浮気の達人

鳴海璃生 




 気怠い身体をだらりと伸ばし、窓から見える夜景に目を細めていると、シャワーを浴びた火村が腰にタオルを巻いただけのだらしない恰好で戻ってきた。ガシガシと乱暴な仕種で濡れた髪の毛を拭きながら、大股にアリスのいるベッドへと歩み寄ってくる。
「少し詰めろよ」
 ぐいっと乱暴に肩を押され、アリスは不満そうにベッドの脇に佇む犯罪学者を睨みつけた。
「あっちのベッドで眠ればええやんか」
 アリスの部屋の狭いシングルベッドに比べたら、この部屋のベッドはゆったりとした広さを誇っている。だがそうはいっても、男二人が眠るには狭い代物なのだ。手を伸ばすのも億劫なので、顎で隣りのベッドを指し示したアリスに、火村はフンと鼻を鳴らした。
「バカ言ってんじゃねぇよ。あんなぐちゃぐちゃのベッドで寝れるか…」
 シラッと口にされた台詞に、アリスは渋面を作った。つい数分前まで火村と抱き合っていたベッドは、確かに火村の言う通りとんでもない状態なのだ。それが嫌で、アリスはシャワーを浴びた後の重い体をヨロヨロと引きずるようにして、バスルームからは離れた窓際のベッドの方にまで歩いてきたのだ。
 ---身体伸ばして、ゆっくり眠ろうと思うてたのに…。
 ささやかな目論見が敢えなく潰えた無念さに歯噛みしながら、アリスは渋々とベッドの半分を空けた。待ってました、とばかりにスルリとシーツの中に滑り込んだ火村は、早速ベッドサイドのナイトテーブルにおいたキャメルへと腕を伸ばす。
「おい、寝煙草は禁止やで」
「寝てねぇよ」
 ベッドヘッドに背中を預けた恰好で、火村は口にした煙草に火をつけた。漂う紫煙と共に、すぐに慣れた匂いが部屋の空気を染め上げていく。
 俯せの体勢で揺らぎながら空気に溶けていく紫煙をぼんやりと眺め、アリスはホゥと大きく息をついた。吐き出した空気に取って代わるように、身体の内と外からキャメル独特の香りに包まれていくような気がする。
「なぁ…」
「何だよ」
 空調の低い音が空気を震わせる空間に、囁きにも似た密やかなバリトンがゆっくりと沈んでいく。闇色にも似たそれは、どこか天鵞絨のような手触りを連想させた。
「君、俺の部屋の留守電で桜庭さんの伝言聞いたんやろ」
「ああ…」
「それやったら---」
 藍色の闇の中で、アリスの眸が猫の目のようにくるりと動く。楽しげな好奇心を透かし通す飴色の眸に、火村は緩く目を眇めた。
「俺が浮気してるって、ちらっとも思わへんかったん。あの留守電の内容は、そうとも取れる言い方やったやろ」
 どこか期待に満ちた色を宿す眸に、火村は唇の端を歪めるようにして笑った。
 例え何があろうと、アリスの期待する言葉は遣らない。もしや、という思いに捕らわれていた自分は、唾棄したいほどに忌々しい存在だ。そこまでアリスに捕らわれている自分を知るのは、己一人。何があろうと、絶対に、アリスには気付かせはしない。
「お前を見たら、そんな考え湧くわけねぇだろ」
「何やねん、それ…。俺が女にもてるわけない甲斐性なしやと、君マジで言いたいんかい」
 ムッとしたアリスに苦笑を浮かべ、火村は短くなった煙草を灰皿に捨てた。腕を伸ばし、アリスの髪をくしゃりと撫でる。まだ乾ききっていない髪の毛から、ふわりと嗅ぎ慣れた煙草の香りが立ち上ってきた。
「アリス、知ってるか。浮気とか不倫とかしてる人間はな、ホテルにしけこんだ後にシャワー浴びても、絶対にシャンプーや石鹸は使わないんだぜ」
「はぁ? 何やそれ、急に…」
 意味の判らないアリスが、きょとんとした表情を作る。それを視界の内に納め、火村は楽しげな笑いを零した。
「いつもと違うシャンプーや石鹸の匂いをさせてたら、ばれちまうだろうが…」
「あっ、そうか」
 納得したとばかりに頷いたアリスは、少し伸びた前髪を鼻の辺りまで引っ張り、クンクンと匂いを嗅いだ。嗅ぎ慣れた煙草の匂いに混じって、ふんわりと見知らぬ香りが鼻腔を掠めた。
「あっ、ほんまや」
 のんびりとしたアリスの口調に、火村は喉の奥で笑う。
「もしかしたら何かの間違いで、将来そういう場面に遭遇するかもしれないしな。その時のために覚えておくんだな」
「何かの間違いは余計や、アホ」
 寝返りをうち、くるりと背を向けたアリスに腕を伸ばし、火村はアリスの身体を抱き寄せた。すっかり身に馴染んだ香りに包まれ、アリスはホッと息をついた。トロトロと身体を浸す睡魔に、ゆっくりと身体を弛緩させる。
「---判った。火村センセが浮気した時のために、…覚えとくわ」
 頼りない口調で紡がれる言葉は、寝言のようでどこか頼りない。消え入るように闇の中に沈んでいった言葉の名残は、すぐに柔らかな寝息へと変わっていった。まるで子守歌のようなそれに誘われ、火村もそっと目蓋を閉じる。
 いつの間にか降り出した細い雨に、夜景がキラキラと輝きを増す。繊細なレース糸のような細い雨は、編み上げた柔らかなベールで眠りの国を包み込んだ。


End/2001.06.29




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