SIGNAL <2>

鳴海璃生 




 最初気にも止めていなかったそれは、不規則な間隔で何度から煌めいた。途端、私の中の好奇心がむくりと身体を起こす。これも作家魂の性か、それとも単なる私の好奇心の為せる業か、いつの間にかその奇妙な光の間隔を、私は傍らのメモ帳に写し取っていた。
 光と光の間の間隔の長いものは長い線で、短いものは短い線でという具合に、奇妙な線の羅列がメモ帳に並んでいく。が、それを幾つか書き終えたところで、突然光の明滅は止まってしまった。数分間待ってみるが、その不思議な光が再び明滅する様子はない。
 不意に悪戯心を呼び起こされた私は、机を離れ、窓ガラスを目一杯大きく開けた。何か陽の光を反射させることのできる物はないか、と机の上や身の周りを探してみる。が、適当なこれといった物を見つけることができない。当然のことながら、独身の男が一人で暮らしている部屋に、手鏡なんて気の利いた物があるわけはない。
 とはいっても、一晩中ワープロを眺め、止まりきっていた思考に突然滑り込んできた楽しい憂さ晴らしを、そう易々と諦める気にもならない。胸の前で腕を組み、僅かの間考え込む。数秒の勘考のあと、昨日の夜から嵌めっぱなしだった左腕の時計に気がついた。
 上手くいくかどうかは判らないが、取り敢えず試してみる価値はある。一杯に開けた窓から身を乗り出すようにして太陽の位置を伺い、私は腕から外して右手に持った腕時計を陽の光にかざした。
 簡単にできるだろう、と高をくくっていた私の意に反して、それはなかなか難しい試みだった。何せ頭の中で考える程簡単には、時計の表面のガラスに上手く陽の光を捕らえることができないのだ。
 私は窓枠に左手をつき、伸ばせるだけ窓の外へと身体を伸ばした。そうして必死に思いで、太陽の角度に何とか腕時計を合わせようとした。
 時折、目の端に7階から見下ろす眼下の風景が飛び込んで来て、ぞくりと背に冷たいものが走る。しかし、窓の外へと伸ばした身体を引っ込める気にはならなかった。普段は余り高い所を得意としない私だが、今は完全に恐怖よりも好奇心の方が勝っていたのだ。
 揚々の態で陽の光を捕まえ、キラリキラリと腕時計のガラスに反射させる。果たして、それが向こう側のビルにまで届いているかどうか、とんと定かではない。が、それを抜きにしても、その単純な遊びは、膨らんだ私の好奇心を十二分に満足させてくれていた。
 少しずつ間隔の異なる間をおきながら、何回かそれを繰り返してみた。そして数分の間飽きることなくそれを繰り返したあと、私は相手の反応を確かめるため、腕時計を陽の光から隠すように手の中に握りしめた。
 窓の外へと乗り出した身体をほんの少し部屋の中へと戻し、相手の反応を待つ。が、残念なことに相手からは何の手応えも返ってはこなかった。じっと目を凝らしてみるが、光が反射していたあの窓には、何の変化も見られない。
 だが諦めの悪い私は、それでも暫くの間、窓枠に両手を付き身を乗り出したままの恰好で、相手からの応えが返ってくるのを待った。1分、2分と、いつもよりゆっくりと時間が過ぎていく。いつもより長く感じられる数分が経過したあと、私は諦めたように詰めていた息を吐き出した。
「だめか、やっぱ…」
 漸く見つけた楽しい遊びを途中で止められた子供のように、がっくりと肩を落とす。ビルの窓で何かが反射する光を見た時、風船のように膨らんだ好奇心も一気に萎んでいった。
 もしや何かの合図か、と思った光は、どうやら単なる偶然の産物にすぎなかったらしい。もっとも一日の始まりのこの時間、私と同じように閑を持て余している人間が早々いるわけもない。それどころか殆どの普通の人達は、まだ温かい蒲団の中で幸せな夢路を辿っているはずだ。
 斯くいう私とて、決して閑を持て余しているわけではないのだ。目の前には、広く果てしない白い広野が広がっている。この私の行為が、詰まるところ単なる現実逃避にしかすぎないことは、他でもない私自身が一番良く判っていた。
「しゃーないか…」
 萎んだ好奇心を持て余し、窓枠から目の前に横たわる現実へと戻り掛けた私の背を、良く通るバリトンの声が押した。
「アリス。てめぇ、何してやがるッ」
「えっ? …うわっ!」
 背中に降ってきた突然の大声に、私のか弱い心臓は一気に喉元まで跳ね上がる。と同時に、身体を支えていた両手が、勢いよくサッシの窓枠を滑っていった。ぐらりと世界が揺れ、視界一杯に窓の下の歩道の様子が広がる。
 ---だめや。落ちるッ!
