Vanilla essenceはお好き!?
  -Side Alice- <2>

鳴海璃生 




 耳元で二度三度とコール音が鳴った後、カチャリと回線の繋がる音がした。
『はい---』
 耳に響いてきたバリトンの声を遮るように、私は勢い良く電話の向こうの相手に向かって口を開いた。
「火村ーっ、俺や俺っ! 久し振りやけど、元気やったか?」
 弾むような私の言葉に返された返事は、呆れを含んだような溜め息。そして、相も変わらずの皮肉が続く。
『失礼ですが、どちらの俺様でしょうか?』
 本人にしてみれば嫌味を言っているつもりなんだろうが、毎回毎回同じことを口にするだなんて、余りに芸が無さ過ぎる。一体何年関西に住んでいるんだ、この男は。幾ら何でも余りに情けなさ過ぎる。私としては、毎度のおきまり文句ではなく、偶にはもっとエスプリの効いた芸のある嫌味の一つでも返して貰いたいものだ。
「大阪市天王寺区夕陽丘在住の有栖川有栖様や。これで足りないんやったら、誕生日とか血液型とかも言うてやろうか」
『バカか。誰が、そんなことまで言えって言ったんだよ。名乗らずに急に喋るのは止めろって、言ってんだろうが。俺じゃなく、他の奴が出たらどうするんだよ』
「そんな間抜けな真似せぇへん。ちゃんと君やって判ったから、話し出したんやもん。それに言わせて貰うけどな、君かて俺と似たり寄ったりやないか。俺ん家に電話かけてきて君が名乗ったのなんて、俺、一回も聞いたことあらへんで」
 偉そうに人のことをとやかく言ってはいるが、この先生が私の家に電話を掛けてくる時はいつも、名乗り無し、時候の挨拶も無しで、突然本題を始めるのだ。まず最初に「元気か?」と訊くだけ、まだ私の方がましってもんじゃないか。
『お前の部屋じゃ、お前以外の第三者が電話に出る可能性はゼロだろうが』
 あからさまにバカにしきったような口調に、私は僅かに眉を寄せる。ついで私の負けず嫌いの性格が、むくむくと頭をもたげた。
「失礼なこと言いなや。俺の部屋かて、俺以外の誰かが電話に出ることかてあるわ」
『そりゃ初耳だな。一体どこの誰が出るのか、今後の参考のためにぜひ教えて貰いたいもんだな』
 火村の言葉に、思わず返事に詰まる。
 ---ちくしょう。こいつ、絶対にそんな事はあり得ないと思ってるな。
 クックッと喉の奥で笑っているような声が、私の負けず嫌いな性格にますます火を点ける。が、そうは言っても、口惜しいかな、この部屋の電話に出る人間は決まり切っている。私と、もう一人---。
『ほら、さっさと教えてくれよ』
 そのもう一人の人間は愉しげな笑いを発し、私の応えを促す。
 ---ええいっ、ちくしょう。マジ腹たつわ。
 応えを口にしたら火村からどういう反応が返ってくるか、判りすぎるぐらいに判っている。だが、だからといってここで口を噤んでいたら、自ずと負けを認めた結果になる。腹を括って、私はゆっくりと口を開いた。
「---火村や」
 案の定、私が思い描いた通り、電話の向こうからは爆笑が返事の代わりに返ってきた。
『おい、アリス。たいした応えだな、そりゃ』
 笑いすぎて目尻に溜まった涙を拭っているであろう仕種を想像して、私は舌を出した。
 ---笑うなら笑え。そんなことで俺は負けへんぞ。
 普段ならここで電話を切ってしまうところだが、今日の私はちょっと違う。何といっても、偉大な目的遂行のためには、多少のことで腹をたてていてはいけないのだ。
 ひとしきり笑って気がすんだ---それでも、まだしつこく喉の奥で笑ってやがる---のか、火村は漸く話題を変えることにしたようだ。
『---で、何の用だ? 締め切りは、もう済んだのかよ』
 相変わらず人のスケジュールに詳しい奴だ、と思いながら、私は変わった話題に乗ることにした。火村に対して言いたいことは色々あるが、ここでまた元の話題を蒸し返したら、いつまで経っても私のお腹は悲しい主張を繰り返さねばならない羽目に陥ってしまう。
「ギリギリやったけど、何とか今回も無事済んだ。出版社が潰れん限り、来月中頃には本屋に、俺の新作の載った雑誌が並ぶはずや」
『そりゃ、おめでとう。これで、またお前の後悔が一つ増えるわけだな』
「煩いわい。後悔なんて、今までかて一個もあらへんわ。それよか、なぁ火村…」
