★★★
CAUTION★★★

この話は『切り裂きジャックを待ちながら』の犯人について触れている
部分があります。原作をまだお読みになっていらっしゃらない方は、
原作読了後にお読み下さいますようお願い致します。
もし原作より先にこちらをお読み頂いて犯人が判ってしまっても
当方では責任を負えませんので、何卒ご注意下さい。








 To Be...

鳴海璃生 




May your days be merry and bright...
祈る神を持たない私は、いつも君自身に祈ろう。




 それはまるで舞台劇を見ているようだった。一人の女への愛ゆえに、己の中の芸術を失うことを恐れた男は、苦悩と葛藤の末、愛する女に死を与えた。クリスマスに相応しい、愛した女に相応しい、美しく敬虔な死を---。
 舞台という最高の場で、彼は彼女の死を自らの手で美しく演出する。---彼女のために、自分のために。そして狂気の中、彼は己自身の時間をも止めた。---愛した女の屍に見守られながら…。
 出来すぎの切ないミステリー。---今、現実として目の前で起こっている出来後の全てが、私にはまるで出来すぎの舞台を鑑賞しているようだった。
 舞台の上、青い一条の光に照らされて既に物言わぬ物体となった男の姿も、少しずつその領域を広げていく赤い血の海も、そしてその中に跪く探偵の姿さえもが、私にはまるで計算しつくされた舞台のワンシーンのように思えたのだ。---いや、そう思ったのは、たぶん私一人ではなかっただろう。その場にいた誰もが、目の前の舞台上で演じられた切ないミステリーに行きを飲んでいたに違いない。
 その証拠に、男の死によってこの劇は終わったというのに、広い観客席には物音一つ聞こえない。シンとした重い沈黙が至るところに影を落とし、まるでここだけ時間が止まってしまったような、そんな感覚を与えている。
 私を含めた数人の観客達は彫像のように動きを止め、息をすることさえ忘れて舞台の上の役者達に見入っていた。もちろん劇の終わりと共に下りてくる緞帳は、一向に動く気配もない。一体誰がこの劇に終止符を打つのだろう…。この場所で、この空間の中で、全ては止まってしまっていた。
 凍り付いた空間で、私達はただ呆然と舞台の上に視線を注ぐ。客電の柔らかな光だけが、舞台で起こっていることが虚構の物語ではないことを告げている。
 その視線の先で、ゆらり、と探偵の男が立ち上がった。血の海の中で、意図の切れた操り人形のようにぎこちない動作で正面へと振り返る。客電のオレンジ色の光と青い照明の中に浮かび上がった男の姿に、誰かが息を飲んだ。その音が、私の耳朶に触れる。微かな恐怖を含んだ雄弁な音。それは、私の耳の中で長く尾を引いた。---思わず耳を塞ぎたくなるような、その音…。
 うっそりと、影のように視界の中に立つ男。---良く見知っている、誰よりも私に近い存在のその男が、今は酷く遠かった。彼の常ならぬその様子は、目眩にも似た既視感を呼び覚ます。
 男が纏った白いジャケットは返り血に濡れ、跪いていたスラックスには赤い染みが広がっている。若白髪の混じった髪はぼさぼさで、前髪が彼の表情を覆い隠すように落ちてきていた。前髪の下から覗く双眸には、昏いかぎろいが透けて見える。狂気と後悔と、そして…。---そうではないと判っていても、その姿はまるで…。
 ---あれは、俺の知っている彼なのか?
 その男の中に私の知っている彼の姿を見出そうと、私はじっと目を凝らした。息苦しいほどの沈黙---。一体いつ、この劇は幕を閉じるのだ?
