梅雨入り宣言

鳴海璃生 




 窓越しに初夏を思わせる青空を見つめ、火村は緩やかに紫煙を立ち上らせた。確か昨夜のニュースで梅雨入り宣言をしていたはずだが、その初日から梅雨らしくない空が広がっている。もっともその時の話では「今年の梅雨は陽性型で、晴天と雨天のメリハリがはっきりしている」と解説していたから、梅雨入り初日がその晴天の日にぶつかってしまっただけなのかもしれない。
「アリスは喜んでいるだろうがな…」
 目に眩しい青空を見つめ、火村はその遥か先に住む推理作家を脳裏に描いた。
 天候に左右されやすい友人は、梅雨ともなると普段以上に部屋に閉じこもりがちになってしまう。まぁ仕事がら外に出なくても一向に問題はないのだが、それに比例するように食生活もいい加減になってしまうのは否めない。そしてその分、有栖川家のハウスキーパー的存在の火村への依存度が高くなってくるのだ。
 『食事を作りに来て』コールは四季を問わずだからいいとして、研究室宛に『買い物一覧表』なるファックスが送りつけられてきた時には、クール、無表情、何事にも動じないと評される犯罪学者もさすがに唖然としたものだ。
 言いつけられた買い物を抱えてアリスの部屋を訪ね、しっかりその分の報酬プラスアルファを躯で支払って貰ったのだが、果たしてアリスがそれに懲りているかどうかは、甚だ疑問の余地有り、だ。いや、例えその時点では身に染みて懲りていても、季節が変わる頃には忘れ去っている可能性が高い。たぶん今年も、似たような所行でもって呼び出されることになるのだろう。
 そう遠くない未来を心に描き、火村は口許を微かに緩めた。視界の先をゆらゆらと立ち上る紫煙は、青空に溶け込むように滲んでいく。
「ああ、そういやここんとこ顔見てねぇな」
 最後にアリスに会ったのは、確か5月の中旬頃だった。ゴールデンウィークの浮かれ気分も世間から鳴りをひそめた頃、浮かれた調子の推理作家から食事と酒の誘いが入ったのだ。「脱稿祝いやぁ〜」と、その時はしゃいでいた雑誌向けの短編は、今月末くらいには店頭に並ぶはずだ。その頃になれば、アリスからお誘いの連絡が入るのは確実なのだが---。
 火村は確認するように、チラリとデスクの上に視線を流した。
 危ういバランスで積まれた本の山の上にちょこんと置かれた卓上カレンダーは、アリスが売れ残りの特売カレンダーの山の中から、「運命的出会いや」と言って買ってきたものだ。その運命的出会いをしたはずのカレンダーが、何故自分の研究室のデスクの上にあるのかは、よくよく考えてみれば大いなる疑問だ。しかし、アリスの『運命的出会い』はどうやらそこら中至る所に転がっているらしく、火村の研究室のそこここにもその痕跡が数多く見受けられる。
 カレンダーを眺めて顔を見なかった、いやまともに連絡も取り合わなかった日数を指折り数えてみれば、僅かに三週間足らず。締め切りに大学にと、それぞれの理由で忙しくなれば、お互い一カ月程度は連絡も取り合わないこともざらだった。そして時間に余裕が出てくると、何となく相手のことが気になり出すのも既に日常のひとコマで---。
 我が儘といえば我が儘だし、ずいぶんと現金なことだ、とも自覚している。だがそれで何らかの不都合があるわけでもなし、お互いに「そんなもんだろ」と甘えている関係は、殊のほか心地良いので可としている。それにどちらか片方だけでなく、お互いがお互い共にそうなのだから、例えその現状に文句を唱えても端から見れば単なる痴話喧嘩の類でしかない。
「ふ‥ん…。明日は水曜日だよな」
 水曜日は、終日講義の予定が入っていない。できれば土曜日か月曜日あたりに取って連休にしたかったのだが、助教授の身では早々強いことも言えはしない。大学職員といえども、単なるサラリーマン。要は、上には上がいるってことだ。