 受話器の向こうで、カチャリとライターの音がした。どうやら火村は、腰を据えて私の電話に付き合ってくれることにしたらしい。よしよし、良い傾向だ。勝利の予感に胸を躍らせ、だが慎重に私は言葉を続けた。
「このあと何か予定入っとるん? もし無いんやったら、久し振りにこっち来ぃへんか?」
 私としては精一杯の猫撫で声で、お伺いをたてる。私が切に会いたいと願うのは、火村自身というより火村の料理の腕だ。だがそんな事、ばれた日にはあとが怖い。美味しい食事はとっても大事だが、自分の身の安全だってとっても大事なのだ。
『そうだな…。お前の間抜けた面もここんとこ拝んでないし、行くかな』
 いつものことながら、余計な言葉がひと言もふた言も多い奴だ。素直に「会いたかった」ぐらい言えんのか。ほんの一瞬、素直な火村の様子というものを想像し、私はぶるりと身を震わせた。
 ---ひぇ〜、冗談ちゃうわ。真夏の夜のスプラッタホラー以上に不気味やわ。
 想像力に満ち溢れた私の脳味噌は、不幸にも時としてとんでもない物まで簡単に思い浮かべてしまう。余計な想像に背筋が寒くなり、私はそれを振り払うように慌てて頭を振った。
「間抜けたは余計や。でも、来れるんやな。やったら、手土産は《さふらん》のプリンがいい」
 《さふらん》というのは、河原町三条にある喫茶店の名前だ。京都に山とある老舗の中の一つで、英都からはちょっとだけ離れているのだが、大学時代からの私の行きつけの店だった。
 職人肌の頑固親父の作るこの店のプリンとシュークリームは絶品中の絶品で、数ある私のお気に入りの中でも上位に位置する代物なのだ。大学を卒業してからはこの店を訪れる回数もぐんと減ってしまったのだが、私の部屋に来る時、偶に---口を酸っぱくして言うが、本当に偶に、だ---火村が足を伸ばして、土産代わりにここのプリンやシュークリームを買ってきてくれることもあった。
『おい…』
 私の言葉に、電話の向こうの声が心持ち低くなる。大学の学生や犯罪者には効果のあるその声も、私にとっては如何ほどのこともない。だいいち人ん家に遊びに来るのであれば、手土産の一つも持ってくるのは当然じゃないか。その選定に困らないように、とわざわざ指定してやっているのに、何なんだその不機嫌そうな、不満たらたらの声は---。
『あんなとこまで行けってのか?』
 あんなとこも何も、《さふらん》は同じ京都市内にあるってのに、何言ってるんだか。そりゃちょこっと遠回りにはなるかも知れないが、そうは言っても英都から京都駅までの通り道の一つには違いない。
「ええやんか。君のとこからならすぐやろ」
 不機嫌なバリトンの代わりに、今度は諦めを含んだ溜め息が聞こえてきた。私が一度言い出したら引かない---特に食べ物に関しては、絶対に引かない---ことは、長年の付き合いで火村自身良く判っている。埒のない無駄な問答をするより、さっさと白旗を上げた方が無難だと妥協したのだろう。
『一個でいいな?』
 もちろんだ。シュークリームも一緒に…、なんて贅沢は言わない。それは次のお楽しみに取っておくことにする。
「火村ぁ」
『ただし!』
 綻ぶ口許から思わず漏れた嬉しげな私の声を遮るように、火村が僅かに声を上げる。訝しむように首を傾げ、私は受話器の向こうの声に聞き入った。
『大阪のお前の処に行くのに、わざわざ人も車もうんざりする程多い河原町くんだりまで行かせるんだから、有栖川先生はそれなりの感謝は示してくださるんだろうな?』
「うっ…」
 思わず言葉に詰まる。う〜ん…そう来たか、この変態。せっかく身の安全を考えて「御飯を作って」と言わなかったのに、これでは元の木阿弥ではないか。困った…。何とか上手い言い逃れはないものだろうか。
 ---締め切り終わったばかりで寝不足だから…なんてのは、この変態助教授には通じへんし。
 上手い言い逃れの方法を考えて頭を捻る私に焦れたのか、それともそれを聞く前にとっとと電話を切ろうと目論だのか、私の返事を待つこと無く、火村は勝手に言葉を進めていく。
『まぁいい。河原町経由だと時間が読めないから、河原町を出たところで電話する。多分七時頃になると思うから、簡単なつまみぐらいは作っておけよ』
 そう言い置いて、火村は唐突に電話を切った。耳元で不通話音がプーと聴覚検査のような音をたてる。緑色の通話ボタンを押し、回線を切ったあと、私はコードレスフォンをテーブルの上に置いた。
