ゲームの達人

鳴海璃生 




 怪しい。
 最近、アリスの様子が妙に怪しい。
 家電に電話をかけてみても、ずっと留守電にセットされたままだし、「それじゃ」と携帯に連絡を入れてみても、毎回毎回判で押したように『電波が届かない所にいるか電源が切られている』とのお決まりのメッセージが入る。こういうことは、締め切りに追われている時には儘あることだ。だが、今のアリスには抱えている原稿など無いはずだ。
 仕方がないので「連絡しろ」と書いたファックスを数回送って、漸くアリスから連絡が入った。呑気な口調は相変わらずだが、妙に落ち着きのない様子でそそくさと電話を切ろうとする。
「何だよ、忙しいのか」
『う‥ん…、まぁ…』
 アリスからの返答は、嫌になるくらい歯切れが悪い。
「締め切りか?」
『あっ…うん、そう。そうなんや』
「先週、締め切りが終わって暫くゆっくりできる、とか言ってなかったか、お前」
『う‥ん、まぁそうなんやけど…。それが急に新しい依頼が飛び込んできて、そんで…』
「へぇ…。商売繁盛で結構なことだな。---で、いつ終わるんだ、それ」
『あ…、えっ‥と…。いや、とにかく今時間が無いんで、また連絡するわ』
「おい---」
 ガチャンと受話器の向こうから、鼓膜を震わす大きな音が響いてきた。ついで、プーという味気ない不通話音。チッと大きく舌打ちし、火村は受話器を置いた。
 書類ゃ本の山が雑多に置かれたデスクから、潰れかけたキャメルのパッケージを掘り出す。新しい煙草に火をつけ、苛立つ気分を落ち着けるように、どんよりと曇った灰色の空に向かって大きく紫煙を吐きだした。
「締め切りだなんて、そんな台詞信じると思ってるのかよ」
 あんな曖昧な態度で「締め切りだ。忙しい」と言われても、単純に信じられるわけがない。それどころか、疑問に思っていた怪しさが、確信に変わるには十分な態度だ。どうやらアリスには、火村に内緒にしておきたい何かが存在しているらしい。
「一体なにやってやがるんだ、あのバカ」
 今にも泣き出しそうな灰色の空を見つめ、火村はぼそりと呟いた。今までにも、アリスが火村に内緒で碌でもないことに手を出したり、また巻き込まれていた過去は多々あるのだが、その中でも最悪なのは---。
「まさか、女じゃねぇよな…」
 何げに口にした言葉に、トクンと小さく心臓が鳴る。胃の底から湧き上がってくる苦々しい思いに、火村は眉を寄せた。あのアリスに、そんな甲斐性があるわけない。そう鼻で嗤おうとしても、一度湧き上がった思いは苦々しい程のしつこさで胸の底に張り付いてしまっている。
 アリス本人にそれという自覚は無くても、顔を顰めたくなるような前科が幾つも転がっているだけに、単純に笑い飛ばすこともできない。だいたい「もてない」と事あるごとに口にしているアリスは、決してもてないわけじゃない。火村の知っている幾つかを数えてみても、もてていることにアリス自身が気付いていない場合が多いのだ。
 無意識なのか、それとも意識的なものが働いているのかは定かではないが、アリスはどこか一歩引いて女性と相対している場合が多い。恋愛関係らしきものに発展---むかつく事に、皆無というわけじゃない---しても、相手に本気を感じ取ると、スッと身を引いてしまうようなとこがある。アリスのそういう態度が何に起因しているのかは推測の域を脱しないが、今まで火村が知る限りにおいては、大概の場合がそれで有耶無耶になってしまうのだ。
 その割りに懲りずに女に引っ掛かってしまうのは、絶対にアリスの面食いと惚れっぽさのせいだ。しかも本人にそれと自覚がなてだけに、むかつき具合も倍増する。今までにも、一体何度このパターンで苛々させられたことか。しっかり自覚して女に引っ掛かっているのも腹がたつが、無自覚なままに事が進行しているのは、腹立ち具合もそれ以上だ。
 事件の陰に女有り---というのは使い古された台詞だが、こういう怪しい態度のアリスの陰にも女有り、の場合が多い。実際のところ、今回のアリスの曖昧な態度の原因が、女と限ったわけじゃない。だが何はともあれ、じゃまな雑草の類はさっさと処理するに限る。