 正面を向いたまま微動だにしなかった男が、まるで誰かを探すように、見失った何かを探すように、ゆっくりと頭を巡らせた。
 ---俺を探している。
 唐突にそう思った。そしてそう思った瞬間に、私は彼の名を呼んでいた。
「火村ッ!」
 ---舞台は終わった。
 終わりを告げたのは、私の声。止まっていた時間がゆっくりと、まるで名残を惜しむかのようにゆっくりと私の周りで動き出した。現実が、血と狂気に彩られた現実が、一気に私達に押し寄せてきた。
 私の声に、火けらは薄く微笑んだような気がした。舞台に広がる血の海の中をゆったりとした足取りで進み、臨床犯罪学者は死者達の舞台を降りた。真っ直ぐに船曳警部の元へと歩み寄り、頭を下げる。警部の表情に、僅かに苦いものが混じる。が、彼はすぐに表情を改め、頭を垂れた火村の肩を慰めるように小さく叩いた。
 それを合図のように、沈黙の空間に音が戻ってきた。「救急車だ」「医者だ」と、人々の大声が私の上を行きすぎる。
 ---たった一つを除いて、ここには全部揃っているんやな。
 周囲の慌ただしい雰囲気を他人事のように感じながら、私は不謹慎にもそんなことを考えていた。被害者の死体があって、警察がいて、臨床犯罪学者がいる。ついでに言えば、役立たずのその助手も…。
 なのに、狩られるべき犯罪者だけが、ここにはいない。追いつめられ、自らの罪を告白し、彼は逝ってしまった。犯した罪を償うこともなく、狂気と幸福に満ちた演出の中で---。
 船曳警部が己の仕事へと戻るために火村の前を辞した後も、火村は頭を下げたまま微動だにしなかった。その姿に、苦いものがこみ上げてくる。
 ---君のせいやない。
 なのに、私火村の元へ1歩も動くことができなかった。助けたいと思うのに、誰よりもそばにいてやりたいと思うのに、私は彼に掛けるべき言葉を見失っていた。もどかしい程に今の私は、役立たずの木偶の坊だ。ただ火村を見つめていることしかできない。
 慌ただしく動き始めた時の流れは、火村と私だけを取り残し、過ぎていく。どれほどの時間が立ったのかも、もう既に定かではない。それは短かったようでもあり、永遠と思える程に永かったような気もする。呆然と佇む私の視界の先で、まるでずっとそのままではないかとさえ思えた火村が、ゆっくりと頭を上げた。
「アリス…」
 薄い唇が、私の名を呼ぶ。声にならない声が、私の耳に届く。---それは、私の気のせいだったのかもしれない。微かに動いた火村の唇が、私の名を形作ったと思ったのは---。
 人形のような動きで視線を巡らし、火村が昏い双眸の内に私の姿を捕らえる。戸惑いにも似た数瞬の空白の後、私を視界の内に捕らえたまま、火村はゆったりとした足取りで私の方へと歩み寄ってきた。口許には、いつも通りの皮肉気な薄い笑み。---が、彼の表情からは、何の感情も読みとることができなかった。
 言葉も無く、私の正面に火村が立つ。何か言わねばとは思っても、私は彼に掛けるべき言葉を見つめ出すことができなかった。---目の前にある人形のような、乾いた無機質な表情。眸だけが何かを語りかけているのに、私はそれを上手く読みとることができない。何もでない自分に、己の無力さに目眩すら覚える。
 僅か数10cmの距離で視線が絡む。互いに、互いから視線を外すことができない。見つめ合ったまま、ゆっくりと時間だけが過ぎていく。その沈黙に耐えられないように、視界の端で何かが動く気配が感じられた。
 スローモーションフィルムをみているようなゆっくりとした動きで、火村の腕が上がる。無言のままに私に手を伸ばそうとした火村が、何かに弾かれたようにその動きを止めた。表情に苦渋と侮蔑の念が混じる。私は火村の眸から視線を外し、私に触れようとした彼の手を見つめた。
