Vanilla essenceはお好き!?
  -Side Alice- <おまけ>

鳴海璃生 




 大学から出たベンツは、今出川通を順調に東へと向かった。まだ夕方のラッシュには少し早い時間なので、車の流れもスムーズだ。助手席に倒れ込むようにぐったりと身体を預けた私は、窓の外を流れていく夕暮れの街並みをぼんやりと見つめていた。
 あのとんでもないひと言は、思いも寄らないほどのダメージを私に与えた。もし私の胸にウルトラマンのカラータイマーが付いていたら、それはピコピコと忙しなく点滅を繰り返し、今現在の状態は瀕死---いや、既に棺桶の中状態かもしれない。いくらか治まったとはいうものの、未だに胃袋はムカムカと自己主張を続けている。おまけに二度と思い出したくもないあのひと言は、何故か走馬燈のように脳味噌の中を駆け巡り、その度にゾクリと悪寒が走る。
 なのに---。ああ…、なのになのに---。
 調子良く通りを走るベンツのエンジン音に合わせ、隣からは浮かれた雰囲気が漂ってくる。BGMに口笛や鼻歌が出ないだけまだましだが、それにしたってこの回復力の早さは異常だ。私があの禁断のひと言をこいつの耳元で囁いた時には、私と同程度のダメージを受けていたはずなのに…。これだから、図太い神経---たぶん超合金かグラスファイバーで出来ているに違いない---の持ち主はイヤだ。
 それに反して、私のこの繊細さ加減。まるで空から舞い降りてきて、ふわりと溶ける白雪のような儚さじゃないか。ああ…、もしかしたら、明日の朝には儚くなっているかも---。まだ世の出るのを待っているミステリーは、私の頭の中にわんさとあるのに、あのひと言のせいでそれも夢と消えてしまうのだろうか。
 『パズルとロジックをこよなく愛するミステリー作家有栖川有栖、天上のミステリーと共にここに眠る』---うん、儚く亡くなった時の墓碑銘は、これにして貰おう。
 むかつくぐらいに快調なおんぼろベンツのエンジン音に混じって、旅立ちの歌が聞こえてくる。さらばー、地球よぉ---って、これは旅立ちの意味が違うか。
 浮かれ気分満載の助教授の姿を視界の中に入れないように、私は身体を丸めてドアの方へと身を寄せていた。少しでも気を抜くと、あの不穏なひと言が頭の中でコサックダンスを踊り出す。
 二度と思い出したくないひと言を記憶の引き出しのブラックホールに放り込んでしまおうと、私は健気な努力を続けた。だが体調が万全でない時に浮かんでくる思考は、的を射ているようで、その実常識からは宇宙の果てぐらいかけ離れている。おまけに、暗い---。もっともここで笑えるような思考が浮かんできたら、ますます虚しくなるだけだ。それに、自分の人間性さえ信じられなくなる。
 ---それにしても…。
 私は窓に向かって、ハァ〜と溜め息を吐きだした。私がここまでダメージを受けたっていうのに、何で火村の教え子の女子大生達は平気であの魔の言葉を口にできるんだろう。その神経の逞しさと頑強さには、唯々感服するばかりだ。それとも、上についてる助教授が桁外れた神経の持ち主だから、それが教え子にも伝染してしまってるのかもしれない。
 ---アンドロメダ病原体やなくて、火村病原体やな。
 冗談じゃない。そんなもんが蔓延したら、日本の未来はどうなるってんだ。---と、思わず正義感に燃えて心の中で拳を握りしめた時、滑るような緩やかさで車が動きを止めた。ハタと気付くと、窓の外に広がっていた夕暮れの風景が、暗い地下駐車場へと姿を変えている。一体いつの間に、と思っている隙もなく、火村がエンジンを止めた。
「買い物行ってくるが、お前はどうする?」
 不意に聞こえたバリトンに、私はヒラヒラと片手を振った。とてもじゃないが、食料品なんぞ見る気もおきない。
「判った。だったら、暫くおとなしくしてろよ」
 カチャリと扉の開く音がして、車内の空気がふわりと揺れた。ほんの一瞬だけ流れ込んできた空気は、どこかひんやりとした冷たさを頬に伝えてきた。
 シートを倒し、長々と身体を伸ばす。目を閉じると、目蓋の前に薄ぼんやりとした闇が広がる。ちょうど夕方の買い物時間にマッチングしたのか、車の出入りする音が時折鼓膜を震わせた。だがそれも、何だか別の世界から聞こえてくるような感じで、どこか頼りない。
 空気の動く気配と、馴染んだ煙草の香り。そしてすぐ傍らから届いた音に、私はピクリと身動いだ。
「おっ、悪い。起こしたか」
 ぽやんと目蓋を開けると同時に、バリトンの声が耳に飛び込んできた。その声に引かれるように、頭を巡らす。視界のすぐ先では、一体何日分の食料だ、と言いたくなるぐらい丸々と膨らんだスーパーのシャリシャリ袋を二つ、火村が後部座席に放り込んでいるとこだった。
 そうと自覚はないが、どうやら火村を待っている内に眠り込んでしまったらしい。そのおかげなのか、つい先刻まで私を悩ませていた胃袋の自己主張も少しだけ穏やかになった気がする。
 「よいしょ」と身体とシートを起こし、私は後部座席へと視線を走らせた。我が物顔で場所を占領しているスーパーの袋は、その丸さ加減から横倒しの雪だるまに見えないこともない。
「一体何人分の食事作る気やねん」
 呆れたように溜め息を零すと、火村が口許に小さく笑みを刻んだ。
「まっ、いいじゃねぇか。帰ってからのお楽しみにしろよ」
「はぁ〜?」
 訳が判らない火村の台詞に、首を傾げる。それを横目に眺め、早速キャメルを口にくわえた火村がギアを入れた。普段のおんぼろさ状態からは想像もできないぐらいスムーズに走り出したベンツは、ご機嫌麗しく北白川の下宿へと向かっていった。