「さて…、と」
 火村は本の山の中からカレンダーを抜き出した。幸いなことに、明日は講義の無い水曜日。アリスを急襲するには、もってこいの日にちだ。カレンダーの日付を睨んでいた火村は、口許にニヤリと薄い笑みを刻んだ。

◇◇◇

 四限目の講義を終えた火村がアリスのマンションに着いた時には、既に時間は午後六時前を指し示していた。夏至を迎えたばかりの今、一年の内で一番長く顔を覗かせている太陽も、灰色の雲間から徐々に地平へと近づいていっている。
 ドアの前に立ち、火村は何度かドアフォンを押した。だが、中からの返答は無い。駐車場にはアリスのブルーバードが止めてあったから、てっきり部屋にいるものと安易に思っていたのだが、もしかしたら外出でもしているのだろうか。アリスに逃げられないように、と態と連絡も入れずに来たのだが、それが逆に禍してしまったかもしれない。
「まさか寝てる…、なんてことはねぇよな」
 幾ら夜型生物のアリスでも、さすがにこの時間ともなれば起きて動いているはずだ。それにアリスのずれた生活時間帯をもってすれば、ちょうど今時分が彼のお昼頃に当たるはずだ。
 再度ドアフォンを連打して、火村は苛々と中の様子に耳を済ませた。だがドアの向こうからは、人のいる気配は微塵も感じられなかった。
「チッ」
 忌々しげに舌打ちし、火村はジャケットのポケットからキーホルダーを取りだした。その中から銀色の鍵を選び、鍵穴に差し込む。カチャリと軽い音を響かせて、鍵の外れる感触が指先に伝わって来た。
 ゆっくりとドアノブを回し、そっとドアを開ける。もしかして…と少しだけ危惧したドアチェーンは、やっぱり外れたままだ。火村がいつ来てもいいように---実際は、単に掛けるのが面倒だとか、忘れていたせいだと思うが---と、アリスの部屋のドアチェーンはいつも外したままにしてある。そのドアチェーンが掛けてある時というのは、アリスが火村を部屋の中に入れたくない場合限定だ。
 ---いるかいないかの確率は、二分の一だな。
 ドアチェーンが掛かっていないことに少しだけ安堵し、火村は音をたてないように、そっと部屋の中へと滑り込んだ。
 閉め切ったガラス扉の磨りガラスを通してリビングから漏れてくる自然光のせいで、玄関は何だか懐かしいようなぼんやりとした明るさを保っていた。あちこちを閉め切っているせいか、部屋の中には淀んだような空気が漂っている。玄関に佇み数瞬の間、部屋の奥の様子を伺う。だが人の気配のしない部屋に焦れたように、火村は左手奥の寝室へと歩を進めた。
 バタンと大きくドアを開いてみても、寝室の中に人の姿は見当たらなかった。真っ先に目に飛び込んできたベッドは、起き抜けのままという惨状だ。シーツもベッドカバーもぐちゃぐちゃのままで、ベッドの片隅に丸まっている。脱ぎ捨てられたパジャマに至っては、辛うじてベッドの上に乗っかっているという雰囲気だ。
 その様子を一瞥した火村は、くるりと踵を返しリビングへと向かった。玄関から中を遮る磨りガラスのドアを、一気に大きく開く。窓を閉め切っているせいか、ここにも淀んだような空気が籠もっていた。
 正面の窓へと一直線に進み、部屋の空気を入れ換えるように、火村はベランダへと通じる窓を開いた。少し湿ったような生暖かい空気が、怒濤のように部屋の中へと流れ込んできた。
 開いた窓をそのままに、火村はリビングを横切って書斎へと向かう。ノックも無しにドアを開けると、部屋に籠もっていた空気が出口を求めて動くのが頬に感じられた。だがそこにも、この部屋の主の姿は無い。
 ドアに寄りかかるような恰好で、ぐるりと書斎の中を見回してみる。
