Vanilla essenceはお好き!?
  -Side Alice- <6>

鳴海璃生 




「よっ、おかえり火村」
「あっ、火村先生。おじゃましてます」
 頭を下げる加藤美也子に、火村はニコリともしない。低いバリトンの声で短く返事を返し、不審そうな眼差しで私の前に座る女子学生の姿を見つめている。不機嫌な様子も露わな、不躾な視線に、加藤美也子が怯んだように息を飲む。それを見つめ、私は慌てて火村に声を掛けた。
「あっ、火村。彼女な、加藤さんていうんやて。何でもお前に質問があるらしいで。そんで、一緒にお前のこと待っとったんや」
 私の言葉に、火村は改めて加藤美也子に視線を注ぐ。が、その眼差しは先刻同様、不機嫌という言葉を絵に描いたようにあからさまなものだった。
「おい…」
 声を掛けようとした私の言葉を遮るように、不意に加藤美也子から視線を外した火村が、彼女の手元を睨め付けた。大股に私達の座るテーブルへと歩み寄り、小さく鼻を鳴らす。
「おい。それより、それは俺の記憶が正しければ、俺に持ってきたはずだったよな」
 右手をスラックスのポケットに突っ込んだ火村は、横柄に顎をしゃくった。一体なんのことか…と視線を落とした私は、目の前の黄色い塊に納得したように頷いた。
「ああ、これのことか。何や、君も食べたかったんか、プリン。美味しいもんな、ここのは。せやけど、これは女の子の方が似合うやんか。その方がプリンも本望やて、君も思うやろ?」
「プリンの望みまでは俺には判らねぇが、これは俺への礼だったはずだよな」
 そう言った途端、火村は私の前のプリンを取り上げた。止める隙も無い手の早さに唖然としている私の目の前で、火村はこれみよがしとばかりに、ひと匙掬ったプリンを口の中へと放り込む。
「ああーっ! 俺のプリン〜」
 情けない声を上げた私を一瞥し、火村は向かい側に座る加藤美也子へと視線を移した。
「で、何の質問だって」
 不機嫌をそのまま表したように、火村がぞんざいに加藤美也子の方へと向き直る。彼女は気まずそうに頬を染め、視線を彷徨わせた。だが睨め付けるような火村の視線に耐えきれず、思いあまったようにカタンと椅子の鳴る軽い音を響かせて立ち上がった。
「すみません。またの機会にします」
 小さく頭を下げ、居たたまれないようにそそくさとドアから出ていく。その華奢な背を、私は視線で追いかけた。
「あっ、加藤さん…」
「放っておけ」
 呼び止めようとした私を、火村のバリトンが止める。視線の先でバタンとドアが閉まり、私は睨みつけるように火村へと視線を移した。
「おい、あの態度は何や! 君は、いつも学生にああいう態度をとってるんか」
 怒る私に、火村は溜め息をついた。
「あのな、アリス」
 まるで聞き分けのない子供を宥めるような口調に、私は眉を寄せた。
「本当に質問したい学生は、ちゃんと俺の予定を訊いてから来るんだよ。それも、講義が終わってからすぐに。今ごろ突然訪ねてくる学生は、単位を落として慌ててるか、こっちの様子を見に来るかのどっちかなんだよ。俺は不勉強で落とした単位をやることはしないし、プライバシーを覗き見されるなんてのは真っ平だ」
 火村の言葉に、私は唇を噛んだ。確かに火村の言うことはしごく尤もで、一点の曇りもないほどに真っ当な言い分に違いない。だがそうと判ってはいても、素直に納得できない何かが私の中に渦巻いていた。
「せやけど…、女の子相手にあんな態度とるやなんて…」
 しつこく言い募る私に、火村はやれやれとばかりに頭を振った。ついで、口許にニヤリと質の悪い笑みを刻む。
「これからどういうことになるかを、あの学生にみせつけてやっても、俺は一向に構わないんだぜ」
 愉しげに告げられたとんでもない台詞に、慌てて視線を上げる。いつの間に近づいたのか、目の前に男前の顔が迫っていた。
「そ、そうやなッ。君がそう言うんやったら、その通りなんやろう。ごめんなッ」
 私は焦って身体を引いた。が、それよりも早く、火村の手が私の腕を引く。抱きしめられるように胸の中に引き込まれ、私は身を捩った。ひぇ〜、不味いなんてもんじゃないくらいに不味い状況なんじゃないか、これ---。
「アリス、プリン食べたいんだろう。安心しろ、俺がちゃんと喰わせてやるよ」
 ニヤニヤと品無く笑う顔を目の前にして、私は慌てて頭をぶんぶんと音のでそうな勢いで振った。余りに力任せに振ったので、頭の中が何となくクラクラする。
「いいっ。それは君に買ってきたもんやし、君が味わってくれれば、俺は本望や」
 うんうんと頷きながら、何とか火村の腕の中から抜け出そうと試みる。だが多少の抵抗では、火村の馬鹿力は緩むことがなかった。鋼のような腕に抱き込まれ、覗き込むように眼差しを合わせられる。
「遠慮しなくてもいいんだぜ。こうすれば俺もお前も味わえるんだから」
 言った途端、火村は私の顎を捕らえ、上を向かせた。左手で私を抱きしめたまま火村は器用に片手でプリンを掬い、見せつけるように態とゆっくりと、それを口に含んでみせた。呆然とその仕種を見守っていた私の方へ男前の顔がそっと近づき、冷たい口唇が私のそれに触れる。