 そう思った瞬間、何かに祈りを捧げるように私は目を瞑った。もしかしたら下へと落ちていくその様を、脳裏に刻みつけたくは無かったのかもしれない。
「アリスっ!」
 滅多に聴くことのない切羽詰まったような大声を耳にした途端、強い力が私の身体を後ろへと引っ張った。ついで、何かものが崩れ落ちるような激しい音が耳朶を通り過ぎた。
 ---アスファルトに打ち付けられた時って、やっぱ痛いんやろか…。
 新聞の片隅に小さく載った哀れな推理作家の死亡記事と共に、妙に現実的なことが頭に浮かぶ。同じ死ぬにしても、できるだけ痛くない方がいい。
 ---でも、それも一瞬だけやろけど。
 目を開ける勇気はなかった。だが、気持ちは不思議なほど落ち着いていた。結局、死ぬと思った瞬間なんてこんなものかもしれない。が、覚悟を決めた私に、その瞬間はいつまでたっても訪れはしなかった。運良く死ななかったとしても、重傷は免れないだろう身体の痛みも一向に感じない。強いて挙げれば、何となくお尻が痛いような気がしないでもない。
 私にとっては永遠とも思えるような沈黙のあと、あからさまに安堵したような大きな溜め息が、私の耳元で響いた。
「朝っぱらからドタバタと大きな音がしているから、覗いてみれば…。冗談じゃねぇよ、ったく」
 天国、或いは地獄に今私がいるのであれば、当然聞こえてくるはずのない最も近しい友人の声に、そっと閉じていた目蓋を開ける。視界に写るのは、嫌になるくらい見慣れた白い天井。
「---あれ?」
 きょろきょろと辺りの様子を見回し、私は素っ頓狂な声を上げた。
「あれじゃねぇだろ、あれじゃ」
 機械仕掛けの人形のようにぎこちない動きで、声のした方へと顔を向ける。部屋の天井よりも見慣れた助教授の顔が、憮然とした表情で私の目の前にあった。
「ゲッ、火村。何してるんや、君?」
 素面では慣れない至近距離に、慌てて身体を引く。が、私の意に反して、自分のものであるはずの身体はぴくりとも動かなかった。お腹の辺りに奇妙な圧力を感じて、咄嗟に視線を落とす。その視線の先に、私の身体を捕らえている枷、私の腹の辺りに巻き付いている火村の両腕が飛び込んできた。
「何するんや、この変態。離さんかいッ!」
 私の怒鳴り声に、火村はゆっくりと私を捕らえていた腕を解いた。憮然とした表情のまま、若白髪の目立ち始めたぼさぼさの髪を掻き上げる。正面から見つめてくる物騒な眼差しに、私は僅かに身体を引いた。
「命の恩人のこの俺に向かって、ずいぶんな言いぐさじゃねぇか、アリス」
「命の恩人やて…? 何言うとんのや。お前が急に声を掛けるからね俺が落ちそうになったんだろうが」
 負けじと言い返した私に、火村はフンと鼻をならした。呆れかえったような眼差しは、正面から私を捕らえたまま僅かたりとも動くことはない。
「良く言うぜ。スランプ中の推理小説家、自宅窓から飛び降り自殺。---なんてのは、洒落にもならねぇ冗談だな、アリス」
「だからッ、違う言うとるやないかッ! それに、一体どこの誰がスランプやねん、誰がッ」
 聞き捨てならない台詞のオンパレードに、反射的に怒鳴り返す。それを右から左に聞き流し、火村は私の鼻先に向かって、ぴしりと人差し指を突きつけた。
「自分が人並み外れてそそっかしいのを忘れて、あんまり危ない真似するんじゃねぇよ」
 図星をつかれて、言葉に詰まる。何か言い返そうにも、火村の言葉は的を射すぎていて、生半可な言い訳はかえって彼に揚げ足を取らせる結果になってしまう。が、そうはいっても、根本的に負けず嫌いの私だ。それでも何とか言い返そうと、鼻先に突きつけられた人差し指から火村へと視線を上げた。
「一体だれのせいやと…」
 拳を握りしめ、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。憮然とした表情の火村の眼差しの中に、心底安堵したような色が浮かんでいる。口の悪いことを言いながらも、この無愛想な友人は、いつだって誰よりも私のことを心配してくれているのだ。
 火村の口をついて出る憎まれ口に、むっとすることは多々ある。が、その言葉の奥に火村の本心が隠れていることを、この長い付き合いの中で私は誰よりも良く知っていた。それに第一、私とて露骨に面と向かって火村に心配されたら、何とはなしに面はゆいし、気恥ずかしいではないか。
「…悪かった。気をつける」
「アリス、反省だけなら猿でもできるんだぜ。せめてワープロ並みの記憶力で、今の言葉をしっかり頭に刻み込んどくんだな」