 窓際に設えられたデスクの上に、アリスの商売道具であるワープロがしっかりと蓋を閉められてぽつんと鎮座している。辺りの様子に目を配ってみても、先刻アリスが電話で言っていたような「締め切りで時間が無い」様子はチラリとも垣間見えない。蓋の閉められたワープロも、やたらとすっきり片付けられたデスク周りも、仕事からは程遠い雰囲気そのものだ。だいたい締め切りで時間が無いはずの人間が、この部屋にいないというのは、一体どういうわけだ。
「ふ‥ん…。俺を騙すつもりなら、もっとましな嘘つけよな」
 皮肉気に口許を歪め、火村はリビングのソファへと足を向けた。この部屋における火村のテリトリーとも言えるソファに、ドスンと乱暴に腰を下ろす。ポケットから取りだしたキャメルに火をつけ、天井に向かってフゥ〜と大きく紫煙を吐きだした。
 ---さて、どうするかな。
 アリスの隠し事を暴いてやるつもりで連絡も無しに急襲したのだが、部屋の主が留守であることにまでは考えが及ばなかった。部屋中を閉め切ったこの様子からみても、近くのコンビニに出向いたというわけでもなさそうだ。不意打ちを食らわしたつもりが逆に不意を突かれ、どことなく拍子抜けした気分だ。だが自分の思惑通りにことが運ばないとなると、益々苛立ちも強くなる。このままアリスの帰宅を待っていてもいいが、それではどうにも腹の虫が治まりそうにない。
 どうしたものか、と紫煙をくゆらせながら頭を捻っていた火村は、ふとチェストの上の電話機に視線を止めた。ここ数日、アリスが電話をずっと留守電にしていたのは身をもって知っている。もしそれが、自分以外の人間に対してもそうであったのだとしたら---。
 テーブルの上の灰皿で短くなった煙草を揉み潰し、火村は電話機の置いてあるチェストへと歩いていった。見下ろすようにじっとコスモブラックのそれを見つめたあと、徐に手を伸ばし留守電の紅いランプをオフにする。件数を告げる機械的な女性の声を無視し、再生ボタンを押した。ピーという甲高い音に続き、柔らかなソプラノの声がスピーカーから流れてきた。
『有栖川さん、桜庭です。取材の方が長引いているので、時間までに約束の場所に行けそうにないんです。五時にはホテルに戻れると思いますので、直接部屋まで来て頂けますか? ルームナンバーは2715。ホテルは、いつもと同じヒルトンです』
 録音の終わりと共に、機械的な女性の声が日にちと時間を告げる。苛々とした手つきで停止ボタンを押した火村は、電話機を睨め付けるように双眸を眇めた。
「いい度胸じゃねぇか、アリス…」
 低い声で呟き、大股に窓へと向かう。開け放した窓を乱暴に閉めたあと、火村は足早にアリスの部屋をあとにした。心の奥底では信じていなかった疑惑が現実に取って代わる予感に、火村は忌々しげに唇を歪めた。

◇◇◇

 自分でもよくネズミ取りに引っ掛からなかったものだ、と呆れるぐらいのスピードで、ヒルトンの駐車場にベンツを滑り込ませる。直通のエレベーターでロビー階にまで上がってきて、火村は漸く足を止めた。
 留守電の内容に苛立ちを覚え、その感情のままにここまで来てしまった。だが果たしてこの後どうするつもりなのか、までには考えが及んでいなかった。幾ら部屋番号が判っているとはいえ、まさかそこまで乗り込んでいくわけにはいかない。
 苛々とした気持ちを持て余しながら、火村はエレベーターの方へと視線を走らせた。もしアリスと桜庭とかいう女ができているのならば、まず部屋から出てくることはあるまい。いやそれとも、二人して食事に出掛けるだろうか。時間的には、ちょうど夕食の時間だ。
「くそっ!」
 口中で、小さく吐き捨てる。これでは、恋人を寝取られた馬鹿な男そのものではないか。何事に対してももっと余裕があると自負していたのに、情けないことこのうえない。だが、ここで苛々しても仕方がない。上手い打開策を捻出するためにも、ここは落ち着いた方がいい。そうは判っていても、持て余す感情は火村自身にも制御が効かない。
 煙草でも吸って少し冷静になろうと、火村はロビーの一角に設けられた喫煙コーナーへと足を向けた。煙草を口にくわえ火をつけようとするが、カチカチと乾いた音をたてるだけで何度やってもライターの火が灯らない。なかなつかないライターにいいかげん苛立ちを覚え始めた時、開いたエレベーターのドアから現れた一団の中に、見慣れた茶色の頭がチラリと垣間見えた。
