インターネットの落とし穴

鳴海璃生 




 バタンと大きな音をたてドアを開けると、中にいた数人の女子学生が驚いたように振り向いた。一斉に集まってきた視線と、何だか妙に慌てた学生の様子に、この部屋の主である助教授は柳眉を寄せた。
 例え鍵が掛かっていないからといって、部屋の主が留守の間に部屋の中に勝手に入る学生は滅多にいない。だが、それでも皆無というわけではないのだ。壁のプレートを『在室』にしていれば、例え部屋の主が不在でも、質問にきた学生が中で待っていることは多々ある。だがしかし---。
 目の前の女子学生達から感じられる、どこか困惑したような妙な雰囲気に、この部屋の主である火村は首を傾げた。
 まるで悪戯を見つかった子供のような、どこかおどおどとした様子。火村が戻ってくるのを待ち構えていたはずなのに、彼女達からは「何でこんな時に…」というような当惑が垣間見えた。
 ---何やってたんだ、こいつら…。
 訝しみながら、火村は部屋の中へと歩を踏み出した。大股に窓際のデスクに近づき、書類や本で埋まった空間に、図書館から新たに借りてきた数冊の本を積み上げる。そしてゆっくりとした動作で振り向き、コンピューターの前に一塊りになった三人の女子学生へと視線を合わせた。特に睨んだわけでもないのに、三人は一様にぴくりと身体を強ばらせる。
「何か質問かな」
 デスクに寄りかかるようにして立ち、口にくわえた煙草に火をつける。学生達は言い淀むように目配せを交わし、互いの脇腹を肘で小突き合った。
 その様子にいいかげん火村が苛立ちを覚え始めた時、学生達が意を決したように口を開こうとした。とその時、まるでその瞬間を待ち構えていたかのように、リンゴーンと予鈴のベルが軽やかに鳴り響いてきた。
 一瞬固まったように、三人の女子学生達が息を飲む。が、すぐにホッとしたような仕種で、詰めていた息を軽く吐き出した。まるでその鐘の音に救われたかのように、強ばった表情を弛緩させる。
「え…っと‥、この間のレポートの件でちょっとお訊きしたい事があったんですけど、また今度にします」
「うちら、次の時間必修なんです」
 急に口の軽くなった学生に、火村は怪訝そうに眉を寄せた。次の時間に講義が入っているのは嘘じゃないにしても、どうにも学生達に対する不審感は拭えない。何故なら、いつもは「出て行け」と口にするまで何かと粘る学生達が、今日は妙にそそくさとした様子で部屋から出ていこうとしている。
「来週末に提出のやつだな。そんなにのんびりしていていいのか?」
 低い問いかけに、三人の女子学生は互いの顔を見合わせた。がすぐに曖昧な笑みを口許に刻み、こそこそとした様子で身体を少しずつドアのほうへと移動させる。
「あっ、ええんです。まだ一週間ありますから…」
「ほな、これで…。次の講義、富永先生やから出席厳しゅうて…」
「また来ます」
「失礼します」
 矢継ぎ早に言い訳のような言葉を口にし、学生達はドアから廊下へと飛び出していった。バタンと大きな音をたてて、ドアが閉まる。デスクに腰を預けたままの恰好で、火村は閉まったドアを冷めた眼差しで見つめた。
 大きく紫煙を吐き出し、火村は短くなった煙草を灰皿の縁で揉み消した。堆く積まれた吸い殻の山の上に、器用な仕種でそれを捨てる。そして女子学生達が取り囲んでいたコンピューターへと視線を移し、睨みつけるように双眸を眇めた。
 火村の研究室にあるデスクトップのコンピューターは、建て前は学科で共用しているものだ。なので、図書館ゃ院生室のコンピューターが塞がっている時に、思い出したように大学院の学生や助手が借りに来ることもある。だがそういう事は本当に稀で、殆どは火村専用と言っても過言ではなかった。もっとも当の火村本人は自前のノートパソコンを使用する場合が多いため、デスクトップの前に座ることは余りない。
