Vanilla essenceはお好き!?
  -Side Alice- <1>

鳴海璃生 




−1−

 まるで世界を飛び越えたように、ぽっかりと眼が覚めた。が、まだ意識は別の世界を漂っているようで、どことなくはっきりとしない。同時に身体の動かし方さえ忘れてしまったような不可思議な感覚に包まれ、私は辺りの様子を探るようにゆっくりと視線を動かした。
 最初に視界に飛び込んできたのは、見慣れた白い天井。身体の内から響いてくる心臓の音に合わせるように、私はそっと指先を動かしてみた。指先の微かな動きと共に、私を取り囲んでいる世界が徐々に私の中に戻ってくる。
「あ〜、あのまんま寝てたんか、俺…」
 小さく声を出すと、ぼんやりと霞んでいた意識が次第にはっきりとしてきた。身体も何となく自由に動くような気がして、私は一つ大きく伸びをした。そうすることでやっと、今まで夢の世界を漂っていたような私の意識が、現実の世界にシンクロした。
「よっ、と」
 勢いをつけるように声を出し、私は身体を起こした。頭上に腕を伸ばし二度三度と首を回すと、ポキポキと骨の鳴る音が耳に響いてきた。窮屈な恰好のままソファの上で眠っていたため、身体のあちこちが凝り固まっているようだ。まるで悲鳴のように骨が音をたてる。
「火村はようこんなとこで寝れるわ」
 偶にここでうたた寝をしている京都在住の犯罪学者の顔を思い出しながら、私は一つ大きな欠伸をした。肺の中に勢い良く空気が流れ込んできて、身体を巡る血の流れも勢いを増したような気がする。同時に頭の中も動き出したようで、私は漸く辺りのことを気にする余裕が出てきた。
「一体今、何時なんや?」
 呟きながら、私はソファの上で身体の向きを変えた。肘掛けに身体を預け、首を伸ばす。ドアの横の壁に掛かっている時計は、午後三時を回ったところだった。日付は確認していないが、まさか一日以上眠っていたということはあるまい。
「九時間近く眠ってたんか…」
 私自身としては寝たらすぐに眼が覚めたような感じで、そんなに眠ったような気はまるでしない。だが時計の針は、結構な時間ここで眠り込んでいたことを指し示している。もっともここ数日の睡眠時間を考えると、まだまだ時間的に十分とはいえない。だがその割りに頭がすっきりしているのは、余程深く眠っていた証拠だろう。
 今朝方---確か六時少し前だったと思う---、ここ一週間ほど掛かりきりになっていた原稿が漸く終わった。大詰めに入った三日ぐらい前から殆ど眠らずにワープロに向かっていたため、睡眠不足も限界の状態だった。頭の中は朦朧として、身体全体が眠ることを欲していた。
 だがここで眠ったら最後だ、と思い、私は必死で気力を奮い立たせて近くのコンビニに出掛けていった。アルバイトらしいひょろっと背の高い店員に、出来上がったばかりの、まだほんのりと温かいフロッピーを渡し、それが今日の宅配便で送られるのを確認した途端、身体中の力が抜け落ちるような安堵感が湧き上がり、思わずその場に座り込みそうになった。
 最後に残ったなけなしの力を振り絞り、酔っぱらいのような千鳥足でフラフラと部屋に戻ってきて、ソファに倒れ込んだところまでは何となく覚えている。---とはいえ、その間のことはまるで夢の中の出来事のようで、何となくって程度の感覚でしか覚えていないのだが。
 とにかく必死で戻ってきてソファに横になった途端、私の意識は途切れてしまった。フロッピーを宅配便に乗せたことで、安心したせいだろう。まるで糸が切れるように眠り込んで、現在に至るというわけだ。
「さぁて、どないしようかな…」
 ポキポキと音をたてながら首を回し、私はこれからのことを考えた。ベッドに戻って本格的に眠るか、それとも起きて動き出すのか。
 この一週間人間外ナマモノの生活をしていたので、部屋の中はとんでもない状態になっている。掃除とか洗濯とか、色々やらなくちゃいけない事はてんこ盛りだ。そんなことは良く判ってはいるが、できれば私自身としてはこのままもう一度眠りたい欲求の方が強い。
「多少部屋ん中が汚うても、死ぬわけやあらへんしな」
 だったら本格的に寝るか、と思った時、正直な私のお腹が勝手に自己主張を開始した。シンとしたリビングに、どことなく悲しげな音が響く。
「あやや…」
 自己主張を繰り返す胃の辺りを押さえ、私は小さく溜め息をついた。確かに睡眠時間も不足しているが、食事の方も不足していた。
 最後にまともな食事をしたのは、思い出す限りでは確か十日ぐらい前だ。それ以降は原稿に掛かりきりで、口にしたのは人間としてのまともな食生活からはかけ離れた物ばかりだったような気がする。
 コンビニの弁当やインスタント食品の類なんてのは、まだましな方---というより、大ご馳走---だった。修羅場状態のラスト三日に至っては、コーヒー飲んで菓子パン囓って、コーヒー飲んでコーヒー飲んで---。最後の方はコーヒーを作りにいちいちキッチンまで行くのも面倒だったので、ポットに作り置きして傍らに置いていたぐらいだ。
「---それだけかい」
 そりゃちょっとまずくないか、と頭を捻ってみても、まともに食事をした記憶なんて全然浮かんでこない。これじゃあ、お腹が自己主張するのも仕方ないか、と思う。睡眠不足も大きな問題だが、取り敢えずは目先の欲求。お腹の自己主張を宥めるため、食事を優先させることにする。が、そうはいっても---。
「食べ物なんてあらへんしなぁ…」
 ここで食事を優先させるには、大問題があった。なんと今、私の部屋には『食べ物』と胸を張って言える程の物が、何もないのだ。お米はとっくの昔に切れているし、冷蔵庫を開けても生鮮食料品なんて入ってるはずがない。もしかしたら…、なんて儚い希望を抱いて、中身を確かめにキッチンまで歩いていくのも無駄ってもんだ。
 かといって、カップヌードルとか缶詰なんてものは、全く食べる気がしない。できれば温かい御飯に、お味噌汁に、鮭の焼いたやつ。朝食の定番として玉子焼きは当然欠かせないし、お漬け物に海苔に---。
「卵掛け御飯なんてのもええなぁ…」
 うっとりと思い描いた食事は、どれもこれも現在の我が家には存在しない物ばかりだ。お腹の自己主張は、相変わらず悲しげに響いている。そっとお腹を押さえ、私はごろんとソファに横になった。この悲しげな主張を宥めるためには、贅沢なんて言っていられないのだろうか。
「あ〜あ。何か悲しゅうなって---」
 唐突に言葉を止め、私はガバリと凄い勢いで起き上がった。すっかり目が覚めたつもりでいたが、どうやら私の脳味噌はまだ完全には働いていなかったらしい。こんな時にこそ、とってもお役立ちな友人の存在を忘れるだなんて…。
 あぁ…、俺のアホアホアホ。
「ごめんなぁ、火村。君のこと忘れとって…」
 ベランダの窓---京都の方向が曖昧なので、まぁ取り敢えず---に向かって手を合わせ、私はテーブルの上のコードレスフォンを取り上げた。一瞬大学だろうか…、それとも下宿だろうか…、との疑問が頭を過ぎる。が、どっちかにいるだろう、と簡単に結論づけ、私はまず最初に大学の火村の研究室へと電話することにした。そして、ワンタッチボタンの場所よりも確実に指が覚えている番号を淀みなく押した。


to be continued




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