 火のついていない煙草を惜しげもなく灰皿に放り込み、柱の陰に身を寄せるようにして視線を注ぐ。火村がいることに気付いていないアリスは、傍らに並ぶ女性と楽しそうに笑いあっていた。アリスの隣りで柔らかに微笑む華奢な感じの女性は、見るからにアリスの好みに合致している。
 目を眇めるようにしてその様子を見つめていた火村は、人混みに紛れて前を通り過ぎようとしたアリスに声を掛けた。ぎくり、と身を強ばらせたアリスは、ここにいるはずのない人物の姿に唖然とした表情を晒す。零れ落ちそうなほどに見開かれた眸は、遭遇した現実が信じられないというように、じっと目の前の犯罪学者を凝視していた。
 余りに素直な、パターン通りのそのリアクションに、火村は小さく苦笑を零す。女との逢い引きを隠し通したいのなら、現場を見つかったぐらいでオタオタするんじゃない、と言ってやりたいぐらいの慌てようだ。そんなアリスとは対照的に、火村には先手を取った余裕が生まれていた。目前でアリスが焦れば焦るほど、火村の感覚がゆっくりと冷えていく。
「な‥何で…」
 あわあわと震える口唇から、アリスが絞り出すように言葉を紡ぐ。その様子に満足したように、火村はニヤリと意地の悪い笑みを作った。
「ちょっと人に会う約束があったんでな。お前こそどうしたんだ? こんな所で会うなんて、奇遇じゃねぇか」
「いや、あの…」
 チラリチラリと隣りに佇む女性に視線を走らせ、アリスは何とか上手い言い訳はないか、と脳味噌をフル回転させる。だがそんなアリスの努力を嘲笑うかのように、脳味噌は一向にまともな答を弾き出してはくれない。隣りに佇む女性---桜庭は、訳が判らないという風情で、アリスの様子を不思議そうな表情で見つめている。どう転んでも、助け手は期待できそうにない。あとはアリス自身が己の才覚でこの場を乗り切るしかないのだが、それも余り期待できそうにはなかった。
 「えっと…」「あの…」と言い淀むアリスの姿を、火村は白々とした眼差しで眺めていた。黙ってアリスの次のリアクションを待つ。だがパニック状態に陥っているアリスの周りでは、淀んだように時間だけが虚しく過ぎる。いいかげん焦れて、火村が次の言葉を発しようとした時---。
「アリス、七緒ちゃん」
 聞き慣れたハスキーヴォイスが、火村の背中から聞こえてきた。その声に振り向くと、見知ったアリスの同業者が片手を振りながらこちらへと駆けてきていた。
「ごめん。遅うなって…。あら!」
 火村の姿を認めた朝井小夜子が、驚いたように声を上げた。走っていた足を止め、火村の傍らに並ぶ。
「火村先生やないですか。どないしたんですか、こんなとこで…」
「いや、ここで人と会う約束があったもので…。朝井さんこそどうしたんですか?」
 突然の小夜子の登場に驚きはしたものの、そんな様子は微塵も感じさせることのない落ち着いた口調で、火村は問い返した。
「私は、七緒ちゃんと約束があって…。あっ、彼女、私の高校の後輩なんですけど、あらアリス紹介しませんでした?」
「いえ、まだ…」
 ゆっくりと頭を左右に振る火村から視線を外し、小夜子は固まったようなアリスの方を振り向いた。
「何とろい事やってんの。ちゃんと紹介したらなあかんでしょ。心配せんでも七緒ちゃんにはステキな旦那様がいてるんやから、あんたの火村センセを取ったりせぇへんよ」
「な、何言うてんですか、朝井さん!」
 焦って声を上げるアリスを見つめ、小夜子はフフンとからかうようにワインレッドに彩られた唇の端を上げた。ぎゃあぎゃあと煩く言い訳を口にするアリスを軽く無視して、アリスの隣りに佇む桜庭七緒へと視線を走らせる。
「七緒ちゃん、紹介するわ。こちらは火村先生。京都の英都大学で犯罪社会学を教えてはる先生で、アリスの学生時代からの親友さんや。火村先生。彼女は桜庭七緒いうて、私の高校の時の後輩なんです。今は結婚して東京の方に住んでますけど、今春めでたく作家デビューしたんです」