 その研究室の飾りとも言えるようなコンピューターに、一体あの女子学生達は何の関心を示していたのか。例え学科で共有とはいっても、学部生が研究室のコンピューターに触る許可は与えられていないはずだ。
 ゆらりと身体を起こした火村は、ゆったりとした足取りでコンピューターの方へと歩み寄っていった。電源ボタンを押し、パソコンを起動させる。すぐに、ポーンと軽い音が室内に響いた。機械の動く微かな音と共に、ディスプレイにアイコンパレードが並び始める。立ったままの姿勢で暫くアイコンパレードを眺めていると、画面が反転するようにくるりと変わり、初期画面がディスプレイ上に現れた。
 院生や助手が作ったフォルダーが、整然と画面右端に並ぶ。チラリとそれを一瞥してみるが、これといって変わったところはない。壁紙も、数日前に院生の一人が面白がって変更したままだ。思わず脱力するようなまんぼうが、水の中をプカプカと気持ちよさそうに泳いでいる。
 左隅のアップルマークをクリックし、最近使用したアプリケーションのウィンドウを開く。幾つか並んだアプリケーションの一番上に、インターネット・エクスプローラーの名前が載っていた。
 先刻の女子学生達が、このパソコンでネットに接続していたかどうかは定かではない。使用頻度の低いコンピューターだけに、もしかしたら以前に院生の誰かが使用した記録が消えずに残っているのかもしれない。だがそうは言っても、あの女子学生達の奇妙な様子は、このパソコンに強く起因している気がした。それほど大した期待もなく、火村は取り敢えずのつもりでインターネット・エクスプローラーを立ち上げた。
 メインブラウザウィンドウが開いたあと、ピポパピポというプッシュフォン回線の独特な音がスピーカーから響き、パソコンが自動的に電話回線に接続し始めた。ネットにアクセスするまで少々の時間を要することを熟知している火村は、パソコンをそのままにしてデスクへと踵を返した。背中からは、ファックスを送信する時と同じ、安物の笛を吹き鳴らしたような音が聞こえてくる。
 新しい煙草に火をつけ、再度パソコンの方へと戻る。漸くプロバイダーに接続したらしい。パソコンのディスプレイ上に開いたウィンドウに、ホームページが表示され始めた。一番最初に表示されるホームには、テキストをメインに編集された犯罪社会学会のサイトを設定してある。そのため、表示自体にはそう大した時間は掛からないはずだ。
 のんびりと煙草をくゆらし画面を見つめていた火村は、次の瞬間、双眸を見開いた。呆然と開いた口唇の間から、火のついたキャメルがキーボードの上に落ちる。慌ててそれを拾い上げ、火村は吸い始めたばかりのキャメルを傍らの灰皿に捨てた。
 画面一杯に写し出されたのは、犯罪社会学会のお堅い文字の羅列ではなく、一枚の写真。それも、後ろから撮った女性のヌード---。という、何とも艶めかしい写真だった。
 マウスをクリックし、そのサイトのトップページにアクセスしてみる。そこには芸術とは程遠いヌード写真の数々が縦横無尽、画面から零れる程に張り付けられていた。所謂、18歳未満アクセス禁止の、アダルトサイトと呼ばれるページだ。
「チッ、一体どこのどいつだ」
 いくら何でも、女子学生がこんなサイトにアクセスするとは思えない。火村がこのパソコンを使わないことをいいことに、たぶん男子学生の誰かがこんな真似をしたのだろう。
 これで、先刻の女子学生達の妙な雰囲気も納得できた。火村を待ちくたびれて時間潰しにネットに接続した彼女達は、インターネット・エクスプローラーを立ち上げた途端に、火村同様きっとこの画面を目の当たりにしたのだろう。そして、この設定をしたのが他ならぬ火村助教授である、と誤解したに違いない。火村の研究室にあるパソコンなのだから、彼女達の誤解も仕方ないといえば致し方ない、至極真っ当なものなのだが---。
