鳴海璃生
心斎橋のフランス料理店には、落ち着いたクラシックが流れていた。その音の合間を縫うように交わされる、人々の会話が耳に心地よい。
テーブルにつき、ワインを数杯傾けたところで、漸く私は谷町6丁目での出来事を火村に訊ねる余裕が出てきた。こうなってくると私の好奇心は、遠慮とか歯止めとかいう言葉を失ってしまう。
が、火村は私の矢継ぎ早の問いにも、一向に口を開こうとしない。うずうずと疼く好奇心の塊を持て余した私は、目の前で涼しい顔をしてグラスを傾ける友人をじっと凝視した。
「おい、火村」
僅かに険を含んだ私の声に、火村はグラスを持った右手を上げる。
「有栖川有栖の運の強さに乾杯…、ってとこだな」
「今さら乾杯なんぞしてもらわんでも、俺の運の強いのはよぉ判っとる。それより、さっきのあの騒ぎは一体なんなんや?」
私の問いをはぐらかすつもりなのか何なのか、火村は前菜の帆立の貝柱を朽ちに放り込んだ。序でグラスの中のワインを飲み干す。そうして漸く、私へと視線を移した。
「今から2ヶ月ほど前の5月24日未明、常盤町のあるビルで高梨という男が殺された」
「おい。誰が君のフィールドワークの話を聞きたい、って言った。俺は、さっきの---」
言い募った私の言葉は、人差し指を唇の前に立てた火村の気障な仕種によって、あえなくも途中で止められてしまった。
「まぁ、いいから、黙って聞いてろ」
私はむっつりと黙り込んで、視線で話の続きを促した。
「被害者の交友関係を洗っていくうち、犯人と思しき容疑者はすぐに割り出された。だが残念なことに、警察がやっきになって調査したにも拘わらず、その男を犯人だと立証するだけの手掛かりも証拠も、まるで出てこなかったんだ」
「完全犯罪か?」
私はワインを呑む手を止め、テーブルへと身を乗り出した。
「まぁ、このまま行くと、そうなったかもな」
火村が空になったグラスに、手ずからワインを注ぎ足した。
「アリバイはどうなんや? その男の」
視線の先で、火村がゆっくりと首を横に振る。
「無いんか?」
「その男は家で眠っていた、と言っている。が、そういう場合の常として、そう言っているのはその男だけで、その言葉を裏付ける人物はいない」
「う〜ん…」
目の前の前菜を食べることも忘れて、私は腕を組んだ。それを見つめ、火村が小さく苦笑する。
「ま、先に結論を言ってしまえば、犯人はその男だったんだが…」
「火村ぁ。人が一生懸命考え取る最中に、普通それを先に言うか?」
恨めしげな視線で抗議する私を宥めるように、火村は右手を上げた。
「まっ、普通だったら言わないな。が、この事件はそれを先に言ったからといって、興味が半減するような事件じゃないんだ」
「やったら、勿体ぶらずに早う話さんかい」
噛みつかんばかりの私の剣幕に、火村が小さく肩を竦めてみせた。
「犯人であるその男自身も、絶対に自分が犯人だとばれることはない、と思っていた。何故なら、事件が起こったのは夜明け頃だ。そんな時間に起きてる奴は早々いないし、それにその男自身も人に出くわさないように細心の注意を払っていたからだ。実際、そのビルから自分のアパートへ帰るまでの間、その男は誰にも会わなかったんだからな」
「うんうん。それで…?」
「自分を見たという証人もいない、もちろん物証もない。これじゃあ、いくら警察がその男を犯人だ、と思っていてもどうしようもない。事実、時間が経つ内に、警察の中でもその男に対する追求は緩くなってきた。その男はしめた、と思っただろうな。このままいけば完全犯罪は成立だ」
乾いた喉を湿らすように、火村がワインを口許へと運ぶ。悠長にんなもん呑んでる隙があったら、さっさと続きを話せ。
「ところが---」
ニヤリと火村が口許に笑みを刻む。
「もうそろそろ大丈夫だろう、と安心しかけたところで、とんでもない物が世に出たんだ」
「とんでもない物…。それって、その男にとってってことか?」
火村が鷹揚な仕種で頷く。
「---何や、それは?」
「これだよ」
勢い込んだ私の目の前に、火村は1冊の雑誌を置いた。それは、珀友社が出している『小説ミスト』だった。
「ミストやないか」
「そうだ。この中に載っているこれ---」
そう言いながら、火村は私の小説のページを開いた。
「俺の小説…?」
ますます訳が判らない。
「アリスが書いた小説の一部が、その男が常盤町のビルで高梨を殺した時に見た状況とそっくり同じだったんだよ」