 火村と七緒は、軽く会釈を交わす。まるで蚊帳の外に置かれたアリスは、納得がいかないという表情でその様子を見つめた。小夜子の登場は有る意味助かったといえば、これ以上はないって程のグッドタイミングだった。だがしかし---。
「七緒ちゃんとは久し振りやし、アリスも一緒に呑みに行こうって誘ったんですけど、あかんて言うんでよ。もしかしたら私らと呑みに行くんがイヤなんか、と思うとったんやけど、火村先生と約束しとったんですね。やったら、素直にそう言えばええのに…。別にじゃまはせぇへんのに、何気ぃ回してんだが」
 勝手に話を進めて高らかに笑う小夜子に、アリスは小さく溜め息をついた。冗談じゃない、と反論の一つもしたいところだが、これ以上話を面倒にするのは得策じゃない。だいたいこんな所で火村に会ったのだってイレギュラーな大誤算だっていうのに、これ以上面倒事を抱え込んだら、ナイーブな神経が焼き切れてしまう。
 曖昧な態度で適当に話を合わせている内に、小夜子の中で話は完結してしまったらしい。
「ほんなら、今度また一緒に呑みに行きましょう」
 笑いながら人混みに紛れ込んだ二人に、アリスはホッと安堵の息を吐いた。途端、隣りからピンと張りつめたような空気が流れてくる。恐る恐るという風に首を回すと、口許に乾いた笑いを張り付けた火村が、じろりと睨め付けてきた。
「ところでアリス---」
「別に疚しい事してたわけとちゃうからな」
 火村の言葉を遮るように、大声を上げる。一瞬シンとした周囲から、刺すような視線が届く。アリスは慌てて火村の袖を引いて、柱の陰に身を隠した。
「何だよ、アリス。俺に言い訳しなくちゃいけない事でもあるのか」
「いや、別にそういうわけやあらへんけど…」
 うろうろと視線を彷徨わせ、アリスは上手い言葉を探す。しまった、余計な事を口にしてしまった、と思っても、一度口から出た言葉は取り返すことができない。これでは、自分から白状してしまったも同然じゃないか。
「ふ〜ん…。もしかしてお前があの女と浮気でもしてるって、俺が思っているとでも考えたのか?」
 火村の言葉に、アリスはぎくりと身を竦めた。ゆっくりと視線を巡らせたその先には、口許に笑みを刻んだ男前の顔。だがしかし、チラリとも笑っていない目許が、口許に浮かんだ笑みを見事に裏切っていた。
 とてつもなく不味い状況に、アリスはごくりと息を飲んだ。これはもう覚悟を決めて、洗いざらい白状するしかない。さもないと、とんでもない誤解を招き入れてしまうのは目に見えている。できれば、いや絶対に、マジで怒った火村の相手なんてしたくない。
 フゥ〜と大きく息を吐き、アリスは火村のジャケットの裾を引いた。
「このあと別に用事ないんやろ。やったら、食事しながら話すわ。せっかくヒルトンにいてるんやから、35階のウインドーズ・オン・ザ・ワールドに行こう」
「お前の奢りだよな」
 当然と言わんばかりの火村の言葉に、アリスは渋々頷いた。己に疚しい事は無いとはいえ、状況はとてつもなくまずい。ここで下手に火村に逆らったら、己の身が危ういことは間違いのない事実だ。

◇◇◇

 時間的にばっちりディナータイムにぶつかっていたが、運良く窓際のテーブルに案内された。男二人で来るには躊躇するような場所だが、そんな事を言っていたら居酒屋以外は入れなくなってしまう。周囲のテーブルの客との相違に少しだけ居心地の悪さを感じながらも、アリスきっぱりとそれを無視することにした。
 藍色に薄く霞む梅田の街の風景に目を細め、取り敢えずは「乾杯」とルビー色のワインが注がれたグラスを触れ合わせる。ガラスの触れ合う硬質な音が、高く尾を引いてざわめきに溶けていった。
 暫くは話もせずに、食事に専念する。いや、食事に専念する振りを装いながら、アリスはどういう風に話を切り出そうかと頭を捻っていた。おかげで折角のご馳走なのに、殆ど味が判らなかったぐらいだ。