「今日はこのあと予定も入ってないし、それに確か木曜日は午後からだったよな---」
 ぶつぶつと独り言を口にしながら、火村はデスクの上の書類を漁り始めた。確か一年生への前期試験の説明とか何とかで、午前中の一般教養の幾つかがオリエンテーションに振り替えられていたはずだ。学部事務室の教務係から書類が回ってきていたのだが、その中で自分の講義も振り替えの一つに指定されていた記憶がある。
 書類の山を崩し、目当ての物を見つけた火村は、ざっと書面に目を通す。そして羅列された講義の中に自分の担当する講義名を見つけ、ニヤリと口許を歪めた。これで約一日半、時間が空いたことになる。つまり、夕陽丘簡易宿泊所への二泊三日の滞在決定ってことだ。
 手にしていた書類をくしゃくしゃと丸め、それをポイッとゴミ箱に放り投げた。見事なカーブを描いて宙を飛んだ紙製の白球は、どんぴしゃりのストライクでゴミ箱の中に姿を消した。

◇◇◇

 いつものように宿泊日数分プラスアルファの食料を手に、火村は慣れた様子で有栖川家のドアフォンを続けざまに数度押した。中でピンポーンと軽やかな音が鳴り響いているのが、ドア越しから微かに聞こえてきた。
 行きつけのスーパーの袋を両手に持ち、壁に寄りかかった怠惰な姿勢で待つこと数分。もう一度ドアフォンを鳴らした方がいいだろうか、と考えている時に、「ふわぁ〜い」と中から寝惚けた様子も露わな声が響いてきた。
「どちら様ですかぁ?」
 続く誰何の声も、しっかりと寝惚けている。火村の下宿で飼われている猫達と似たり寄ったりの生活をしているアリスは、この好天の下でお昼寝を堪能していたらしい。いや、それとも今のドアフォンの音で漸く起床したのかもしれない。既に世間ではおやつの時間だが、夜行性生物の推理作家にとっては、この時間が朝方である可能性も高い。
「俺だ。両手が塞がってんだ、とっとと開けてくれ」
 ぶっきらぼうにドアの向こうに声を掛け、火村はドアが開くのを待った。返事の代わりにカチャリと鍵の回る音がして、すぐに呑気な顔が開いたドアの隙間から現れた。パジャマではない服装と、茶色い頭の所々についた寝癖から、アリスがリビングのソファで昼寝をしていたことが伺い知れた。
「久し振り。どないしたん? ずいぶん急やないか」
 のんびりした口調で笑うアリスの胸元に、火村は膨らんだスーパーの袋を一つ押しつけた。興味深げに中を覗き込むアリスの傍らを擦り抜け、勝手知ったる部屋へと入り込む。
「昨日、梅雨入り宣言も出されたことだしな。梅雨の苦手な有栖川先生の陣中見舞いだ」
 今日は梅雨とは信じられないほどの好天だが、季節が鬱陶しい時候へと足を踏み入れたことだけは確かだ。この晴天だって、果たしていつまで続くのかは限りなく怪しい。
「なるほど…。でも、梅雨入りの準備はバッチリやで」
 ガサゴソと中身を一つ一つ確かめながら、リビングとダイニングを仕切るカウンターテーブルの上に、取り出した食料品を並べているアリスが、自慢げに呟く。その言葉に、火村は僅かに首を傾げた。聞き間違えたわけではなく、今確かにアリスは『梅雨入りの準備』と口にした。だが正月じゃあるまいし、梅雨入りしたからといって何か特別な準備が必要なものだろうか。
「ああ…、あの首吊り人形でも出したのかよ?」
 火村は、アリス制作の巨大なてるてる坊主の存在を口にした。数年前に作られたそれは、梅雨ともなるとしまい込まれたクローゼットの奥から律儀に取り出されていた。そのため、見方によっては梅雨入りの準備と言えないこともない。
「相変わらず失礼なこと言う奴やな。彼には、テルちゃんていう立派な名前があるんや。もちろん昨日の梅雨入り宣言と共に、パルコニーに吊り下げてある。見てみい、そのおかげでこの晴天や」