◇◇◇

「何だよ、その苦虫を噛みつぶしたような顔は---」
 ニヤニヤ笑いの言葉を吐く助教授を、私はじろりと睨め付けた。目の前には、ずらりと並んだ食事の数々。火村の部屋にある食器だから大した物ではないが、器の中身の方は十分大したものだった。
 海老のしんじょうとワラビとヨモギ麩のお吸い物、さくら鯛の刺身、サワラの西京焼き、ふきのとうの田楽。極めつけは、見た目も鮮やかな桜寿司。そのどれもこれもが私の好物ばかりで、しかもイヤになるぐらい手の込んだメニューばかりだ。
 いつもの私なら諸手を上げて歓迎するところなのだが、今日はちょっと---。というのも、未だにあの魔のひと言が尾を引いていて、どうにも食欲が今ひとつ湧いてこない。しかもニヤニヤ笑いの火村の顔を目の前にすると、胸のむかつき具合も倍増する。
 ---よりによって、こんな時ばっか張り切りやがって。
 この野郎…と思っても、相手が火村じゃ今更だ。この目の前のご馳走は、火村にとってもそれなりのダメージを与えた、あのひと言に対する仕返しなのだ。口惜しいが、私にとっては一番有効的な手段で仕返しを謀るところが、さすが火村というか---。あざとい。
 お吸い物を軽く啜り、さくら鯛の刺身に手を伸ばす。ポソリポソリと噛み締めながら飲み込む半透明の身は、何だかゴムを噛んでいるようで、味がしない。お吸い物も、単なる無味無臭の温いお湯だ。
 ---せっかくの旬物やのに…。
 残すのは勿体ないので、無理矢理にでも喉に流し込む。が、その行為自体が何だか虚しいような気がして、箸の進みも段々と遅くなってくる。
 目の前では熱が冷めた物や温かくないメニューに、火村が美味そうに舌鼓をうっている。チラリチラリと眺めるその様子に腹立ちが募り、火村の仕返しに屈しないためにも、頑張って目の前のメニューを平らげなければならない。---と、意気込みと負けず嫌いだけは身体の中で渦巻くのだが、如何せん食欲はなかなか私の意気込みに従ってはくれない。
 チマチマと箸を動かす私に視線を合わせ、火村はニヤリと口角を上げた。
「何だよ、アリス。お前の好きなもんばっか作ってやったのに、箸が進んでねぇじゃないか」
 モゴモゴと口を動かしながら、私は上目遣いに卓袱台の向こうの男を睨みつけた。火村の言葉通り、私の前の皿と火村の前の皿の減り具合には、たいそうな差がついている。
「しっかり食べて体力つけてくれないと、俺が愉しくないだろうが---」
「はっ?」
 言葉の意味が判らないというように、私はきょとんと首を傾げた。口元に運んでいた汁碗を持ったままの姿勢で、男前の顔を凝視する。
「夜は長いぜ、アリス」
 端正な口許に刻まれた、質の悪い不貞不貞しいともいえる笑み。微かにからかいめいた色合いも垣間見える笑みには、魅力的という言葉が相応しかった。火村のファンと名乗る女子学生達が見たら、あっと言う間に逆上せてしまいそうな笑みも、私にとっては悪魔の微笑みに他ならない。
 ---夜が長いって…。
 口に含んでいた吸い物を、ごくりと喉を鳴らして飲み込んだ。
 ---もう二度と火村を名前で呼ぶのは止めよう。
 お吸い物と一緒に飲み込んだ反省と後悔は、火村が口にした『長い夜』のおかげで、決定的なものとなった。


End/2001.10.09




NovelsContents