 空腹を満たし、適度に酔いが回ってきたところで、火村が「さて」と口火を切った。できればこのまま有耶無耶の内に終わらせたかったが、敵は美味しい食事にも美味い酒にもごまかされてはくれないらしい。諦めにも似た境地で、アリスは隣りの椅子の上に置いたバックから長方形の物体を取りだした。
 ゆっくりとした仕種でコトリとテーブルの上に置かれたそれに、火村が目を瞠る。学生達が院生室や教室で偶にピコピコとやっているそれは、携帯型のゲーム機。興味はないが、火村にも見慣れた代物だった。
「---で?」
 双眸を眇めた火村が、話の先を促す。アリスは慎重に言葉を選びながら、ここ数日の出来事を話し始めた。
「事の始まりは朝井さんなんや」
「朝井さん?」
 アリスの口をついて出た思いも寄らぬ名前に、火村は緩く眉を寄せる。そんな火村の様子を上目遣いに見つめながら、アリスはこくりと小さく頷きを返した。
「ちょうど一週間前、締め切りが終わってホッとしとったところに、朝井さんから宅急便が届いたんや。一体なんや、と思うて開けたら、中に---」
「そのゲーム機が入ってたわけか」
 うんざりしたような火村の口調に、アリスは再度頭を上下に振って頷きを返した。ポツリポツリと話すアリスの話は、次のようなものだった。
 小夜子が姪に強請られて、彼女の誕生日に新しいゲーム機をプレゼントしたところ、「こっちはもう使わないから」と、それまで使っていたゲームボーイとポケモンのソフトを姪からプレゼントされたらしい。小夜子自身ゲームには何の興味も無かったので、暫くの間はそのまま手をつけることもなくゲームボーイとポケモンのソフトは放っておかれた。
 そんなある日、ここ一カ月ほど頭を悩ましていた中編の締め切りが終わり、小夜子はやる事も無く閑を持て余していた。その時、何げに姪から貰ったゲームボーイとポケモンが目に付いたのだ。こんな子供騙しのゲーム、と思いつつ一緒に貰った攻略本を片手にピコピコとやり始めたら、これが意外に面白くて、あっと言う間に夢中になってしまった。そしてそうなると、今度は同じ状況の仲間が欲しくなるもので---。
「お前に白羽の矢が立ったってわけだ」
 火村は、目の前のワイングラスをぐいっと煽る。その姿を見つめながら、アリスはハァ〜と溜め息を零した。
「あたりや。朝井さんが言うには、何でも他の人と通信をして交換せな進化せんポケモンがいてるんやて。どうしてもそれを進化させたいからって言うて、俺の所にゲームボーイとソフトを送りつけてきたんや。俺やったら他のゲームもやってるし、きっとポケモンにも嵌るやろうって、そう思うたらしい」
「それで、俺の電話にも出ないぐらい嵌ってしまったわけだ」
 ワインを口に含みながらの嫌味な台詞に、アリスは憮然とした表情で頷いた。
 アリス自身、最初は何でこんな子供騙しのゲームを…と、うんざりしながらやっていたのだ。こんなのやるぐらいなら他のゲームの方が…とも思うが、送りつけてきた相手が朝井小夜子では逆らうわけにもいかない。取り敢えず小夜子の言うナンタラシティにまで行けば、それでお役ご免だ、と思っていたのに---。いつの間にか、アリス自身もすっかりポケモンに嵌ってしまっていた。
 ポケモンなんてたかが子供のゲーム…と思っていたのに、やりだすとこれがなかなか奥が深くて面白いのだ。どうしてもどうしてもどうしてもゲットできなかったポケモンが、数度の挑戦の末にゲットできた時など、思わず快哉を叫んでしまったぐらいだ。
「アリス---」
 ハァ〜と溜め息をついたアリスの前で、火村がパチンと指を鳴らす。その音にハッとしたように、アリスが視線を上げた。眉を寄せた火村は真っ直ぐにアリスを見つめ、不機嫌な様相で小さく鼻を鳴らした。
「お前がポケモンに夢中になった経緯は判ったが、それとあの女とどういう関係が有るんだよ。適当なこと言ってごまかしてんじゃねぇぞ」
 苛立ったような火村の口調に、アリスは慌ててブンブンと頭を左右に振った。冗談じゃない。誤解を解くための説明で誤解を深めていたんじゃ、元の木阿弥もいいとこだ。