 まるでてるてる坊主の手柄でもあるかのように、アリスが胸を張る。その姿を横目に見つめ、火村は到着後の一服とばかりにくゆらしていたキャメルを水で湿らせ、存在意義を疑問視したくなるシンクの隅の三角コーナーに投げ捨てた。
「俺は毎年毎年あれがベランダに下がっているのを見るたびに、何でこの近辺の住人が警察に通報しないのか疑問に思うぜ。きっと毎年のことで、慣らされているんだな」
 嫌味な台詞にフンと鼻を鳴らし、アリスは袋の底から最後の一つを取りだした。それをピーナッツバターの瓶の横に並べ、くるりと踵を返す。
「ほな、あとは宜しく」
 フワァ〜と欠伸を零しながらリビングへと向かうアリスの背中からは、『キッチンは火村のテリトリー』という言葉が読みとれた。テーブルの上に並べられた食料品に視線を向け、火村は小さく吐息をつく。食後のデザートのつもりで買ってきたアイスクリームは、どうやら目敏く見つけたアリスのおやつに早変わりしてしまったらしい。リビングから聞こえ始めたテレビの音に小さく肩を竦め、火村は冷蔵庫へと向き直った。
 開いた扉の向こうは当然というか案の定というか、見事に空っぽだった。お情け程度に入っているのは、ビールと烏龍茶とミネラルウォーター。あとは、バターにジャムにマヨネーズ。それに、顔の描かれた卵が2個。見晴らしが良いことこの上ない。
 収納品から想像するに、ゴールデンウィーク中に火村が冷蔵庫の中を片付けて以来、ビールや烏龍茶等の飲料物以外の出入りは、きっと皆無だったに違いない。情けない気分で、顔の描かれた卵の裏側を見る。書き付けられた日付は、5月20日。どんよりとした溜め息を吐き、火村は笑った顔の卵をゴミ箱に捨てた。
 念のため、と余り期待もせずに野菜室も開けてみる。入っていたのは萎びた葱が一本と、ゴールデンウィーク中に自分が買ってきた物じゃなかろうな…、と疑いたくなる半切れのキャベツ。電気の無駄遣いというか何というか、デン子ちゃんが見たら頭から湯気を出して怒りそうなお寒い情景だ。
 うんざりした気分でそれらをゴミ箱に捨て、代わりに買ってきたばかりの野菜を詰め込む。冷蔵庫の方にも肉だの魚だの卵だの、買い込んできた様々な食料品を詰め込んで、漸く冷蔵庫の中の見晴らしも人並みの様相を呈した。
「残りは---」
 上半身を捻るようにして、テーブルの上を見る。並んでいるのは、冷凍庫行きの食料品だった。
 新しい煙草を口にくわえ、火村は冷凍庫の扉を開けた。
 途端、火村は唖然とした表情を作った。ポカンと、らしくもなく開いた口唇から火のついた煙草が落ちそうになり、慌ててそれを手に取った。ついでに冷凍庫の中からも詰め込まれたパックの幾つかが転がり落ちそうになり、慌てて手を添える。
 普段から冷凍庫は、冷蔵庫に比べて使用率の高い場所だった。だが今現在目の前にある状況は、そうと簡単に納得するには程遠いほどの状態だ。とにかく満員電車も斯くや、というぐらいの数の冷凍食品が詰め込んであるのだ。
「あのバカ。何考えてるんだ」
 火村は吐き捨てるように、そう口にした。アリスのことだ。この冷凍庫の状況を訊ねたら、「ギネスに挑戦してるんや」ぐらいのすっ惚けた台詞は口にするかもしれない。だが---。
「そんなこと言いやがったら、容赦しねぇからな」
 買ってきた幾つかの冷凍食品を押し込むようにむりやり中に詰め込み、火村はバタンと乱暴に扉を閉めた。水で湿らせた吸い殻を三角コーナーに捨て、大股にリビングへと向かった。
 ソファに長々と寝そべったアリスは、クッションに肩肘をついてテレビ画面に見入っていた。途切れ途切れに耳に入ってくる台詞から察するに、アリスが偶に見ているサスペンス劇場の再放送にチャンネルを合わせているらしい。テーブルの上には、空になったアイスクリームのカップが、スプーンと一緒に転がっている。
「おい…」