「濡れ衣もいいとこだぜ」
 それでなくても、学内ではだんとつの人気を誇る助教授だ。火村助教授のスキャンダル発覚とばかりに、雀と化した彼女達の口を伝って、きっと明日の朝には「あの火村先生が---」と、あらぬ誤解と憶測に彩られた噂が構内を駆け巡っているに違いない。
「俺の研究室にあるパソコンで、いい度胸じゃねぇか。犯人見つけ出したら、ただじゃおかねぇからな」
 見えざる相手に向かってぶつぶつと文句を唱えながら、火村はカチカチとマウスを動かし、初期設定でホームの設定を犯罪社会学会のページに変更した。次いで、履歴をクリックする。
 左端に開いた履歴フォルダーの中には、先刻のアダルトサイトのURLとホームに設定しなおした犯罪社会学会のURLが、アクセスした順番に並んでいた。その下には、日付の入ったフォルダー。その中から、火村は一番新しい日付のフォルダー、二日前の日付が入った物をクリックした。
 すぐにフォルダーが開き、ずらりとURLが並ぶ。その一番上に、火村は先刻のアダルトサイトのURLを見つけた。画面をスクロールし、並んだURLを確認する。
 例のアダルトサイトは、一番上に一個あるだけだ。それ以外のURLは、国会図書館に出版社に書店。大英博物館やメトロポリタン美術館にスミソニアン博物館などもあり、どうにも犯罪社会学を専攻している院生がアクセスするとは思えないようなサイトばかりが並ぶ。その中でも特に目を引くのは、ロンドンにあるマーダー・ワンのサイトだった。
 胸の前で腕を組んだ火村は、人差し指でゆっくりと唇を撫でた。眇めた視線は、しっかりと履歴に注がれたままだ。念のため、他の日付入りフォルダーも開いてみる。だが火村の推測通り、どのフォルダーにも先刻のアダルトサイトのURLは記録されていなかった。と同時に、二日前のフォルダーに記録されていた国会図書館や大英博物館のURLも見当たらない。並んでいるのは、火村も良く見知っている犯罪社会学関係のURLばかりだ。
 確信に満ちた仕種で小さく頷いた火村は、アダルトサイトの履歴を消し、ネットの接続を切った。パソコンの電源を落としたあと、デスクの前の椅子に引っ掛けてあった上着を取る。
 歩きながらチラリと視線を落とし、腕時計を確認した。時間は午後4時50分。今から出るとなると、ちょうどラッシュの時間に重なってしまうが、この際贅沢は言っていられない。学生達にあらぬ誤解を植えつける原因となった張本人に、きちんとその分の仕返しをしないと、どうにも気が収まらないのだ。
 上着を片手に抱えた火村は、梅雨の雲間から覗く夕陽を背に研究室をあとにした。

◇◇◇

 ドアフォンを押すと、すぐに扉の向こうから返事が返ってきた。パタパタと駆けるような足音が聞こえ、目の前でバタンと大きくドアが開く。
「よぉ…」
 寿司折りを持った手を上げた火村に、アリスが相好を崩す。どうやら急に降り出した雨に、夕食はどうしようか…、と悩んでいる真っ最中だったらしい。表情には『グッドタイミング』とか、『渡りに船』とかいう言葉の数々が露骨に表れていた。
「急にどうしたん? また府警にでも用があったんか?」
 壁の方に身体を寄せながら、アリスは火村を中へと招き入れた。慣れた様子で中へと滑り込んだ火村は、アリスに寿司折りを押しつけながら靴を脱いだ。
「府警じゃないが、こっちに退っ引きならない用があってな」
 火村の応えに、アリスは「ふ〜ん」と曖昧な返事を返す。京都在住の火村が大阪まで遣ってくる用事といえば、府警か、はたまた大学関係かのどちらかに限定される。そしてそれが府警関係でないのならば、火村の言う用事とやらには、アリスは余り興味が無かった。だいいち火村の大学関係の用事など、詳しく聞いたところで理解できはしない。