 倒れた鳴海邦彦の上に屈み込んでいた時についたのか、火村の手は赤い血に濡れていた。改めて火村へと視線を移してみれば、彼の全身は禍々しい程の血に彩られていた。返り血を浴びた白いジャケット。中に着込んだ薄い黒のシャツにも、ところどころ血の染みが見受けられる。舞台の上で跪いていたスラックスは、血の海がそのまま写し出されたように赤く濡れた地図を描いていた。
 その姿の全てを検分するように見つめていた私の眼差しに、火村が微かに双眸を眇めた。口許に浮かんだ苦々しげな表情に、私はクスリと小さく笑ってしまった。
「アリス…」
 どこか苦い響きを含んだような声音に、私はますます口許の笑みを深くする。こな時なのに、名前を呼ばれたことが嬉しいなんて…。死に縁取られた舞台から戻ってきた火村が1番初めに口にしたのが私の名前だったことが、こんなにも嬉しい。死者への追悼より何より先にそう思ってしまうのは、不謹慎だろうか。
 ---でも嬉しいのは嬉しいんやから、しょーがあらへんよな。
 こんなにも、何にも代え難いほどに、私の想いの全ては彼へと向かっているのだ。私に触れてこない火村に一抹のもどかしさを感じつつ、私は火村の顔へと手を伸ばした。
「男前の顔が台無しやな」
 顔に飛び散った血を、触れた指で拭う。頬に触れる私の指に火村は僅かに身を強ばらせ、反射的にそれを払いのけた。
「---火村?」
 突然のことに呆気にとられた私に、火村は表情を歪めた。
「汚れるだろ」
 苦いものを耐えるような、ぶっきらぼうな口調。その時私の中に火村の感情の全てが流れ込んできたような気がして、私は浮かぶ笑みを堪えることができなかった。
 ---こいつ、まるで判ってへんのやな。
 日頃は火村にこけにされている私が、今日は何となく勝ち誇ったような気分だ。もちろんそういう次元の問題じゃないのは判りきっているし、こんな時にめちゃくちゃ不謹慎だな、とは思う。そう思うのだが、浮かんでくる笑みは押さえきれない。
「アホ。君、自分がどんな恰好か判ってるんか?」
 仏頂面を晒した火村をからかうように言ってやる。当然火村が自分の姿を良く判っているのは承知の上で、だ。そうでなければ、火村が私に触れようとした腕を途中で止めるわけがない。
 返事の代わりに、無言の沈黙が帰ってくる。それに気づかぬ振りで、私は言葉を続けた。
「そんな恰好で車に乗られたら、俺の高級車が汚れてしまうわ」
「スクラップ同然のおんぼろ車のくせして---」
 抑揚のない口調で返ってきた皮肉に、私は僅かに胸をなで下ろした。
「残念ながら、君の車には負けるわ。それより、その恰好…。早う何とかした方がええな」
 そう言って、私は火村の血に濡れた手を取った。まるで触れてはいけないものに触れたかのように、火村が慌てて腕を引こうとした。だが私は手に力を込め、絶対にそれを許さなかった。
 ---ふざけんなよ。俺は何があっても、絶対にお前の手を離さへんからな。
 言葉の代わりに、握りしめる手に私はより一層力を込めた。
「すみません。ここ、シャワー室とかあります? こいつ、着替えさせたいんですが…」
 火村の手を掴んだまま、私は傍らに立つ福本大介に声を掛けた。切り裂きジャックになり損なった男は、突然声を掛けられて驚いたように私の方へと視線を移した。
 血に濡れた火村の姿に眉を寄せ、微かに頬を歪める。それを無視して、私は福本に再度同じ言葉を問い掛けた。
「楽屋についてますよ」
「そこ、お借りしても構いませんか?」
「ええんやないですか」
 言葉に隅々に苦々しげなものが含まれる。が、それに気づかぬ振りで、私は福本に向かってペコリと頭を下げた。
「船曳警部」