「やから、桜庭さんもポケモンに嵌ってんねん」
「ああ?」
 信じられないとばかりに、火村は語調を強めた。
「ほんまやって。桜庭さんとは、彼女が新人賞を取った受賞パーティーで朝井さんに紹介されて知り合ったんやけど、そん時からポケモンに夢中やってのは聞いてたんや。そしたら一昨日朝井さんから電話掛かってきて、桜庭さんが取材でこっちに来るから、そん時にポケモン交換してほしいって言うてるって。朝井さんでもええんやないですかって言うたんやけど、朝井さん、桜庭さんが欲しがってるポケモンはゲットしてへん、て言うんやもん。代わりに桜庭さんがくれるっていうポケモンは、俺の持ってるソフトには入ってへんやつやったし…」
 勢い込んで説明していたアリスの声が、火村の白々とした視線に気圧されるように、徐々に小さくなっていく。場の悪さと乾いた喉を潤すために、アリスはごくりと一気にワインを煽った。
「わざわざあの女の泊まってる部屋まで行ってか?」
 吐き捨てるような火村の言葉に、アリスはぴくりと視線を上げた。見開いた眸が、アリスの驚きを言葉以上に雄弁に物語っている。
「ふ…ん‥。何で知ってるのかって顔だな。こっちに来る用事があったから、先にお前の部屋に寄ったんだよ。何せ連絡しようにも部屋の電話は留守電になったままだし、携帯は切ってあるしな。そしたらお前、締め切りで時間無いとか言ってたくせに部屋にいねぇし…。もしかしたら行き先が判るかなって思って、留守電聞いたんだよ」
 嘘混じりの、火村に都合良く脚色された台詞にも拘わらず、慌てているアリスがそれに気付くことはない。火村の言葉の矛盾点を突く前に、まずいとか、どうしようという思いの方が先に立ってしまい、それ以外のことにまで考えが回らない状態だ。
 火村からの連絡をすっぽかしまくって、しかも締め切りで忙しいと嘘までついた挙げ句に、女性といたところを見られただけでもとんでもない事態だ。それどころか、その彼女の泊まっている部屋にまで赴いたことを知られているだなんて---。これはもう、不味すぎるなんてものじゃない。一刻も早くこの誤解を解かないと、明日の朝の太陽は拝めないかも…。
「そりゃ確かに桜庭さんの部屋に行ったけど、それはポケモンの交換に行っただけや。さすがにええ年齢した大人が、人混みの中でゲームボーイ出してポケモンの交換するのは恥ずかしいやんか。ほんまにそれだけで、君が思っているような疚しい事してたわけやあらへんからな」
「俺が、何を思ってるってんだよ」
「いや、だから…」
 もごもごと、アリスは口ごもる。女性の泊まっている部屋を訪れたとなったら、単純に誤解する内容はたった一つしかないだろう。だがそれを自分から口にするのは、墓穴を掘ってその中に潜り込むようなものだ。もし火村が妙な誤解をしていないのであれば、わざわざ自分からそれを言い出す必要はない。
 伺うように視線を彷徨わせていると、火村が小さくプッと吹き出した。
「ふぅ〜ん…。アリスに、そんな甲斐性があるとは知らなかったな」
「な…。君が知らんだけで、俺かてなぁ…」
「何だよ」
 売り言葉に買い言葉。負けず嫌いの性格がむっくりと顔を出し、ついいつもの調子で言い返そうとして、アリスは慌てて口を噤んだ。せっかく上手く纏まろうとしているのに、藪をつついて蛇---しかも嫌味なぐらいにしつこくて陰険---を出したんじゃ、阿呆みたいだ。ここはひたすら我慢、我慢。己の身の安全が図れるのなら、甲斐性なしとの評価も甘んじて受けようではないか。
「さて…」
 指に挟んでいたキャメルを灰皿の上で揉み潰し、火村は腰を浮かせた。火村の様子を伺いながら、ミルクブラウンのコーヒーをちびりちびりと喉に流し込んでいたアリスは、突然の火村の動きに、慌ててカップに残ったコーヒーを飲み干した。先に立ち上がった火村は、アリスに構うことなく出口へと向かう。テーブルに残されたままの伝票を手に、アリスは焦って火村のあとを追った。