 続けざまに口の悪いことを言いながら、火村はズボンのポケットからキャメルを取り出した。口の端にくわえた煙草に火をつけ、ドアへと踵を返す。
「チッ、すっかり目が醒めちまったぜ。朝飯の用意をするから、適当なところで切り上げて来い」
 ぼけっと床に座り込んだままの私にひと声掛け、火村はリビングへと姿を消した。
 ズキズキと痛みだした腰を撫でさすりながら、再びワープロの前に座る。今の騒ぎで何かいいアイディアが…、と思ってみても、実際のところ頭の中には何も浮かんでこない。それより、火村の「朝食」のひと言に思考が空回りする。
 が、諦めも悪く、ワープロの前で唸ること約1時間。ついに朝食の誘惑に耐えきれなくなった私は、慌ててワープロの電源を切り、ダイニングへと駆け込んだ。テーブルの上に並べられた朝食に、思わずにんまりと笑みが漏れる。
「火村がいると、ほんまに食事が豪勢やな」
 ニコニコと満面の笑みで席に着く私に、火村は呆れたようにな視線を注ぐ。
「お前は、一体どういう食生活をしてるんだ?」
 確かに火村の言う通り、テーブルの上に並べられた朝食---トーストとベーコンエッグとコーヒーにサラダ---は、一般的にみれば豪勢と言える程のものではない。が、いつもは朝昼兼用、作ってもせいぜいがインスタントのスパゲッティとかレンジでチンすればOKの冷凍食品で済ませている私には、手作りというだけで十分に豪勢な朝食に思えた。
「火村センセがいると、ほんま新婚家庭みたいやな」
 トーストにバターとマーマレードを塗りたくり、私は上機嫌だった。火村言うところの自殺未遂を助けられた罰の悪さは、既に頭の片隅にもない。
「…で、朝っぱらから一体なにやってたんだ、お前は?」
 ベーコンエッグをフォークで突っつきながら訊いてきた火村に、私は先刻の出来事を---バカにされるだろうな、と思いながらも---親切丁寧に説明してやった。
「バカか」
 私の話を聴き終えた助教授の第一声は、私の推理と寸分違わぬものだ。さすがは推理作家有栖川有栖!---と、己を誉めてみても、何だか虚しい。
 ---どうせ、俺はアホやもん。
 苦虫を噛みつぶしたような表情で、冷えたトーストとコーヒーを胃に流し込む。その私を横目に、火村は食後の一服を楽しんでいる。悠然と紫煙をくゆらせる助教授の目の前で、私はトーストの最後の一片を口に放り込んだ。
「さて…と---」
 火村は私が食べ終えるのを待っていたようなタイミングで、短くなったキャメルを灰皿の上で揉み消した。傍らに置いてあった旅行鞄を手に、ゆっくりと立ち上がる。
「何や、もう時間か?」
「ああ。8時半の新幹線なんだ」
 つられたように私も立ち上がり、並んで玄関へと向かう。
「気をつけて行ってこい。土産は、気を遣わんでもいいからな」
「ひよこでも買ってきてやるよ」
「アホ。やったら、もっと気ィ遣え」
 靴を履き終えた火村は、徐に私の方を振り返った。
「いいか。さっきみたいなバカなことをやってないで、とっとと仕事を上げちまえ。じゃないと、土産は買ってきてやらねぇからな」
 ふざけた口調でニヤリと口の端を上げながらも、しっかり釘を刺すことは忘れない。私はその言葉に逆らうことなく、ジーンズのポケットに突っ込んだ右手を宣誓するように肩の高さまで上げた。
「はーい。火村センセの言う通りにして、いい子でいます」
「なに言ってんだよ。じゃな」
 冗談を交えた私の応えに苦笑いを返しながら、火村は私の部屋をあとにした。
 私の目の前で、バタンと大きな音をたてて重い扉が閉まった。サンダルを突っかけ三和土に下り、ドアに鍵とチェーンを掛ける。一人になった途端、しんとした部屋の空気が冷たく感じられ、私は小さく溜め息をついた。
 どこかひんやりとした静寂の中、僅かの間玄関に佇んでいた私は気を取り直すように緩く頭を左右に振った。放り出した仕事に戻るべく踵を返したその時、私の頭の中にキラリと閃くものがあった。呑みたい酒もじっと我慢して、昨夜一晩かけても何にも思い浮かばなかった私の頭の中で、突如として一つのストーリーがその姿を形作り始めた。
「なーんや、そっかぁ。これがあったわ」
 胸の前でポンと手を叩く。
「さっきの使えば簡単やないか」
 徐々にはっきりとした形を作り始めたストーリーが頭の中からこぼれ落ちないように気をつけて、私は嬉々とした足取りで書斎へととって返した。


to be continued




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