火村が開いた私の小説のページには、男が遠く離れたビルから、まるで何かの合図のような光の反射を目にするシーンが描かれていた。私の書いた話の中では、その光が実は殺された男のダイイングメッセージであり、そこから第2第3の連続殺人事件が起こっていくことになるのだが---。
開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだ。呆然と口を開け、ワイングラスを片手に持ったまま、私はまじまじと目の前の臨床犯罪学者の顔に見入ってしまった。
「偶然やろ?」
火村がゆっくりと頭を左右に振る。
「んな、アホな」
「お前が自殺未遂をやりかけた日、何日か覚えているか?」
だから違う、って言っているのに、本当にしつこい奴だ。が、今はそんな些細なことを気にしている場合じゃない。それよりも、もっと気になる話が目の前に転がっているのだ。
「知らん」
「だろうな」
私の応えを予想していたらしい火村、口許に苦笑を刻んだ。
「5月24日だよ」
「はっ?」
火村の口から出た日付に、唖然とする。偶然といえば、余りに填りすぎた偶然だ。が、それとその殺人事件と、ついでに私の小説がどう結びつくのかが、さっぱり判らない。よくある偶然、なんてことは思えないが、決してありえない一致というわけでもない。それともまさか、私の小説のせいで人が殺された、なんておちじゃないだろうな。いくら何でも、それじゃあ余りにきつくて、冗談にもならないぞ。
考え込む私に、火村がにやにやとどこか楽しげな笑いを零す。
「何だよ、まだ判んねぇのかよ。推理小説家有栖川有栖の名が泣くぜ」
「悪かったな。フィールドワークは、俺の専門外や」
「まっ、いいさ。じゃ、その容量の少ない記憶を掘り起こして思い出してみろ。何でお前、窓から落っこちそうになったんだ?」
「だから、書斎から見えたビルの窓に何かが光って…。えっ。まさか、それ…」
ごくり、と私は息を飲んだ。
片桐さんからの急な依頼を引き受けたはいいが、なかなか話でできあがらずに頭を悩ましていた私は、その時の騒ぎをネタに、今回の小説を書き上げたのだが---。
---いや、でも、そんなまさか。幾らなんでもそんなこと。
頭の中で、意味のない言葉の羅列がメリーゴーランドのようにぐるぐると回り出す。
「そのまさか、だよ。お前があの時見た光は、殺された高梨の腕時計が陽の光に反射していたものだったんだ。もしかしたら、その時点でまだ息のあった高梨が、何とか誰かに連絡を取ろうとしてたのかもな。実際、腕時計は手首にじゃなく、高梨の右手に握られていたそうだからな」
「でも、んな光で連絡なんて取れるんか?」
「できない訳じゃないだろ」
火村が指でテーブルを、トントンと数度たたいた。その間隔は長かったり短かったりと、とてつもなくいい加減だ。じっと食い入るように火村の指先を見つめていた私の頭に、とある言葉が浮かぶ。
「まさか、モールス信号…」
「高梨も犯人の男も、同じヨット倶楽部の会員だったそうだ。モールス信号を知っていても不思議じゃない」
綺麗に切りそろえられた火村の爪を見つめ、私は頭を抱え込んだ。頭上から音のシャワーのように、穏やかな火村のバリトンの声が降りそそぐ。
「そして、高梨を殺した男もそれに気づいたんだ。おまけにご丁寧にもそれに応えるように、遠くのビルの窓から光りが反射してくるんだからな。そいつのその時の慌てようが、目の前に浮かぶようだぜ」
漸くそこで、私にもことの内容がはっきりと見えてきた。つまり、知らず知らずの内に、私は殺人事件の目撃者---実際は何も見えてないのだから、ちょっと違うかもしれないが---になってしまっていたのだ。ごくりと息を飲み込み、私は腕の間から上目遣いに火村を見つめた。今さら確認の必要もないことだが、それでも火村の口からはっきりと聞かない限り、どうにも納得できない自分がいる。
こういう状況は、何だかとっても罰が悪い気がする。でも自分自身はまるで覚えもないのに、「あなたは殺人事件の目撃者です」と言われて、「はい、そうですか」と簡単に納得できる人間が、この世に一体何人いるっていうんだ。ごく一般的な大多数の人間にとっては、殺人事件なんてものは身近な現実ではなく、テレビか小説の中の出来事なのだ。
「もしかして俺、気づかない内に、その殺人事件の目撃者になってたわけか?」
「まったく、いつもいつも器用に事件に巻き込まれるもんだな、アリス」