 ソファの傍らに立ち、火村は寝転んだアリスを真上から見下ろした。ありきたりなドラマの出来にいいかげん飽きていたらしいアリスが、のんびりとした動作で火村を見上げてきた。
「何や?」
 眠る一歩手前のように、口調もどこかぼんやりゆったりとしている。もしかしたらテレビを観ながら、半分は眠り込んでいたのかもしれない。
「お前、一体なんだよ。あの冷凍庫の中は…?」
「冷凍庫…?」
 よっこらせ、と爺臭い言葉を口にしながら、アリスは半身を起こした。ソファに座り直し、う〜ん…と頭を捻る。急に「冷凍庫」と言われても、何のことやら見当がつかないらしい。苛々とした様子でそれを眺めていた火村が、次なる言葉を口にしようとした時、「ああ!」とアリスが両手をポンと打ち鳴らした。
「やからさっき、梅雨入りの準備はバッチリやって、言うたやないか」
「はぁ…?」
 わけが判らないという風に、火村は首を傾げた。それを見上げ、アリスは着席を促すように片側へと身体を寄せた。隣りに腰を下ろした火村を一瞥し、ゆっくりと説明を始める。
「梅雨に入って雨が降り続いたら、早々買い物にも行けへんやろ。そやからそういう時に備えて、冷凍食品を買い込んで来たんや」
 エッヘンと胸を張るアリスに、火村はがっくりと肩を落とした。雨が降ったからといって、「買い物に行けない」なんて台詞を吐くのは、目の前の推理作家ぐらいだ。世の主婦やサラリーマン諸氏が聞いたら目を剥きそうな言葉の内容に、火村は一気に脱力する気がした。
 それに、「買い物にも行けへん」と豪語するアリス御用達のコンビニや弁当屋は、歩いても2、3分の距離だ。大した荷物を抱えて帰ってくるわけでもないくせに、言語道断も甚だしい。
「何が買い物にも行けへん、だ。お前の行きつけは、歩いて3分のコンビニと弁当屋じゃねぇか…」
「3分だろうが、1時間30分だろうが、雨の中を歩けば濡れるのは同じや。それに、コンビニ弁当とか弁当屋の弁当は買い溜めできへんしな。もし雨が降り続いたら、その雨ん中、毎日出掛けなあかんようになってまうやないか。その点、冷凍食品は長期保存がOKやからな。雨降ってへん日に買い込んでおけば、あとは悠々セーフや」
 さも満足げに、己の所行についての根拠を説明する。アリスの挙動から、本人は近来稀にみる良い考えだ、と自負しているのがありありと見て取れる。だが火村にしてみれば、単なる浅知恵か、奸計でしかない。そのうえ冷凍庫に詰め込まれていた幾つかを思い出してみると、ホットケーキやパンケーキ、肉まんにピザ等の、主食というよりは夜食や軽食系の食品類が多かったような---。
「お前、まさかあれで梅雨を乗り切ろうなんて、マジで考えていたわけじゃねぇよな」
 少しだけ声を低くして問いかけると、アリスは冗談じゃないとばかりに頭を左右に振った。さらりとした茶色の髪の毛が、ふわふわと揺れる。
「まさか…。あれは、飽くまで雨が降り続いた時の緊急用や。幾ら今は色々種類があるいうても、ずっと冷凍食品やったら飽きるやんか。雨が降ってへん時には、ちゃんとコンビニとか弁当屋で弁当買うて来るつもりやったし、それに---」
 チラリ、と視線を火村の方へと走らせ、口許を微かに笑みの形に緩めた。その仕種に、火村は続く言葉を理解したような気がした。
「いざとなれば、君もいてるしな」
 ニッコリ、と全開の笑顔で微笑んだアリスを横目に、火村はうんざりしたように溜め息をついた。やっぱりというか、またというか---。
 ---この野郎、俺にファックス送りつけてくるつもりでいたな。
 さっきからアリスが口にしている『梅雨の準備』の中には、トイレットペーパーやシャンプーやティッシュ、いわゆる日用雑貨と言われる類の物が含まれている感じは皆無だった。その類は、もし運悪く雨降りの日に切れた時には、火村に買ってきて貰えばいい、ぐらいにしか考えていないのだろう。
