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鳴海璃生 




「う…ん‥」
 ひんやりとした肌寒さを肩に感じ、私はゆっくりと目を開けた。柔らかなグレイに染まった空気に二度三度瞬きをして、私は重い身体を庇うように寝返りを打った。
 つい数時間前までは灰色の雨に塗り込められていた風景が、今は一転していた。灰色の雲間からは藍色に染ま始めた青空が覗き、明るさを増した西の空はゆっくりと夕焼けに彩られていく。
「あ〜、雨上がったんか…」
 ふわぁと大きな欠伸を零し、私は身体を起こした。リビングの床の上で眠っていたせいか、身体のあちこちが凝り固まったような痛みを訴えてくる。
「起きたか?」
 怠惰な仕種でポリポリと頭を掻いていると、キッチンとリビングを遮るカウンター越しに火村がひょいと顔を覗かせてきた。「あー」とか「うー」とか曖昧な返事を返す私に苦笑を浮かべ、火村は軽い足取りでキッチンから私の方へと歩み寄ってきた。
「ほら」
 少し汗をかいたペットボトルを私の頬に当てる。キンと冷えた冷たさに、私は小さく肩を竦めた。透明で清冽な美しさに目を細め、一気にボトルの中の水を喉に流し込む。
 喉を滑り落ちた水は、細胞の一つ一つを潤わせていくような気がした。同時に、ぼんやりと霞みのかかっていたような脳味噌が勢い良く動き始める。
 ゴクゴクと喉をならして500Nのペットボトルの中の水を半分ほど飲み干し、私はホーッと息をついた。
「あー、何か生き返った気がする」
 首を回し、肩を回す。体内に取り込んだ水のおかげで、軋んだような骨の動きもいくらかスムーズになったような気がした。そして頭がはっきりしてくると、徐々に現在の自分の状況も判ってくる。
 冗談じゃない。どうもさっきからひんやりとした寒さを感じると思ったら、裸のままじゃないか。一応タオルケットは火村が掛けてくれていたらしいが、身には何一つ纏ってはいない。
 キョロキョロと周りを見回し、脱ぎ捨てたはずの下着や洋服を探す。だが、お目当ての物はどこにも見あたらなかった。
「…なぁ、俺の服は?」
 適当に引っ掛けただけというだらしない様子ではあるが、自分だけしっかりと洋服を着込んでいる犯罪学者に訊く。火村は返事の代わりに顎をしゃくって、キッチンを指し示した。
 首を傾げながら耳を澄ましてみる。キッチンの方から、洗濯機の回る微かな音が聞こえてきた。
「何で洗濯なんかしとるの?」
 キッチンを見つめながらの素朴な疑問に、火村は呆れたように肩を竦めてみせた。
 ---何やねん、そのリアクションは。
 服を洗濯していると言われて、私が疑問に思うのは当然だろう。なぜなら、私はつい三、四時間前まで身につけていた洋服を、洗濯が必要なほど汚した覚えはない。火村先生の趣味が洗濯だっていうんなら判らないでもないが、奴がそんな趣味を持ったなんて話はこれっぽっちも知らない。
 怪訝な表情で見つめ返す私に向かって、火村は態とらしい溜め息を零した。
「寝ちまった有栖川先生を拭いてやったんだよ」
「あー、そりゃまた…」
 罰の悪さにキョロキョロと視線を彷徨わせ、私は意味のない返事を返した。眠りに落ちる前の自分がどういう状態だったか覚えているだけに、洗濯の理由も簡単に納得できるのだが---。
 まずいっ! この話をこのまま続けると、非常に不味い事態に陥ってしまう。己のために、ここはひとつ話題を---。
「おい---」
「えっと…んじゃ俺、シャワーでも浴びてこようかな」