 火村の手を握りしめたまま、私は舞台の上で鳴海の検死につきあっている船曳警部の名を呼んだ。私の声に、警部が丸い頭をゆっくりと持ち上げた。明るい舞台照明に、警部の禿頭がいつも以上にその存在を誇示して輝く。
「すみません。お先に失礼させて頂いても構いませんか?」
 船曳警部は返事の代わりに軽く右手を挙げ、微かに頷いてみせた。が、それも束の間、すぐに検死官に呼ばれ、私達から死体へと意識を戻す。
 ---たいへんやな…。
 他人事のように、そう思う。殺人とそれに続く犯人の自殺が重なった舞台上の現場が、今の私には妙に現実感を伴わない。バタバタと慌ただしい捜査の様子も、まるでスクリーンの向こうの出来事のように遠い。
 私にとっての現実---。今の私にとっての唯一の現実は、手に触れている温もり。傍らに立つ犯罪学者の存在だけだった。ゆっくりと振り向き、私は何よりも大切な私の現実と相対した。
「さっさとシャワー浴びて、着替えて、帰ろうや」
 私は、この場所から一刻も早く火村を離したかった。例え何が起ころうと、誰が引き留めようと、この血の匂いのする場所に、これ以上火村をおいておきたくはなかった。
 何もできない自分を、これほど口惜しく思ったことはない。でも、それでも、例え何もできなくても、私は私の持ちうる全てで火村を守りたかった。
 私は火村の腕をきつく掴んだまま、引きずるようにして1階上にある楽屋へと連れて行った。途中、何度か火村が私の手を振り解こうとしたのだが、私は絶対にそれを許さなかった。
「ええか。さっさとその服脱いで、身体洗え。その間に、俺は代わりの服を調達してくるから…」
 楽屋の奥にあるシャワールームに、私は乱暴に火村を押し込んだ。ついでにコックを捻ってシャワーも出してやろうかと思ったが、なけなしの理性でそれを押さえ込んだ。---何故なのか判らない。何に対してなのかも判然としない。だが、何かに対して無償に腹をたてている自分を、私は確かに自覚していた。
 ぼんやりと佇んだままの火村に一瞥をくれ、私はシャワールームを出ていこうとした。その私の背に、小さく呟かれた火村の声が届いた。---ような気がした。
「---何や? 呼んだか?」
 俯いていた火村がゆっくりと頭を上げ、血に濡れた前髪の奥から真っ直ぐに私を見つめてきた。開きっぱなしにしていた扉を後ろ手に閉め、火村の眼差しに惹かれたように、私は1歩1歩、歩を踏みしめるようにゆっくりと火村の方へ近づいて行った。
「センセ、独りで脱げへんのやったら手伝ってやろうか?」
 覗き込むように火村の眸を見上げ、私はニヤリと笑みを作ってみせた。片頬を歪めた火村に手を伸ばし、抱きしめるように彼の背に腕を回す。
「---アリス、離せ」
 低い、くぐもったような抑揚の無い声。その声に応えを返すように、私は火村の背に回した腕に力を込めた。
「アリス、離せ。お前が汚れるだろう」
 ---ほんまに、こいつは…。
 苛立ちを含んだ声音に、私は胸の中で小さく呟いた。本当に火村がそう思っているのなら、私の腕を無理にでも振り解けばいいのだ。いくら私が力を込めようと、火村にとっては私の腕を振り解くことぐらい造作もないことに違いない。
 ---それをやらずに俺に腕を離せやなんて、お前ほんまにずるすぎやぞ。
「アリスっ!」
 火村の声に、私は腕に込めた力を緩め、正面から火村の男前の顔を凝視した。昏い陰を宿した双眸が、私を見つめ返してくる。
「さすがにこの恰好やったら、キスする気にもならへんよな」
「アリスっ」
 火村の声に怒気が混じる。苛立たしげに眉を寄せたその表情に、私は舌を出して笑ってみせた。
「そんな風に怒ったって、怖いことなんてあらへんで。---言うとくけどな、俺は何があろうと、絶対にお前のそばを離れへんからな。なぁーにが汚れるや。そんなん洗い流せば済むことやないか。ふざけたこと言うのも大概にせんと、今日のクリスマスパーティは無しやからな」
