SIGNAL <1>

鳴海璃生 




 爽やかな五月晴れの続く、5月の後半のある日。清々しい気候に相反するように、私の頭の中は真っ白だった。目の前ではワープロの長方形のディスプレイに、真四角のカーソルが点滅している。それはまるで時限爆弾の爆発を知らせる時計のように、唯じっと見つめているだけで私の気を滅入らせる。
「はぁ…」
 溜め息をつき、側面のスイッチへと手を伸ばす。このまま電源を切ろうか、と一瞬考える。が、すぐに思い止まり、私は伸ばした手を引っ込めた。現実から逃げても仕方がない。これを終わらせない限り、現実、イコール締め切りはどこまででも私を追ってくる。
 机の上にごちゃごちゃと乗せられた小物---幾つかのトリックが書かれたノートやボールペン、空になったコーヒーカップ等---を端の方に寄せ、僅かに空いた場所に片肘をついた。宙空に視線を彷徨わせ、瞑想---じゃない、沈思黙考する。が、頭の中は、いぜん真っ白のままだ。
 私こと、専業推理作家の有栖川有栖は、昨日の夜からこの状態を繰り返していた。
 明日から東京で開かれる学会に参加する予定の火村と、偶然にも締め切りと締め切りの狭間で閑を持て余していた私は、夕陽丘にある私のマンションで、暫く京都を留守にする火村のためのささやかな歓送会を執り行っていた。
 その私の元に、珀友社の片桐氏から急ぎの電話が入ってきたのは、午後9時を少し回った時間だった。食事も終え、そろそろ一杯やろうか、というような時間だったこともあり、無粋に鳴り響くコール音に、私はふてくされたような様子で受話器を取った。
「もし…」
『有栖川さんッ!』
 私が言葉を口にする前に、切羽詰まったような声が突然私の耳に飛び込んできた。
「片桐さん、どないしたんです?」
 受話器を通してさえはっきりと判る慌てた様子に、さては事件にでも巻き込まれたか、と私の大いなる好奇心は、不謹慎にも一瞬の内に膨れあがる。
『お願いしますよぉ…』
「はっ?」
 続く泣きつかんばかりの猫なで声に、嫌な予感が全身を駆け巡った。
 概して、当たってほしくない勘ほど良く当たるもので、季節外れの肺炎で入院した某推理作家の穴を埋めるため、5日以内に短編を1本書く羽目に陥ってしまった。
 何事にも控え目な私は片桐氏の言葉に、何故私ごときに白羽の矢が…、と当惑する。が、その理由は思いの外容易に想像できてしまった。
「この作家の穴を埋めるなら有栖川がいいんじゃないか。今なら締め切りも抱えてなくて閑だろうしな…」
 恐る恐るお伺いをたてた担当編集者に、編集長殿が有り難くも賢くも、即断即決で応える姿が目の前に浮かぶ。
 ---どうせ、俺は閑を持て余してるよ。
 妙な僻み根性が頭をもたげた。いかんいかん、と思いながら、頭を振る。
 ストックの少ない--- いや、殆ど無いと言っていい---、しかも夜しか仕事のできない生産性の少ない作家であるは、もちろんのこと片桐氏のお願いに対して、謙虚な---みみっちい僻み根性は頭の片隅に追いやって---辞退の言葉を口にした。
 が、有無を言わさぬ片桐氏の迫力と、電話口にまで出てきた編集長御自らの有り難いお言葉に、私程度の駆け出し作家が早々逆らえるわけもない。
 斯くして、顔面を引きつらせながら快諾の返事を返した私は、担当編集者との友情の名の下---実際は己の保身という意味合いも含まれているのだが---、火村との歓送会を中止して、ワープロの前で唸ることとなってしまった。
「はぁ…」
 傍目にも判る程の大きな溜め息を吐き出す。昨日の夜から、トリックの幾つかが頭の中を行ったり来たりしている。がしかし、そのどれもが何となくしっくりとこない。
 髪の毛をぽりぽりと掻きむしりながら、再度ワープロの画面に向かった。とその時、何かが陽の光に反射したような輝きが、キラリと私の目の端を掠めた。それにつられたように、私はワープロの画面から視線を上げた。机の前に広がる窓の向こう、云うに数駅分は離れたビルの窓辺で、何かがのぼり始めた朝の陽の光を受けてキラキラと反射していた。


to be continued




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