 いや、もしかしたら頭の片隅にも存在していないのかもしれない。何せ目の前で詰まらない浅知恵をとうとうと披露している人間は、アリスなのだ。目先の欲望である食事に思考の全てが回っていたとしても、ぜんぜん不思議ではない。
「それでな、火村---」
 アリスがぐいっと乗り出すように、火村の方へと身を寄せてきた。『鬱陶しい梅雨の乗り切り方』だの『正しい梅雨の過ごし方』だの、訳の判らないアリスの講説を右から左に聞き流し、喫煙タイムを満喫していた火村は「ああ」と気のない返事を返した。それに気を悪くする様子もなく、アリスは最後の締め括りとばかりに力強く言い切った。
「梅雨の陣中見舞いに来る時は、雨の日にしてくれ」
 鼓膜を震わせた言葉は、脳味噌を回避することなくその場に止まった。長くなった灰を灰皿で落としていた火村の指が、ピタリとその動きを止める。
 伺い見るようにゆっくりと視線を動かしたその先で、アリスがのんびりと言葉を綴る。だがその内容は、確信犯的疑惑に満ち溢れていた。
「やっぱり梅雨の陣中見舞いっちゅうぐらいやから、雨の日に来るんが本当やろ」
 尤もらしい理由をこじつけてはいるが、要するに雨の日に食料持参で来い、ということだ。
 ---ついさっき、「冷凍食品は、雨が降ってる時の緊急用」とか何とか言ってやがったよな、こいつ…。
 言葉を尽くしてみても、冷凍食品よりは火村の料理というアリスの頭の中が丸判りだ。
 ---ふざけてんじゃねぇぞ。
 このまま放っておくと、アリス節はどこまでもエスカレートしていく。偶に来て、食事の支度をしてやるのは吝かじゃない。だがそれがアリスの言葉通りに…というのでは、何となくむかつくものがある。こういう駆け引きの場合、飽くまでも主導権は自分に…とは、いつもお互いが口にせずに腹の底で思っていることだ。
 火村はまだ長いキャメルを躊躇することなく、灰皿で揉み潰した。ゆっくりと上半身を反転させ、ソファの上に片膝を乗せる。ぎしり、とソファが軋み、滑らかに滑っていたアリスの弁舌がピタリと止まった。こくり、と息を飲むアリスを視界の内に捕らえ、滑らかな動きで身を寄せる。それは、まるで獲物に忍び寄る肉食獣のような、慎重で無駄のない動きだった。
 ---ま、まずいッ!
 頭の中でウルトラマンのカラータイマーよろしく、ピコンピコンと赤い光が点滅する。アリスはそっと腰をずらして、肘掛けの方へと移動した。火村がまともに聞いていないのに安心して、つい調子に乗って喋ってしまったが、何だかとってもまずい雰囲気だ。
「陣中見舞いは構わねぇが、もちろんそれ相応のものは払ってくれるんだよな」
「払うって…」
 乾いた笑いを表情に張り付け、ズリズリと後ろにさがっていく。が、狭いソファの上。すぐにアリスの腰は肘掛けにぶつかって、退路を失ってしまった。
「今日の分の一部は、前払いして貰うぜ」
「前払‥い…」
 問いかけの言葉は、最後まで続かなかった。ぐいっと強い力で顎を捕まれ、口唇を寄せられる。そして、言葉の続きは火村の口腔へと消えていった。
 ---まずい、まずい、まずいーーーッ!
 頭の中のカラータイマーは、ますます点滅を早くしていく。それに反比例するように、意識はゆっくりと霞んでいく。ああ、もう駄目だ…と思った時、不意に深い接吻が解かれた。
 ハァ〜と深呼吸するように、大きく息をつく。視界の全てを占領した男前の顔が、ニヤリと口許に笑みを刻んだ。
「なぁ、アリス。なかなか楽しい梅雨を過ごせそうだな」
 吐息の触れ合う距離から囁かれたバリトンが、有栖川家に梅雨の到来を告げた。


End/2001.06.16




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