 <屋根裏の散歩舎>のクリスマス公演を見た後、私達は私の部屋でいつも通りの呑み会を催すことにしていた。もちろんそれにクリスマスパーティと銘打ったのは、私だ。---で、それを取りやめるというのを脅しの一つにしてみたのだが、それが火村にはたいして効果がないのは承知の上だ。だいたい子供相手じゃあるまいし、例え火村でなくてもいい年齢をした大人にそんなことが通じるはずもない。それに実際のところ、本当に呑み会を無しにされると困るのは、火村ではなく私自身なのだ。
 既にケンタッキーにパーティバーレルは予約してあるし、酒だって色んな種類を取り混ぜて、しっかり用意してある。あと残るのは火村の料理だけで、私はそれをとっても楽しみにしているのだ。---まぃ、そんな些細なことはこの際、頭の片隅に捨てておいてやろう。
 私を見つめている眸が、皮肉気に細められる。身体に沿うようにダラリと垂らされていた腕が、ゆっくりと上がる。---と、突然すごい勢いで私は火村の腕の中に抱き込まれた。瞬間、何が起こったのか判らず、火村の腕の中で呆然と宙空を見つめる。やがて徐々に周りの様子が、ぼんやりとした視界の中に浮かび上がってきた。
 ---ここのタイル白かったんやな。
 火村に抱きしめられ、私は初めてシャワールームの壁の白さに気が付いた。その事実に、呆れたように苦笑する。---そう…。気が付いてみれば、どうやって、どこをどう通ってここまで来たのかさえ、私は良く思い出せないのだ。今の今まで、滑稽なぐらい私の目には火村の姿しか写っていなかったことに、改めて気づく。
 服を通して伝わってくる馴染んだ暖かさに、ほっと息をつく。暫くの間、私達は互いの温もりを確かめるように抱き合っていた。
「バカアリス」
 首筋に暖かな息が触れ、くぐもったような小さな笑い声が耳朶を掠めた。聞き慣れたバリトンの声が、今は何故か懐かしい。
 ---火村、お前ちゃんとここにおるんやな。
 触れている火村の温もりが愛しい。
「何言うてんのや。バカは君やで」
「お前だよ、バカアリス。パーティ中止したら、お前が美味い飯にありつけなくなるんだぜ」
 こいつ…。元気になった途端、それかい。さっきまでのしおらしさは、一体何やったんや。---そう胸の中で毒づいてみても、漸く取り戻した火村に、私は笑みを堪えることができない。
 ---火村に顔が見えなくて、ほんまに良かったわ。
 火村が私の肩口に顔を押しつけていて、本当に良かったと思う。いつもの口の悪さでもって皮肉を言われているのに、嬉しくてニコニコ笑っているなんて、そんなこと火村を喜ばせるだけじゃないか。---こんなことで意地を張っても仕方がないのだが、火村にそういう自分を知られるのは、やっぱり何だか口惜しい。
 それに、火村が元に戻った途端、私も元気になったのが嫌になるぐらいに判って、本当にめちゃくちゃ口惜しい。そして、それと同時に私の負けん気も、つられたように頭をもたげてきた。
「アリス…」
 囁きと共にゆっくりと火村の薄い唇が私のそれに近づいてきて、私は慌てて火村の背に回していた手を外した。火村の唇を両手で覆い、それを止める。途端、不機嫌そうに双眸を眇めた火村に向かって、これ以上はないってぐらいにニッコリと笑いかけてやった。
「こんな恰好やったらキスする気にもならへん、言うたやろ。妙な気起こす元気があるんやったら、さっさとその血、落としてしまうんやな」
 さっきまで散々心配かけたくせに、浮上した途端すぐに私の唇を奪おうなんて、ちょーっと考えが甘すぎるで、火村。私のキスは、そんなに簡単に奪えるほど安くはないんだ。むちゃくちゃ高いことを、しっかり理解しろ。