 あれよあれよと言う間に、何だかとっても困った状態に陥ったような気がする。幾ら私の好物だとはいえ、たかだかプリン一個で火村の変態性欲を満足させるなんて冗談じゃない。
「だいたい何やねん。何が、簡単なつまみぐらいは作っておけよ、や。お前は、この家の亭主かって…。あっ、そや!」
 ポン、と私は胸の前で手を打った。火村の台詞をよくよく考えてみたら、私は火村のために、締め切りで疲れた身体に鞭打ってつまみを作ってやるのだ。《さふらん》のプリンなんて、それで綺麗さっぱりご破算じゃないか。
「…となったら、早速夕食のメニューやな」
 ソファから落ちないように気をつけながら屈み込み、私はがさごそとテーブルの下からメモ帳とペンを取りだした。
「何がええかな。やっぱ時期柄、鍋なんかええかなぁ…」
 いつもなら、買い出し込みで火村先生のお仕事だ。が、今日は火村が来るのを待って、それから買い物に行かせたんじゃ夕飯が遅くなってしまう。これといって特別やる事もなく閑だし、おまけに今日の天気は春のようにポカポカと暖かい。ここ暫く部屋に閉じ籠もりきりだったこともあり、私は気分転換代わりに夕飯の買い出しに行くことにした。
「あっ、湯豆腐なんかええんとちゃうやろか。でも、水炊きも石狩鍋も捨て難いし…」
 これが火村だったら、実際に店に行って、そこにある品物を見てからその日のメニューを決めるなんて離れ業もやってのけることができる。だが、生憎私はそこまで買い物のプロってわけじゃない。先にメニューを決めて、ついでに買う物も決めておかないと、とんでもないことになってしまうのだ。
「すき焼き---は、火村が作ると関東風になるしなぁ…。う〜ん、どないしよ」
 腕を組み、暫くの間今夜のメニューに悩む。考え出すと、あれも食べたいし、これも食べたいってことになってしまう。その時、キュルルーと放っておかれた胃袋が悲しげな音をたてた。組んでいた腕を解き、音をたてる腹の辺りをゆっくりと撫でる。
「もう少し我慢するんやで。あと三時間もすれば、美味しい飯が喰えるんやからな。おまけに《さふらん》のプリン付きや。楽しみやろ」
 そうしてひとしきり空っぽの胃袋を宥め、私は再度今夜のメニューへと思いを募らせる。次から次へと湧いてくるメニューの数々に頭を捻っている内に、家庭料理といえるような代物を食べたのは、火村がこの部屋に泊まり込んでいた正月以来だということに気付く。
「何や随分と悲しい食生活を送ってきたんやな、俺…。よし、決めた。第一希望が水炊き。第二が湯豆腐。んで、三番目がすき焼きや」
 白いメモ用紙にペンを走らせ、私は必要な材料を書きだした。
「えっとぉ、鳥さんに白菜、長ネギに鱈に昆布。白たきに牛さん---は、すき焼きの方か。豆腐に---木綿はあんま好きやないから、絹ごしにしとこ。椎茸に春菊にエノキ。あっ、あかん。卵を忘れ取った。あとは---」
 ぶつぶつと呟きながら総てを書き終えた時には、スケジュール手帳ぐらいのサイズのメモ用紙は真っ黒になっていた。
「これでOKやな。…となれば、お出掛けの用意せな」
 コンビニから帰って来た時のまま無造作にソファの背に掛けてあった厚手のダッフルコートを手に取り、私はふと窓の外へと視線を走らせた。夕方らしく陽は少し陰っているが、それでもポカポカと暖かそうだ。こんなコートを着て出掛けたら、暑いかもしれない。
「だいいち外を歩くのなんて、そうあらへんしな」
 外を歩くのはせいぜいここから地下鉄の駅ぐらいまでで、その後は電車の中とか地下街とか建物の中なのだ。きっと暖房がガンガンに効いていて、こんな厚手のコートは逆に手荷物になってしまうかもしれない。
 コートのポケットから財布を取りだし、ジーンズのポケットに突っ込み、私は寝室へと向かった。クローゼットの中からコールテンのジャケットを手に取り、それを羽織る。
 そうして私は、意気揚々と部屋をあとにした。行き先は、もちろん梅田のデパート。一カ月半振りの手作り料理なら、材料もそれなりの物を揃えたいではないか。ほかほかと湯気をたてる水炊きににんまりと笑みを作り、私は弾むような足取りで地下鉄の駅の階段を下りた。


to be continued




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