 それに今は、そんな話よりも空腹を満たす食事の方がアリスには大事だ。火村がアリスのマンションに来たということは、本日のアリスの夕食と明日の朝食---または昼食---が潤ったということに他ならない。この僥倖を前にしては、火村の来阪理由など微々たるものだ。食事の後にのんびりゆっくり訊いたとしても、遅すぎることはない。
 アリスは寿司折りを手に、軽い足取りでリビングへと向かう。その後ろに続きながら、火村は唇の端を微かに歪めた。
 火村が買ってきてくれた寿司と、火村手作りの吸い物で夕食を終える。今日の食事は、また冷凍食品かカップラーメンか、と半ば諦めの境地に陥っていたアリスにしてみれば、吸い物付きの寿司は特上のご馳走だった。表情には自然と笑みが浮かび、気分もウキウキと弾んでくる。
 二人で手分けして後片づけ---と、言うほどのものでもないが---を終えたあと、ダイニングからリビングに移動して、これまた火村手作りのつまみ---オニオンフライとカマンベールチーズ焼きだ---でビールを傾けた。ジトジトジメジメとした蒸し暑い一日だったので、喉を流れ落ちるビールの冷たさが酷く心地良い。
 最近お気に入りの缶ビールを一気に呑み干して、漸く人心地つく。そうすると現金なもので、さっきはどうでも良かったはずの火村の来阪理由が徐々に気になりだしてきた。「退っ引きならない理由」と言葉を濁した様子が、どうにもウズウズと好奇心を疼かせる。
 しかも、今日は月曜日。
 「週明けは面倒臭い」と文句を唱えながら、気怠そうな様子で出勤する火村の姿は、数えるのもアホらしいぐらい何度も目にしている。その面倒くさいはずの月曜日に、しかも警察からの呼び出しでもないのに、わざわざ大阪まで遣ってくる---おまけにアリスとは、昨日の夕方に別れたばかりだ---理由は、きっと想像以上に大したものに違いない。
「なぁ…」
 新しい缶ビールのプルトップを引き上げながら、アリスはチラリと横目に火村を眺めた。隣りに座る犯罪学者は、無表情でテレビ画面に視線を投げかけている。ブラウン管に流れているのは、気持ちを安らがせるような美しい南の海の風景。だが、それに火村が心を動かされた様子はない。無表情の中に垣間見えるどこか淡々とした気配は、青に染まった風景とは相反した雰囲気を醸し出していた。
「さっき言うてた退っ引きならない用ってのは、何や? 府警やないってことは、事件とは違うんやろ?」
 アリスの問いかけに、火村は「ああ」とか「うん」とか曖昧な返事を返す。別に隠しているわけではないだろうが、口にすることを躊躇っているような様子が、ますますアリスの好奇心を煽った。
「何や、言い難いことなんか? それやったら、別に無理には訊かへんけど…」
 殊勝な台詞を口にしながらも、アリスの頭の中では一体どうやって火村に口を割らせるかの算段がなされている。らしくもなく火村が言い淀むだなんて、これはもうぜがひでも、何としても、絶対に、間違いなく、問い質す必要有り、だ。
「実はな---」
 はてさて、と頭の中で次なる手を考えていると、火村がぼそりと口を開いた。組んだ膝の上に肘をつき、前屈みの姿勢でテレビに視線を合わせている。その様子からは、これから口にする言葉の内容が余り大したものではない印象が見受けられた。
 だが、騙されてはいけない。火村が殊更に何気ない振りを装っている時ほど、言葉の端々に重大事が隠されていることが多いのだ。
 ---そんな振りして、俺が騙されると思うてんのか。甘いっ。甘いで、火村。俺は、お前のスペシャリストやで。
 ここで好奇心丸出しの姿勢をとると、火村に引かれてしまうのは判りきっている。アリスは身体の中で疼く好奇心を宥めすかしながら、殊更に気のない素振りで応えを返した。
「うん。どうかしたんか?」
「俺の研究室にあるコンピューターがな---」
「壊れたんかッ!」
