SIGNAL <おまけ>

鳴海璃生 




 ひんやりと空調の効いたリビングで、私はソファの上にだらしなく身体を伸ばしていた。風呂上がりのほこほこに暖まった身体に、冷えた空気とさらりとしたパジャマの肌触りが心地よい。つけっぱなしのテレビから流れてくるアナウンサーの穏やかな声は、まるで子守歌のような穏やかな響きで鼓膜を振るわせる。まるで夢と現実の間を漂うようなどこか気怠い気分。
 ---あーっ、極楽やなぁ。
 ゴロゴロと抱きしめるようにクッションに懐いて世の幸せを満喫していた時、かちゃりとドアの開く音が響いた。序で、のんびりとした足音が聞こえてくる。
「アリス、ビール貰うぜ」
 「ああ」とか「うーっ」とか曖昧な返事を返しながら、私は声のした方に視線を向けた。がしがしとタオルで乱暴に髪の毛を拭きながら、今夜お泊まり予定の犯罪学者殿が、一直線にキッチンへと向かっている。その姿を視界の内に止め、私は緩く眉を寄せた。
 ここは一体だれの家だ、と疑問を抱きたくなるような横柄な態度も、パジャマのズボンをはいただけというラフな恰好もいつものことで、今さら文句を言う気にもならない。真っ直ぐに私の視線を惹いたのは、きれいに筋肉のついた広い背中。ちょうど右の肩胛骨の辺りに、普段には無い赤い痕があったからだ。
 ---あいつ、やっぱ怪我してたんやないか。
 谷町6丁目の駅で、殺人犯に押され、連絡通路の階段から落っこってきた私を受け止めたのだ。幾ら運動神経のいい火村とはいえ、全くの無傷ですむはずがない。だが「大丈夫か」という私の問いにも、また「お怪我はありませんか」という森下刑事の問い掛けにも、火村は平然とした表情で頭を左右に振ってみせたのだ。ちょっと頭を働かせれば判ることなのに、火村の態度にすっかり騙されてしまった。
「アリス、お前もビールいるか?」
「いらんッ」
 キッチンから聞こえてきた火村の声に、私は大声を張り上げた。ビールなんかより、今は救急箱だ。火村の様子からたぶん骨には異常ないと思われる。だが、たかが打ち身、されど打ち身だ。私のあんまり有り難くも無い経験からいくと、このまま何もせずに放っておくと熱をもって腫れが益々ひどくなってしまう。
 がばりとソファから身を起こし、私は電話機の置いてあるローチェストへと走り寄った。フローリングの床の上にぺたりと座り、両開きの扉を開ける。こちゃこちゃと小物が入れられた扉の中、二段に分かれた下の段の一番前に、まだ新しい、独り暮らしには立派すぎる救急箱がドンと鎮座ましましていた。
「何やってんだ?」
 肩にタオルを掛けた火村が、ビールを煽りながらリビングへと戻ってきた。訝しげに私の様子を見つめ、定位置であるソファへと向かう。
「アホ、そっちやない。こっち来い」
 両手で救急箱を抱え窓のそばへと歩み寄って行った私は、その場所に座り込み、おいでおいでをするように、手招きで火村を呼んだ。
「何だよ、一体?」
 すっかりソファでくつろぐ体勢に入っていた火村は、私の方へと視線を向けた。態度のあちこちに、面倒くさいとか、うざったいなんて形容がはっきりと見てとれる。だが、今はそんなの気にしちゃいられない。
「ええからッ。ビールおいて、とっとと来んかい」
 少しだけ語気を強めた私の言葉に、やれやれというように小さく首を振る。が、一度言い出したら私がなかなか引かないことは、火村にも良く判っていた。火村は手にしていたビールをテーブルの上に置いて、大股に私の方へとやって来た。
「むこう向いて座れ」
「へいへい」
 子供の我が儘につきあうように、火村はおとなしく私の前に背を向けて座った。肩に掛けているタオルを取り去り、私は膝の上に置いた救急箱を開けた。幸いというか何というか、ここんとこの数度におよぶ階段落ちのおかげで、擦り傷や打ち身に関係する薬類は、これでもかってなぐらいに充実していた。
「…ったく。何が大丈夫やねん。君もええ加減トシなんやから、無理せん方がええで」
 赤く腫れた場所にそっと触れる。痛むのか、火村がぴくりと身を竦ませた。触れた指先から伝わってくる熱さには、風呂上がりのほんのりした暖かさとは異なる熱が含まれていた。
「痛むか?」
「大したことはねぇよ」
「あんまり強がらん方がええで、おっさん」
 クスクスと笑いながら、私は大判の湿布薬を火村の背に貼り付けた。動きに併せて伸びたり縮んだりするそれは、ここんとこの私の愛用品だ。
「ほい、終わり。大事にしぃや」
 パシンと湿布薬の上を叩くと、火村が小さな声で「いてッ」と呟いた。
 薬を救急箱に戻し、蓋を閉める。それを片手に立ち上がろうとした時、不意に伸びてきた手がパジャマの裾を引いた。突然のことに踏ん張ることもできず、私は引かれるままにペタリと座り込んだ。
「何すんねんッ」
 振り返ろうとした私を、火村が後ろから抱きしめた。肩に腕を回し、耳元に唇を寄せる。何とか身を捩ろうと試みるが、肩に回った火村の腕が強固な枷のように私の動きを封じ込めてしまう。
「お返しに、お前の怪我の手当は俺がやってやるよ」
「いらんッ。俺の怪我はもう直っとる」
 怪我の手当をしてやる、と殊勝なことを口にしながらも、火村の手はとてもそうとは思えない不埒な動きをする。後ろから回された指が、器用にパジャマのボタンを外していく。はらりと軽い感触を残してパジャマが肩から滑り落ちた。ひんやりと冷えた空気の中に晒された膚が、僅かに粟立つ。
「おい、火村ッ」
「るせぇな」
 慈しむように、ほんのりと温かい指先が背中を辿る。序でそのあとをなぞるように、唇が触れた。柔らかな感触に、とくんと鼓動が跳ね上がる。
「バカ野郎が。こんな怪我しやがって」
 低く囁くような声。触れてくる指と唇の位置から、火村が私の打ち身のあとを辿っているのが何となく判った。もちろんうしろに目が付いてる訳じゃないから、そうとはっきりと見たわけではない。だが、2日ほど前に洗面所の鏡の前で身を捩って何とか目にした背中には、右肩の辺りと右脇辺り、それと腰の真ん中に青い痣が広がっているのが見てとれた。そして、火村の柔らかな暖かさは、私の記憶の中にあるその場所を慈しむように、労るように順に辿っているのだ。
「君のそれ、絶対治療と違うで」
 強がりの言葉も、いつの間にか冷えた空気に溶けていく。触れる指先や唇は、くすぐったいようなもどかしいような…。でも、どこかホッとするような優しさを含んでいる。時折ピリッとした痛みが走り、その度ひくりと喉の奥で声が詰まる。口付けに、熱い吐息に、同じだけの熱を返す。ゆっくりと熱を溜めていく躯。背に触れるフローリングの冷たさに、私は僅かに眉を寄せた。
「火村、痛い」
 項に唇を寄せていた火村が顔を上げ、覗き込むような眼差しで視線を絡ませてきた。闇色の黒い双眸に、私の姿が写っている。
「まだ何もしてないぜ」
「アホか。背中がフローリングの床に当たって痛いんや」
 良くなっているとはいえ、火村の体重の幾らかを受ける背中は、微かな痛みを私に伝えてくる。もちろんそれは、気になるとか、火村からもたらされる熱に集中できないなんて程の強さではない。火村の眸に全てを晒して、自分では制御できない世界に連れて行かれる前の、単なる最後のあがきにすぎない。負けず嫌いな私の性格が、こんなところでも 顔を出す。
「仕様がねぇなぁ」
 そう口にした途端、火村がくるりと私を裏返す。その手際の良さと言ったら、まるでフライパンの中でオムレツをひっくり返すかのようだ。
「ちょお、待て。これは嫌や」
「何だよ。バックなら背中も痛くねぇだろうが」
「やって俺、バック嫌いやもん」
 確かにこの体勢なら背中は痛くない。だが、抱き合っている最中に火村の顔が見えなかったり、火村を抱きしめることができないのは、背中の痛みなんかよりずっと嫌なのだ。
「我が儘な奴だなぁ。だったら、上に乗るか?」
 クックッと喉の奥で笑いながら、火村は耳元に唇を寄せる。床と躯の間に潜り込ませた指が、ゆっくりと撫でるように胸の上を行き来する。
 ---何やこいつ、妙に楽しそうやないか。
 口調の端々に、触れる指先の感触に、火村の雄弁な想いが見え隠れする。
「なに下品な---」
 言い返そうとした言葉は、最後まで続かなかった。ぐいっと力任せに引き起こされ、舌を噛みそうになる。胡座をかいた火村に、背中越しに抱え込まれた。
「お喋りの時間は終わりだ」
 強い力で顎を捕まれ、窮屈な体勢で唇を合わせる。絡み合う舌や熱い吐息に、ゆっくりと意識が溶けていく。私を取り巻く世界が、私の全てが火村の熱に満たされていく。