罰の悪そうな私の表情がおかしいのか、火村がクックッと喉の奥で笑う。
「でも、火村ッ。俺は何も見てないし、あの光のことかて偶然何かが太陽に反射してる程度としか思わへんかったんやで。そりゃ、もしかしたら新聞で記事を見たかもしれんけど、でも、そんな殺人事件があったことさえ、今の今まで知らなかったんやからな」
語気を強め、少しだけ憤慨したように言う。ほんまもんの目撃者ならいざ知らず、犯人の勘違い、或いは思い込みなんかで目撃者扱いされては、たまったもんじゃない。
「そうだろうな。が、犯人はそうは思わなかったんだ。もしかしたら、あの時光で合図を送ってきた人物は、何か気づいたのかもしれない。だが、そいつが一体誰なのか探そうにも、ビルは遠く離れていて、場所さえ定かじゃない」
上着のポケットからキャメルを取り出し、パッケージの中から1本引き抜く。が、食事の途中だったことを思い出し、火村は小さく舌打ちして取り出したばかりの煙草をパッケージの中に戻した。
「まぁ、多少気にはなっていても、本来ならそこで終わるはずだったんだ。ところが有栖川有栖先生は、親切にも犯人に、あの時光で合図したのは自分ですよ、って教えちまったわけだな。ま、犯人がこの本を読んのは偶然だったとしても、だ。だが、2度も重なると、偶然も必然に思えてくるよな」
火村は『ミスト』の表紙を指で弾き、唇の端を上げた。
「この本を読んだ時の犯人に、俺は同情するぜ」
さらりと、とんでもないことを言いやがる。同じ同情するなら、何の関係もないのに、犯人のおかしな思い込みで目撃者扱いされた私に同情してほしいものだ。
「もちろん犯人も最初は偶然だ、って思っただろう。だが、余りに似すぎていて、どうしても気になる。それでたぶん、お前の住所を探したんじゃないかな」
「---どうやって探すんや? 俺は電話番号も載せとらんし、当然やけど訊いたからいうて、出版社が教えるはずもないやろ」
「もし本気で探そうと思ったら、方法は幾らでもあるさ。個人情報の管理は、万人が考えているほど絶対ってわけじゃない。お前のプロフィールは本の巻末に載っているし…。それに俺と違って、お前はずっとこっちだしな。取り敢えず、一番手っ取り早いのは、同窓会名簿あたりじゃねぇか」
「そんなもんで判るんか」
溜め息のように力無く、ぽつりと呟く。別に、火村の返事を期待していたわけではない。が、返事の代わりに、火村は緩く頭を縦に振った。
---ゲッ、冗談やないで。
大切な個人情報がそんなに簡単に判るだなんて、大問題もいいとこだ。でもそういえば、今までにも出所の判らない電話とか、偶に掛かってきていた。一体どこで電話番号なんて調べるんだろう、と常々不思議に思っていたのだが、火村の話を聞いていると何となく納得できる。
「まぁ、どうやって探したかは深く追求しないが、とにかく犯人は何らかの方法でお前の住所を探り当てたんだ。そして、それがあの朝、高梨を殺した時に見た、光が反射していた方向と同じことに気づいたんだ。小説の内容といい、偶然にしてはできすぎている。きっと犯人はこう思っただろうな。こんな本にまで書くとは、こいつは絶対何か知っているに違いない。もしかしたら自分が犯人だと知っていて、脅迫しているのかもしれない」
「止めろや。普通するか、そんなこと。それに、だいたいやな。俺がどうやって、そいつが犯人やなんてことを知るんや。もしその高梨いう人がモールス信号を使うて合図してたとしても、俺はモールス信号なんてよぉ判らへんのやで。それに、何度も言うようやけど、殺人事件があったことさえ知らんかったんや」
「普通はそうだな。が、それはあくまで普通の場合だ。心に疚しいことのある人間は、ほんの些細なことにでも疑心暗鬼に陥りやすいものさ。こいつは、俺のやったことを知っている。犯人はそう思いこんだんだ。いや、もし知らなくても、このままにしておくと、いつ自分のやったことがばれるか判らない。こんな危険な人物を放っておくことはできない。いっそのこと高梨のように、この世から消してしまおう…。短絡的っていえば、これほど短絡的な考え方もないんだがな」
まだ数口しか呑んでいなかった目の前のワインを一気に煽り、私は恐る恐るという風に、頭の中を過ぎった考えを口にした。---もちろん、それを火村が否定してくれることを望んで、だ。
「もしかして俺が階段から転げ落ちたり、車道に転がり出たのって---」
