水の中の密室

鳴海璃生 




「はぁ〜」
 少し冷えた空気の中に、重い溜め息が沈んでいく。長々とフローリングの床に寝そべって、私は傍らに積んであった本の山の中から適当な一冊を抜き出した。ひんやりとした紙の感触を伝えるそれは、珀友社から送られてきた今月発売のミステリー雑誌だった。
 見るとも無しにパラパラと捲ってみる。が、十ページほど捲ったところで、私は手の中の雑誌を放り投げた。ごろんと身体を回転させ、仰向けに寝転がると、視界の中に見慣れた白い天井が飛び込んでくる。それが何となく今日はいつもより遠くに感じて、私はゆっくりと目をしばたかせた。
 そして、もう一度溜め息…。
 電気は煌々とついているのに、何故か今日は部屋全体がぼんやりと薄闇の中に霞んでいるような気がした。
「何だよ、アリス。さっきから溜め息ばっかりついてるじゃねぇか」
 ぼんやりとした意識の隙間を縫うように、不意に耳に飛び込んできたバリトンの声。私は怠惰に頭を動かし、白い天井から声の主へと視線を移動させた。既に定位置と化したソファで分厚い専門書を読んでいた助教授殿が、双眸を眇めて私を見つめていた。
「---俺、そんなに溜め息ついてる?」
 そう言われてもまるでその自覚のない私は、火村の言葉が信じられないとばかりに、間抜けな問い掛けを返した。私の言葉に、今度は火村が一つ溜め息を吐いた。
「今ので六度目だ。お前、呼吸の代わりに溜め息ついてんじゃねぇか?」
 どこか呆れたような口調。口許にシニカルな笑みを浮かべた助教授は、僅かに肩を竦めてみせた。
「んなことあらへん」
 何となく身に覚えのない言い掛かりをつけられたような気がして、私は視線を天井へと戻した。が、たった今口にした言葉を自ら否定するように、知らず知らずの内にまたもや溜め息が零れ落ちる。---でも私には、それという自覚はない。
 世間ではそろそろ一日の終わりへと向かって足踏みを始める慌ただしい時間にも拘わらず、この部屋の中にはのんびりとした空気が漂っていた。何せここ数日、私を地獄のどん底に突き落としていた魔の締め切りが漸く終わり、次の締め切りまではゆっくり楽園を満喫することができるのだ。何も世間の時間の流れに合わせて、あくせく動く必要などない。
 不足した睡眠時間を補うように惰眠を貪り、ついさっき遅い朝食兼昼食を終えた。その後これといってやる事もなく、ぽっかりと空いてしまったエアポケットのような時間。---退屈なわけでも、眠たいわけでもない。もちろん閑を持て余しているわけでもない。ただ、何となく…。---上手く言葉にできないもどかしさに、再度溜め息が漏れた。
 パタンと本を閉じる微かな音が、シンとしたリビングの空気を震わせた。ゆっくりと近づいてくる慣れた気配…。ふわりとキャメルの香りが鼻腔をくすぐり、冷たい指先が私の指に触れた。私の隣りに座り込んだ火村が、くしゃりと私の髪を掻き回す。
「締め切りは何とか間に合ったんだし、今さら溜め息つくようなことは何もねぇだろ。それとも何か? 毎回毎回筆の遅い作家は遂に片桐さんに見捨てられて、次から仕事が来なくなったのか?」
 締め切りぎりぎりの私に泣きつかれて、ここ三日ほど食事の面倒をみてくれていた火村がからかうように言う。私は雄弁な溜め息と一緒に、ぼそりと呟いた。
「アホ。んなわけあるかい。片桐さんは君とは違うて、心が広いんやからな」
「随分だな。俺だって十分心が広いだろうが。何せ三日も泊まり込んで、文句の一つも言わずにお前の面倒をみてやったんだぜ」
 僅かに首を傾げ私の顔を覗き込んだ火村は、喉の奥で小さく笑った。
「全然ダメやな。君の場合は、見返り付きやから」
「当然だろ」
 クールな響きを持つ声とは裏腹に、髪に触れる指先は優しい。その心地よさにほっと息をつき、私は視線を皮肉屋の助教授から窓へと動かした。