 身を乗り出すほどの勢いで、アリスは声を上げた。その様子に軽く目を瞠り、火村はゆるゆると頭を左右に振った。
「いや、壊れちゃいないんだがな」
「あ、そうなんか…。そりゃ良かった」
 火村の言葉に、アリスがホッとしたように息をつく。それを横目に眺め、火村はニヤリと口許に笑みを刻んだ。
「何だよ。ずいぶん気にしてるじゃないか」
「いや、そういうわけやないけど…」
 からかうような火村の言葉に、アリスは慌てて頭を振った。ここで余計なことを言って火村の気を惹いてしまったら、とってもまずいことになってしまう。
 注意一秒怪我一生。触らぬ神に祟りなし。
 ---力づくで話題を変えなあかん。
 頭の中であれやこれやを模索し、アリスが健気な努力を発揮しようと試みる。が、そのアリスの思いを、火村のバリトンが見事に破壊した。
「実はな、神聖な研究室のパソコンに、とんでもない事をやりやがった奴がいてな」
 まずい、まずすぎる。
 ドキドキと速度を速め始めた鼓動を必死の努力で宥めながら、アリスは何とか話題の転換を、と脳味噌をフル回転させ始めた。だがそんなアリスの思いを知ってか知らずか、火村は一度口にした話題を途中で引っ込めようとはしない。アリスの思惑を素通りして、淡々としたバリトンが聴きたくもない言葉の先を綴っていく。
「インターネットのホームに、アダルトサイトを設定した奴がいるんだよ。さっき立ち上げてみて、びっくりしたぜ。おまけに研究室にいた女子学生に、それを見られちまうし---。おかげで、俺は妙な噂話の恰好の餌食だ」
 ぶつぶつと文句を唱える火村をチラリと眺め、アリスは恐る恐るという風に口を開いた。
「---そんで、それやった奴に心当たりはあるんか?」
 目を眇めテレビ画面を凝視した火村は、何事か考え込むようにゆっくりと人差し指で唇を撫でた。
「まぁ、ないわけじゃねぇな。あの部屋のコンピューターを使う奴は、だいたい決まってるし…」
 その台詞に、アリスはホッと安堵の息をついた。『あの部屋のコンピューターを使う奴』の中に、アリス自身は含まれていないはずだ。罪のない学生に濡れ衣を着せるのは申し訳ないが、犯人として一個人が特定される心配はない、はずだ。たぶん---。
 ---学生の皆さん、ごめんなさい。
 今度取材旅行にでも行った時に、土産でも差し入れして許して貰うことにしよう。京都方面に向かって心の中で手を合わせ、アリスはここぞとばかりに火村の話に合わせることにした。例え申し訳ない気持ちは感じていても、見知らぬ学生より己の身の安全の方が大事だ。
「でもほら、そんなんある程度は大目に見てやらんと、学生もかわいそうやないか。欲求不満てわけやないと思うけど、まぁ一応興味のある年頃やろうし…」
 年長者の余裕という態度で、訳知り顔の台詞を口にする。それを横目に眺め、火村はフン…と鼻を鳴らした。
「欲求不満で、興味のある年頃…か」
「そうや。単なるアダルトサイト程度で目くじらたてるやなんて、大人気ないで」
 あらぬ疑いを掛けられた学生さんのためにも、ここは一つ踏ん張って、少しでも火村の機嫌を直さねばならない。そんなどこか脱線した心意気に燃え、アリスは言葉を重ねた。
「---アリス」
 名を呼ばれ、それに応えようと振り向いた途端、不意に強い力で肩を押された。何だ、と疑問に思った時には、ソファに押しつけられた体勢で、目の前には見慣れた男前の顔があった。
「な、何やねん一体…」
 唖然とした口調で問いかける。何がどうしてどうなって、こういう体勢に持ち込まれているのか、さっぱり訳が判らない。だいたい今の今まで、学生の悪戯について話していたのではなかったか。
「欲求不満なんだろ?」
「ハァ〜?」
 ニヤリと笑って告げられた言葉に、アリスは間抜けな声を上げた。
 ---一体なに言ってるんや、こいつ…。