「運が強いのは認めるが、お前のそばにいたのは、残念ながらサンタじゃなくて殺人犯だな」
否定どころかニヤニヤと笑いながら、あっさりと火村は私の問いを肯定してくれた。
ぞくっ、と背を冷たいものが伝う。知らないってことは恐ろしいというか、いや、知らなかったから幸せだったというか。それとも、事実は小説よりも奇なりっていうか---。まさか自分の相知らぬところで殺人事件に巻き込まれていようとは、夢にも思いはしなかった。それどころじゃない。もう少しで自分が死体になって転がるところだったんだ。ああ、良かった。運が強くて、ついでに日頃のおこないが良くて。
「良かったなぁ、アリス。新聞の社会面に載らなくて」
からかうような火村の言葉に、私は眉を寄せた。それが、死体の一歩手前をウロウロしていたご友人様に対していう言葉か。普通はもっと優しい労りとかねぎらいの言葉とか---。が、結果的に火村に命を助けて貰ったことになるのだから、文句の一つも言えない。
---ちょお待てや。
頭の中に、突然ぽっこりとそれは浮かんできた。私は、メインの肉料理に取りかかった臨床犯罪学者を、剣呑な眼差しで見つめた。まさか、とは思うが、でもこいつならやりかねない。
「火村。もしかしてさっき電話掛けてた相手って、船曳警部か?」
「そうだが。それがどうかしたか?」
シェフお薦めのトリュフ風味ソースの牛フィレ肉のポワレなるものにナイフを入れた火村が、たいして気のない様子で応える。目の前にあるのは、世界三大珍味をアレンジしたこの店でも人気の一品らしいのだが、とても暢気に味わっている気分じゃない。
「どうかしたか、やないやろッ。お前、俺を囮にしたな」
よくよく考えてみれば、全てがへんなのだ。いや、辻褄が合うのだ。
これといった何があったわけでもないのに、火村がわざわざ心斎橋のフランス料理店を主張したことも、谷町6丁目の駅に森下さんをはじめとする警官が揃っていたことも…。どう考えても、いくら好意的に考えても、私を囮にして犯人を逮捕したとしか思えない。火村だけならまだしも、警察が一般人を巻き込んでそういうことをやってもいいのか。いや、きっと反対した船曳警部を、こいつがいつもの口の旨さで丸め込んだに違いないんだ。
「俺自身、今日来るとは思ってなかったけどな」
しれっと語られた言葉に、怒りが募る。冗談じゃない。それでもし、俺が運悪くご臨終なさったら、どうしてくれるんだ。私にはまだまだ書きたい作品も、読みたい小説も一杯あるんだ。
「上手くいったから良かったものの、もし俺が死んだら、お前どうするつもりやったんや。言うとくけどな、もしそんなことになったら、俺は毎日毎日君の枕元に立って、一晩中恨み言を呟いてやるで」
火村はメインディッシュから視線を上げ、正面から私を凝視した。滅多に見ることのない、その真剣な眼差しに、どきりと心臓が跳ねる。
「俺がそばにいるのにか」
「なっ…」
火村が、ニヤリと口許に笑みを刻む。どっからどう見ても、誠実とか爽やかなんて言葉が似合わない笑みだが、それさえも火村には良く似合っていて、彼を妙に魅力的に見せている。私は呆気にとられたように、目の前の男を見つめた。
---こいつは。こいつは、全く…。
さっきからやたらと耳元で鼓動が響くのは、たぶん気のせいに違いない。いや、絶対にそうだ。視線の先にある、火村の自信と誇りに満ちた笑みのせいじゃない。きっと気づかない内にワインを呑みすぎて、酔っぱらってしまっているに違いないのだ。
「火村。君、自信過剰やぞ」
「まさか。それに第一、自信じゃなくて、確信だと言ってほしいな。俺がそばにいる限り、お前にかすり傷一つつけさせやしねぇよ」
「やからッ、それが自信過剰だって言うとんのや。それに、もう一つッ! 俺は、女の子やないんやからな。守って貰ったって、ぜんぜん嬉しゅうないわ」
生来の負けん気が顔を覗かせて、次から次へと憎まれ口をたたく私を、火村の真摯な眼差しが見つめ返す。言葉以上に雄弁な眼差しに、思わずこくりと息を飲む。
口では色々言っていても、私にだってちゃんと判っていた。あの時---。階段から落ちるあの一瞬、私には火村の姿しか見えなかったのだから。
知らず知らずの内に詰めていた息を、ほうっと大きく吐き出す。
「取り敢えず、今日は感謝しとくわ」
そう言いながら、私は火村のグラスになみなみとワインを注いだ。
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