 灰色の風景が視界に写る。谷町筋を通る車のライトが反射しているのだろうか、時折細い糸のような雨がキラリと宙空で光った。窓ガラスを伝う雨の滴。---それらを見ている内に、私の口からまた一つ溜め息が零れた。
「アリス」
 先刻までとは違う、柔らかな口調。微かな問い掛けを含んだバリトンの声は、周りの灰色の風景そのままに私の中に溶けていく。
「---別に心配事があるわけでも、退屈なわけでもないんや」
 窓の向こうの風景を見つめたまま小さく呟き、私は続く言葉を探した。途端にリビングを支配する冷えた静寂---。
 届くはずのない雨音が、部屋の中に流れ込んできたような気がした。髪に触れる指先が、言葉の代わりに消えた呟きの先を促す。どういう風に言えば上手く伝わるのだろう。私の中の意味のない不安。言葉にならない孤独。
 ---言葉なんか、ない。
 全て、この降りしきる雨のせいだと思う。音も無く空から落ち、風景を灰色に染め上げる雨が、徐々に私を世界から遠ざけていく。
「---こうしていると、何か水槽の中にいるような気せぇへん? ゆっくりと水の中に沈んでいくような…。そんな感じせぇへん?」
 世界と切り離されてしまったような空間---。
 空気を震わせる低い空調の音も、微かに聞こえる車の音も、全てが私からは遠い場所にあった。まるで雨というフィルターに遮られた部屋の中で、私を取り巻く空間が不自然に歪んでいるようだ。
 きっと私の周りにあるのは、空気ではなく淀んだ時の流れ。だから、呼吸の代わりに溜め息をつく。身体の中に流れ込んできた時の淀みを吐き出すように---。
 果たしてそれを心地よいと思っているのか、寂しいと思っているのか、良く判らない。それとも、それらとは全く別の感情なのだろうか…。自分のことなのに、私自身にさえその境目が良く判らなかった。
 ただ、ゆっくりと沈んでいく。深い深い海の底に潜るように、私の意識がゆっくりと沈んでいく。そして世界が、現実が、少しずつ私から遠離っていく。---いや、私が世界から遠離っていく。
「密室だな」
 ぽつりと落ちた言葉に、私は改めて隣りにいる他人の存在を意識の内に留めた。灰色の染まった視界の中で、閉ざされ淀んだ空間の中で、何故か火村だけがはっきりとその存在を主張していた。
 何にも溶け込むことのない唯一の存在。
 ぼんやりと見つめる私に向かって、男前の顔がニヤリと皮肉気な笑みを作った。
「しかもお前が書くようなちゃちな密室じゃなく、時間と世界から隔絶された密室だぜ、ここは」
 髪に触れていた火村の手が、床に投げ出された私の右手を取った。火村に導かれるまま、私の手は水の中を漂うように宙を泳ぐ。それはまるでスローモーションフィルムを見ているようで、何故か現実味を伴わない。
 じっと見つめる視線の先で、火村は握りしめた私の手にそっと唇を寄せた。指先に触れる柔らかな温もりに、私はそれと判らぬほどに眉を寄せた。楽しげな色を滲ませた双眸が、私を見下ろしてくる。
「有栖川先生は、この密室をどうするんだ?」
 続く言葉の代わりに、火村は口許にシニカルな笑みを刻んだ。共犯者の眸で、私も笑みを作る。
「…そやな。今んとこ推理作家は開店休業やから、密室は密室のままや」
 左腕を火村へと伸ばし、ゆっくりと身体を起こす。それに応えるように、火村が私を抱きしめた。
 触れる温もりにホッと息をつく。頬に触れる髪の感触に首を竦め、私は目の前にある火村の耳に唇を寄せた。
「もちろん臨床犯罪学者も休業やろ?」
 応えの代わりに、火村の唇が私のそれに触れた。
 水槽の中で、私は密室を作る。私と、私だけのミステリーが存在する密室---。
 やがてその中で、ゆっくりと私達の時間が動き出す。
 世界は少しずつ私達から遠離っていく。
 雨音が止むまで、新しい朝が来るまで、私達の密室は開かない。


End/2001.05.23




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