 火村の言葉を強引に遮り、私は探し出した新しい話題を口にした。ちょっとでも隙を見せると、火村にそこを突かれるのは嫌になるぐらい判っている。ここは何が何でも火村の言葉を無視して、話の流れを自分の方に引き寄せるに限る。それに、床の上で寝ていたせいで身体のあちこちが痛いし、身体自体もすっかり冷え切っていた。
「ふ〜ん…。アリスがシャワー浴びるなら、俺も一緒に入るかな」
 不埒な台詞を吐きながら、ずいっと身体を寄せてきた火村をじろりと睨め付ける。額に落ちた前髪を緩く引っ張り、私はフフンと鼻を鳴らした。
「君はもうシャワーを浴びたんやろ? 髪の毛まだ濡れてるで」
 指先にしっとりとした感触を伝えてくる髪を、くいっと引く。勝ち誇ったような笑みを作るが、火村がそれに怯む様子はなかった。
「アリスと一緒なら、もう一回シャワー浴びてもいいぜ」
「アホかい」
 私は指先に絡めていた火村の髪を振り払った。
 全くこの先生は、何を考えているんだか…。常識をこよなく愛している私には、火村の言動は時々謎だ。
「君には他にやることがあるやろ?」
 火村がおや、というように眉を上げる。
 チッ、本当に鈍い奴だ。適度な運動をして、適度な睡眠。人間の持つ三大欲望の内の二つを満たしたのだ。残りは、一つしかないだろうが---。
「めしッ! 腹が空いた」
 ずいぶんと陽が長くなってきたので時間の感覚が狂い勝ちだが、既に時刻は夕方という時間帯に入っているのだ。いいかげん腹だって空いてくる。
 そんな私の思いに応えるように、壁の時計がポーンと鳴った。その音に視線を滑らせる。壁の時計は、五時三十分を示していた。
 はっきりとした時間が判った途端、空腹も一気に加速する。キュルルルと悲しげな音をたてた胃袋の辺りを、私は慰めるようにさすった。
「相変わらず本能のままに生きてる奴だな」
 からかうような火村の言葉に、私はケッと舌を出した。自分にだってそれなりの自覚はあるし、そう言われても仕方ないとは思う。だがこいつにだけは、絶対言われたくないぞ。
 抗議の意味を込め、じろりと睨む。その私の視線の先で、片手にペットボトルを持った火村が立ち上がった。
「飯の用意をしてやるから、とっととシャワーを浴びてこい。風邪ひくぞ」
 火村の言葉に小さく頷き、私は「よっこらせ」と年寄り臭い台詞を口にしながら立ち上がった。足下にわだかまったタオルケットを適当に身体に巻き付け、うーんと大きく背伸びをする。途端、身体のあちこちからポキパキと骨の鳴る音がした。凝り固まったようだ、と思っていた身体は、私の認識以上に鉄板を張り付けていたらしい。
「全く自分ばっかさっぱりしやがって…。せめてベッドに運ぶぐらいの優しさはないんかい」
「うるせぇな」
 ズルズルとタオルケットを引きずりながら小声でブツブツと文句を言っていると、打てば響くような瞬発力の良さでバリトンの声が異論を唱えてきた。まさか聞こえているとは夢にも思っていなかった私は、ひくりと息を飲んだ。相変わらずの地獄耳は、発揮してほしくない時に限ってその威力を発動させるから、厄介というしかない。
「か弱い虚弱体質の助教授が、お前をベッドまでなんて抱えていけるか。わざわざ上掛けを掛けてやっただけでも有り難いと思え。それとも何か? ベッドまで引きずられて行った方が良かったのか?」
 か弱いとか虚弱体質のくだりには大いに反論があるが、死体もどきで引きずられていくのは絶対に嫌だ。火村ならやるであろうそのシーンを脳裏に描き、私はブンブンと頭を左右に振った。その私を見つめ、火村がフンと鼻を鳴らす。
「納得したなら、とっととシャワー浴びてこい。着替えはおいといてやる」
「へーい」
 軽い返事を返し、私はそそくさとバスルームに走った。