 会計を済ませ、エレベーターホールで火村に追いついた。煙草が吸えずに手持ち無沙汰な様子で、壁に寄りかかるように佇んでいた火村は、アリスの姿を認めると壁のボタンを押してエレベーターを呼んだ。
 待つほどもなく、エレベーターが下から大勢の人を乗せて上がってきた。ヒルトンホテルの最上階、35階に位置するこのレストランは、その眺めも相まって連日大勢の人で賑わっている。まだ週が明けたばかりの火曜日だが、夜景と食事を楽しみに、これからまだまだたくさんの人がここを訪れるに違いない。
「おい、アリス」
 ぼんやりと人の出入りを眺めていたアリスは、低いバリトンの呼び掛けに、慌ててエレベーターへと乗り込んだ。食事を済ませた人々はバーへと向かうらしく、エレベーターに乗り込んだのはアリスと火村の二人だけだった。
 ゆっくりと閉まっていくドアから、階数ボタンを押す火村の手元へと視線を移す。てっきり梅田の地下街へと入る地階のボタンを押すものと思っていたが、何故か火村はロビー階のボタンへと指を伸ばした。「あれっ」と思う間もなく、火村の指は躊躇もせずにボタンを押す。
「なぁ、家に帰るんと違うんか?」
 アリスの問いかけに、火村はニヤリと口許に笑みを刻んだ。
「どうやって帰るんだよ」
「どうやってって、電車やないんか?」
「車は?」
 火村の言葉に、アリスは一瞬だけ唖然とした表情を作った。ついで、呆れたような溜め息を零す。
「君、車で来てるのに、あんなバカバカ酒呑んどったんかい」
 火村が当然の顔をしてワインやビールを呑んでいたから、アリスもそれに付き合って遠慮なく呑んでいたのだ。もし車で来ているのが判っていたら、誰が酒なんか呑ませるものか。二人共酔っぱらいじゃ、車を運転するわけにはいかないじゃないか。
「だからな、アリス…」
 腕を伸ばし、火村はアリスの腰を抱き寄せた。身を捩り、アリスは柔らかな枷から抜け出ようと試みる。だが柔らかな枷は鋼の強さで、びくりとも緩まない。
 冗談じゃない。こんな公共の、しかもいつ他の人間が乗ってくるか判らない場所で、何しやがるんだ、こいつ。
 必死に身を捩るアリスを腕の中に閉じ込め、火村は耳許に口唇を寄せる。
「泊まってこうぜ」
 睦言のような艶やかさで囁かれた言葉に、アリスは力が抜けたようにぱったりと火村の肩に額を乗せた。「この野郎」と心の中で呟き、視線を上げる。
「君、最初からその気やったな」
 双眸を細めた火村が、フフンと勝ち誇ったような笑みを作る。
「るせぇな。言っとくが、ホテル代はお前持ちだぜ」
「めっちゃむかつくわ」
 クックッと喉の奥で笑う火村の頭を、ゴツンと小突く。
「こうなったら夜景がきれいな部屋でも取ったろ」
「却下だ、アリス。夜景の見えない部屋を取れよ」
「---何やねん、それ。高いんやから、その分の元は取らな損やないか。それにだいたいこのホテル、夜景の見えん部屋なんかあるんかい?」
「ふ‥ん…。だったら、カーテン閉めるんだな」
「だから、何やねんそれは。夜景が見えると、何かまずいことでもあるんかい。せっかくヒルトン泊まるのに、夜景見られへんかったら勿体ないやないか」
 ムッとした表情で睨みつけるアリスの耳許に、火村は口唇を寄せた。
「つれないこと言うなよ、アリス。ずっと俺を放っておいたんだから、今日は俺だけを見てろよ」
 耳許で囁くバリトンに、アリスは眉を寄せた。
 ---こいつ、確信犯やな。
 元々火村の声に弱いアリスだが、それと殊更に意識して囁くバリトンは凶悪以外のなにものでもない。
「お前、実はめちゃくちゃタラシやろ」
「アリス専用のな」
「言ってろ、アホ」
 チラリ、と光の移動する表示階に視線を走らせる。この閉鎖された空間が開放されないことを願いながら、アリスは火村の唇にそっと自分のそれを寄せた。


End/2001.06.29




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