◇◇◇

 大阪府警へ向かう谷町線の中、私はふてくされた表情で窓ガラスに写る自分の顔を眺めていた。朝---時間的には、昼に近かったが---起きて、顔を洗いに洗面所へと入った時から、私の機嫌はきれいな斜め向きのカーブを描き始めた。その原因を作った助教授殿は、これ以上はないってなぐらいに機嫌がいい。もし機嫌の向きなんてものを目で見れるならば、助教授のそれは私の機嫌とみごとな対象を為しているに違いない。
 連結部分のドアに寄りかかり、私は隣に立つ男に恨めしげな視線を注いだ。くそ暑い夏真っ盛りの、しかも真っ昼間だというのに、私の恰好は長袖のボタンダウンをきっちりと襟元まで止めるという、非常にかっちりとした恰好なのだ。もちろんシャツの素材は夏向きの麻だが、暑苦しいことこのうえない。
 別に大阪府警に行くからという理由で、こういう一見スクエアに見える装いをしたわけではない。初めて火村に連れられて府警に行った時ならいざ知らず、今さらそんなことやる気になど到底なれはしない。では何故、私がこんなやりたくもない恰好をしなければならなかったのか。それは全て、さっぱりした表情を晒す変態性欲の権威のせいなのだ。
 なのに、この恰好をした私を見た時の火村の第一声が、「何でそんな暑苦しい恰好してるんだ」なのだ。まったくもって、むかつくったらない。青痣やかすり傷は人様に見せてもどうってことはない---そんなもの見られたとしても、同情されるか怪我の原因を訊かれる程度だ---が、キスマークを人様に見せるわけにはいかないじゃないか。どこぞの犯罪学者と違って、私にはまだ羞恥心てものが、持て余すぐらいにたっぷりと残っているのだ。
 ---あちこち見境無くつけやがって。
 電車の揺れに身を任せ、私は横目に火村を睨みつけた。鼻梁の高い横顔を睨め付けながら、夏の間は絶対火村と寝るもんかッ、と心の中で拳を握る。
 その時の私の意気込みが、果たして何日持ったのかは、口が裂けても誰にも言えない。


End/2000.06.18




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