、こういう状況の中では相手を好きとか嫌いなんてのは二の次なのだ。
「汗かいちまえば同じだろうが」

「だーから、汗かくのも、そこに至るまでも嫌なんやて」
「あとで風呂には入れてやるぜ」
「ノーサンキュウや。こんなに湿度が高かったら、風呂に入ってもべたべたするのは同じや。あーッ、気持ち悪い。触らんといて」
「チェッ」

 小さな舌打ちと共に、私を引っ張っていた火村の力が緩んだ。同時に、私の腕を捕らえていた手も離れていく。私の視線の先で、それは宙を泳ぐように軌跡を描き、ゆっくりと白いシーツの上に落ちた。
「信じらんねぇよな。それが、一応は恋人でもある相手に対して言う台詞か」

「梅雨が上がるまでは、廃業してもええで」
 シーツ越しに、ぱたりと火村の上に倒れ込む。薄いリネンを通して聞こえてくる火村の鼓動は、まるで穏やかな子守歌のようだ。目を閉じ、うっとりとその音に聞き惚れていると、火村が撫でるように私の髪に触れてきた。水分を含んで重くなった空気の狭間を、ゆったりとした時間が流れていく。

「こんな天気が続いとったら、何か身体がかびてしまうそうな気ぃするわ」
「そりゃ良い季節だな。そしたら、またアリスが美味くなるわけだ」

 クックッと喉の奥で笑う振動が柔らかなシーツを振るわせ、私の鼓膜も振るわせていく。
「アホか。ふつう黴生えたら腐ってんのやで。そんなんで美味いわけあらへんやんか」
 もちろん私は食べ物ではないが、その部分は寛大な心でもって不問に処す。一応ちょこっと、少しだけは火村に対して悪いな、と思っている部分もあるから、ある程度なら譲歩してやる。

「カマンベールやブルーチーズは黴が生えてても美味いぜ」
 火村の応えに、私は身体中からどっと力が抜ける気がした。確かにチーズ云々は間違ってはいない。だが、それ以前の問題として、絶対的な何かが違っている。

「君、頭の中に黴生えてんのと違うか」
 溜め息のような言葉に、火村はくしゃりと私の髪を混ぜることで応えた。慈しむように髪に触れる指先の感触に、ほうっと大きく息をつく。穏やかにゆったりと流れていく時間は、気怠いような睡魔を連れてくる。このままもうひと眠りしようか、と全身の神経を緩めた時、不意にその音が鼓膜に響いた。
「聞こえちまったか?」
 プッと吹きだした私の頭上から、少しだけ罰の悪そうなバリトンの声が落ちてきた。腕立て伏せのような姿勢で、がばりと勢いよく半身を起こす。

「君、お腹空いてんのか?」
 からかいを含んだ声音に、火村がぼそりと呟いた。

「お前が食べ物の話なんかするから、腹が空いてたのを思い出しちまったんだよ」
「よぉ言うわ。言い出したんは、君やんか」

 言い返したその時、私のお腹からも景気のいい音が響いた。火村から聞こえてきた音より幾分高いそれに、私は反射的に胃の辺りを押さえた。
「そういや昨日串カツ喰ったあと、何にも食べてねぇもんな」

「そやったわ。なぁ、今何時なん!?」
 腹を押さえながらの私の問いに、火村は「よっ」と掛け声をかけてベッドヘッドの所に置いた腕し時計へと手を伸ばした。灰皿の横にあるそれを右手に握り、双眸を眇めるようにして時間を確認する。

「1時半だな」
「昼間の?」

「当たり前だろ」
 私のくだらない質問に、火村は呆れたような口調で素っ気ない返事を返した。窓の外を覗いたのだ。私だって、今が夜だと真剣に思っているわけじゃない。だが、一応は用心深く念のためってとこだ。何せ眠りに落ちた時の状況が状況だったから、念を押すにこしたことはない。

「そやったら夕飯喰って、1、2、3---」
「17時間30分」

 指を折りながら数えていた私に、火村が明快な頭脳を披露してくれた。それに感心するより先に、一段と大きな声で腹の虫が騒ぐ。
「半日以上、なんも喰うてへんのかぁ…」

 キュルキュルと悲しげな音をたてるお腹を撫でながら、私は力が抜けたように呟いた。しかも時間だけじゃなく、眠る前にそれなりのことをやらかしてしまったつけもそれに加わるのだから、腹の空き具合が半端じゃないのも全くもって道理だ。
「仕方ねぇな」

 ぼそりと呟いた火村は、掛け声と共に起きあがった。火村の腹の上にあった私の頭が、その反動でぽてんとシーツの上に落ちる。
「どこ行くねん?」

 床に散らばったシャツやズボンを無造作に拾い上げる火村に、視線だけ向ける。適当にそれらを身につけた火村は、振り向きもせず右手を肩の辺りまで上げた。
「飯の仕度。お前もとっとと起きてこいよ」

「週末はベッドの中っていう、君の腐れた野望はどないすんねん」
 寝た子を起こすかな、と思いながらも、私の性格として思いついたことは口にせずにはいられない。それがいつも余計なひと言だと思い知るのは、後悔先に立たずとか後の祭りなんて言葉を実践してからだ。

 ズボンからはみ出させた皺の寄った白いシャツをひらひらと揺らし、大股にドアへと向かっていた火村は、ノブに手を掛けた状態でくるりと私の方を振り返った。寄りかかるようにドアにもたれ、にやりと質の悪い笑みを口許に刻む。爽やかなんて言葉とは縁遠いにもほどがある笑いだが、昔からその表情は妙に火村に似合っていた。
「腹が減っては戦はできぬ、って言うだろ」
「アホんだらッ!」
 火村に向かって力任せに投げつけた枕は、ぽすんと軽い音をたててドアにぶつかり重力に導かれるままに床へと落ちた。反射神経も素早く、締めきられたドアの向こうから、火村の楽しげな笑い声が聞こえてくる。それを耳にしながら、私はぱたりとベッドに倒れ込んだ。
 どうやら決戦は、食事のあとに持ち越されたらしい。今度こそ負けるものか、と私は新たに誓いに拳を固く握りしめた。


End/2000.06.28




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