 鼻で笑いながら、密着した火村の躯を離そうと火村の胸を押した。ほんの僅かに身体が離れたところで、火村が私の手首を握りしめた。口許に見慣れた皮肉気な笑みを刻み、火村が私に質の良くない眼差しを注ぐ。
「アリス。そのままで外に出ていったら、出た途端に職務質問を受ける羽目になるぜ」
 火村の言葉に、私は反射的に視線を落とした。ついさっきまで火村と抱き合い、身体を寄せ合っていた私のシャツには、所々に点々と血の染みができていた。
「ゲッ! 何やこれっ」
 思わず呻いた私の身体を再び引き寄せ、慣れた仕種でシャツのボタンを外していく。
「だから、お前も一緒にシャワー浴びた方が良くねぇか」
「どアホっ!」
 止まらない手を必死で握りしめ、私は思いっきり怒鳴りつけた。火村の家や私の部屋ならまだしも、こんな公共の場で一緒にシャワーを浴びるなんて冗談じゃない。変態振りまくセンセイとは違って、私はまだまだ一般常識とか世間の目ってやつに捕らわれているのだ。
「ええかっ、俺が新しい服調達してくる間に、ちゃんとシャワー浴びとけよ」
 必死の思いで火村を引き剥がし、私はドアから身体を半分だした恰好で怒鳴りつけてやった。
「お前のその恰好はどうする気なんだ?」
 いつも以上にクールで落ち着いた声音に、無性に腹がたつ。
「心配してもらわんでも、森下さんか誰かにジャケットでも借りるわ」
「なるほど。…で、血がついたわけは何て説明するつもりなのかな、有栖川先生は?」
 いちいち全く腹がたつ。しかもそれが、言うこと全てごもっともってな感じで、そのうえ大当たりってなぐらいに的を射ているから、口惜しさも倍増する。
 それに、火村に言われるもでそんなことぜんぜん頭に無かったのだが、言われてみれば確かにそうだ。私のシャツに血がついたわけなんて、もし訊かれたとしても一体なんて応えればいいんだ。いくら何でも火村と抱き合っていました---なんて、地球がひっくり返っても言えるわけがないではないか。
 すっかり口ごもってしまった私に、火村がニヤニヤと意地の悪い笑みを作る。もしかしからあのまま落ち込ませておけば良かったかな、なんて性格のねじ曲がったことを考えたとしても、決して私が悪いわけじゃないぞ。---それっくらい、火村の笑いは憎たらしかったのだ。
「…そんなん適当に考えるから、お前はさっさとシャワーを浴びろや」
 罰の悪さを隠すように怒鳴りつけ、私は乱暴にシャワールームの扉を閉めた。目の端に肩を竦めた火村が、ちらりと過ぎる。
 ---何かもう、ほんまに…。
 扉に寄りかかったまま、ほっと息をつく。憎たらしいことこのうえないが、それでもやっぱり漸く取り戻した火村に、私は笑いを堪えることができなかった。
「アリース」
 シャワーの音に混じって火村の声が聞こえてきた。私はドアを細く開け、中を覗き込んだ。狭い空間に立ちこめた白い湯気と熱気に、僅かに眉を寄せる。
「何や。まだ何かあるんか?」
「呑み会はちゃんとやるんだろうな」
 髪を洗いながら、振り向きもせずに言う。クリスマスパーティと言わずに呑み会というところが、火村らしいといえば余りに火村らしくて、小さく苦笑する。
「当然や。センセの手料理、楽しみにしてるんやからな。今さら無しやなんて言うたら、今年一杯俺の部屋には出入り禁止やからな、君」
 応えの代わりに軽く手を挙げた火村に満足したように笑み、私はゆっくりとドアを閉めた。


 May Your Days be Merry and Bright...

 君の明日が幸福でありますように---。
 祈る神を持たず、こんなにも無力な私は、いつもただ君のそばにいて、君自身に祈ろう。


End/2000.11.25




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