 人気のない冷えた空気の中でコックを捻ると、暖かいお湯が身体を打った。そのお湯の温かさに、ゆっくりと固まったような節々が溶かされていく。
 ホーッと大きく息を吐き出すと、身体の中からトロリと溶けていくような気がした。できれば風呂に浸かりたいが、この際贅沢は言うまい。
 ぼんやりとお湯の温かさを堪能していると、扉の向こうで人の動く気配が感じられた。ついでお湯の音をぬって、バリトンの声が響いてきた。
「おい、着替えおいとくぞ」
「ほーい。あんがと」
 火村の声に不抜けた声で応える。せっかく目覚めた脳味噌が、また眠りの淵へと誘い込まれていくようだ。
「いかん、いかん」
 慌てて頭を左右に振り、私はスポンジを手に取った。このままお湯の中でとろけていたら、本当に眠り込んでしまう。
 ボディシャンプーをスポンジの上で目一杯泡立て、てきぱきと身体を洗う。ついでに髪の毛も洗ってバスルームから出た時には、茹だってしまうぐらいに身体中がほかほかと火照っていた。
「あー、さっぱりした」
 蒸し器から出た肉まんの気分を味わいながら、私はバスタオルでごしごしと乱暴に髪の毛を拭いた。身体はさっぱりほっこりで、空腹も程良く胃袋を刺激してくる。これで冷えたビールをキューッと呑んだら、気分はまさに天国。
「いやぁ、めっちゃええ気持ちや。なぁー…」
 ---と、同意を求めるように鏡を見て、私はその場で凍り付いた。
 シャワーのお湯にほんのりと色づいた身体に、点々と浮かび上がる紅い痕。それも数個じゃなくて---。
「ゲーッ。何やこれっ! 気持ちわりぃー」
 キスマークといえば聞こえは良いが、それだって限度問題だ。数えるのも嫌になるぐらいあると、キスマークというより虫刺されか湿疹の類にしか見えない。
「あっ、ここにも…。うわっ! こんなとこにもあるっ」
 腕を上げたり下ろしたり。ついでにくるりと振り返って背中を鏡に写すと、そこにも点々とついた紅い痕が目に飛び込んできた。
「---あのアホんだら。限度を考えんかいっ!」
 濡れた身体を拭くのもそこそこに、私は用意されていた着替えを慌てて身につけた。もちろんシャツのボタンは、ぴっちりと上まで留める。それでも襟首辺りからチラリチラリと紅い痕が覗きそうで、心臓がドキリと跳ねる。
「おい、火村!」
 バタンと大きな音をたて、私はバスルームからリビングへと駆け込んだ。肩で息をする勢いの私とは対照的なのんびりとした様子で、火村がキッチンから顔を覗かせる。
「何だよ。飯の仕度なら、もう少し待ってな」
「そんなんどうでもええわッ! それより、どないしてくれるねん。外出られへんやないか」
 大股に火村の方へと歩み寄り、私はシャツの袖を捲った。そして、ぐいっと火村の前に腕を突き出した。
 二の腕の内側、陽に焼けていない白い肌に点々と散る紅い痕。目を眇めるようにしてそれを一瞥した火村は、ニヤリと満足げな笑いを零した。
「有栖川家で家政夫をやった見返りだ」
 ぬけぬけと口にされた台詞に、思わず力が抜ける。慌てて体勢を立て直し、私は出来うる限りの怒りを込めて火村を睨みつけた。
「取りすぎや」
「バァーカ、何言ってやがる。俺の時給は高いんだぜ。それぐらいで済むわけねぇだろ」
 火村の言葉に、くらりと目の前が揺れた気がした。火村の料理の腕や掃除洗濯等のハウスキーピングの腕は、とっても有り難くて捨てがたい。だがこんな暴利ともいえる見返りを払うことになるなら、次からの依頼は気を付けることにしよう。
 楽しそうな火村のチェシャ猫嗤いを見つめ、私は固く心に誓った。


End/2001.05.26




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