 欲求不満どころか、そういう事に関しては充分すぎるほどに足りている。だいたいつい昨日、アレやコレやをやって---やられて---別れたばかりじゃないか。
「アホ言いなや。重いやんか、とっとと退け」
 のしかかる身体を押し返そうと試みるが、まるで重しのような頑強さでピクリとも動かない。
「何言ってんだ、アリス。だから、あんなもん俺の研究室のコンピューターに残していったんだろ?」
 睦言を囁くような低い声が、鼓膜を震わせる。途端、アリスはぎくりと身を竦ませた。恐る恐るというように見上げた眸の先で、火村がニヤニヤと質の悪い笑みを作っている。
「な‥何で…?」
 頼りなく震える声で問いかけたアリスに、火村は勝ち誇ったように微笑んだ。
「何で、あれがお前の仕業だって判ったかって? 決まってんだろ。あのコンピューターを使う院生は、国会図書館はまだしも、スミソニアンだのマーダー・ワンだのなんていう、どっかの誰かさんが好きそうなサイトには行きゃあしねぇよ」
 あわわわわ、とアリスが口許を震わせた。
 あの日は、なかなか会議から戻ってこない火村に痺れを切らして、いつもは触れもしないコンピューターについ触ってしまったのだ。何事も習いたてや覚えたての頃が一番興味も好奇心も強いというのは、誰しも一度は身に覚えのあることだろう。もちろんアリスとて、例外ではなかった。
 今までは「コンピューターなんて…」と肩肘を張るように避けてきていたのだが、片桐や知り合いの作家連中に背を押されるようにして、2週間ほど前から天王寺区が主催しているコンピューター教室に通いだした。
 いざやってみると、これが思いの外おもしろくて、あっと言う間に夢中になってしまった。自分の部屋にもコンピューターを置こうかどうしようか、と考えている矢先に、火村の研究室のコンピューターと二人きり---。ついつい電源に手が伸びてしまったとしても、仕様がないじゃないか。
 最初は習った通りに調子良く操作していたのだが、検索を掛けたところでとんでもないサイトに行き着いてしまった。いや、その時点では、それが何のサイトか判別できなかったのだ。
 これは一体何だ、と幾つか並んだURLの一つをクリックして、ディスプレイ一杯にドーンと女性のヌードが現れた時には、思わず椅子から転げ落ちそうになるほど驚いた。自分以外誰もいないのが判っているのに、慌てて部屋中を見回してしまったぐらい、あの時の自分は慌てふためいていた。
 とにかく火村が戻って来る前に証拠を消さなければ、と焦ってあちこちをクリックしている内に、何が何やら訳が判らなくなってしまった。悲しいかな、所詮は泥縄の初心者。パソコン教室で習った以外のことが判ろうはずもない。おまけにこれ以上ないってぐらいに焦って、半ばパニックに陥っているから、習ったはずのことまでストンと頭の中から抜け落ちてしまっている。
「ええいっ! こうなったら最後の手段やッ」
 思いあまってプッツンと電源を切ったと同時に、火村が部屋に戻ってきた。
 良かった…、ギリギリセーフや、とあの時は自分の英断に拍手を贈っていたのに---。
 それが、まさかこんな形で舞い戻ってこようとは---。予想の範疇外というか、余りのツキの無さに思わず恨み言の一つも口にしたくなる。
 ゆっくりと、確かめるように膚を辿る唇と指先に、少しずつ身体の奥の方から熱が膨れ上がってくる。意識と神経が、僅かに残った理性を喰い破って快感を追い始めた。
 ---もう二度とコンピューターなんて扱わへん。
 ぼんやりと掠れ往く意識の中で、固く誓った思いがとろけるように熱に溶かされていく。
「今度、履歴の消し方を教えてやるよ」
 クックッと笑いながら甘く囁きかける火村を、アリスは最後の抵抗とばかりに睨みつけた。


End/2001.06.18




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