「…んっ」
 反射的に目を閉じた私の方へ、ゆっくりとバニラの香りが押しやられる。口腔に広がる甘い香りに、私は眉を寄せた。口の中の柔らかな塊を、ごくりと飲み込む。同時に、私を拘束していた鋼のような腕が唐突にその力を緩めた。
 ゆっくりと双眸を開けると、目の前にはニヤニヤと口許に笑みを刻んだ男前の顔。慌てて口許を拭い表情を強ばらせた私は、じろりとその顔を睨んだ。
「何だ、アリス。プリン、不味かったのか」
 何をぬけぬけとぬかしとるんや、このド変態。せっかくの《さふらん》のプリンだってのに…。あーっ、もう腹がたつ。
「何て勿体ないことするんや。俺は、もっとじっくりとこれを味わいたいんや!」
 誰がこんな妙な食べ方したいっちゅうねん。冗談やないで、ほんま。---ムカムカと腹のたちままに怒鳴った私を愉しそうに見つめ、火村はニヤニヤといやらしい笑みをはく。
「ふーん…。もっとじっくりと、ね」
 ゲゲッ、不味い。これ以上自分勝手な解釈をされてはたまらない。それでなくても変態助教授は、私の揚げ足を取ることに関しては、天才的ともいえる技を発揮するのだ。
「あっ、違うで。そういう意味やない…」
慌てて否定するが、時既に遅し…だったかも。既にすっかりその気の変態---いや、違った---助教授は、私の言葉に耳を貸す気などまるで無いらしい。
「遠慮するなよ、アリス。お前の好きなプリンの香り、俺がじっくりと味合わせてやるから」
 私の言いたいことは嫌ってぐらい判っているくせに、火村は敢えて間違った解釈を言ってのけた。ああ…、この変態。己の欲望を満たすためには、本当に手段を選ばん奴だ。
 唖然と呆れかえっていた私は、そのほんの一瞬の隙で火村に抱き込まれる羽目に陥った。あれれ、と思ったその時には、既に火村の腕の中で、おまけに抵抗の間もなく口付けられる。
「…んんっ」
 両手に力を込め精一杯火村を押し返そうと試みたのだが、私の抵抗は一向に功を奏さない。頭を抱え込まれ、呼吸を奪われる。徐々に深くなっていく口付けに、思考がゆっくりと霞み始める。そうして、私の四肢からはぐったりと力が抜けてしまった。
 まるでその瞬間を見計らったかのように、火村は腕を解いた。だがすっかり力の抜けてしまった私は、緩んだ火村の腕から抜け出すことができない。くったりと身を預ける私を緩く抱きしめ、火村は笑いながら耳元で囁いた。
「これで終わりだと思うなよ、アリス。今日は、たっぷりとお前からのTお礼Uを貰ってやるからな」
「オニ、悪魔、変態ッ!」
 上目遣いに睨みつけ、精一杯の悪態を放つ。抱きしめられたままの恰好では迫力に欠けることこのうえないが、そんなことに構ってはいられない。とにかく何か言わないことには、私の気が治まらないんだ。だがそんな精一杯の私の抵抗も、火村には何ほどのこともないらしい。私の様子を見つめ、火村は不適に微笑んだ。
「…アリス。そんなに俺に構ってほしいなら、素直にそう言え」
「なっ…、何でそういう解釈になるんや」
 一体どこをどうすれば、そういう事になるんだ。余りな台詞に、私は唖然と男前の顔を凝視した。できることなら、一度火村の思考回路を覗いてみたい気がする。
 一気に頭に血が上ったような感覚に、私は頭を左右に緩く振った。照れとかそういうんじゃなく、頬が妙に熱い気がするのは、きっと怒りのせいだ。
 何とか火村をやり込める言葉はないものだろうか、と頭を捻っていた私は、とある台詞を思い出した。火村の真似をして不適に微笑み、私はゆっくりと火村の腕の中から抜け出した。
 私の様子が変わったことに、どうやら火村も気付いたらしい。だがどうせ碌でもない事だろう…と高を括っているのか、斜に構えた様子はそのまま変わることがない。
「恰好つけてるな、火村。毎日可愛い女子大生に囲まれてるんやもんな。格好いいとこを色々見せてるんやろ」
 ニヤニヤしながら、私は火村の胸をうりうりと肘で突いてやった。私の切り替えの早さに、火村が僅かに目を瞠る。だが、私が何を言いたいのかは見当がつなかいらしい。相変わらずの無表情で、話の先を促す。
 ---そんな顔してられるのも、今のうちや。
 心の中で舌を出し、私は待ってましたとばかりに目を輝かせた。
「さっき君を待ってる間に、加藤さんから聞いたんやけどな、君、随分もててるらしいで。俺が君の大学時代からの友人や言うたら、熱心に君のこと訊いてきたもん。君の噂話も一通りしていったで」
 ポケットから取りだしたキャメルを口にくわえ、火村は火をつけた。味わうように大きく息を吸い込み、天井に向かって紫煙を吐く。殊更興味が無いような素振りは、火村の思惑とは逆に、私の悪戯心に火を灯す。
「ふん、どうせ碌なことは無かっただろう。お前もあんまり学生に変なこと吹きこむなよ」
「あーっ、信用してないな。大丈夫や。君が変態やなんて、ひと言も言うてへんから」
「お前なぁ…」
 呆れたように火村が溜め息を吐いた。
 ---まだまだやで、火村。こんなことは、まだ序の口なんやからな。本番はこれからや。
 その瞬間を想像し、私は心の中でニヤリと笑みを作った。勝利は目前に迫っているのだ。
「まぁ、聞けって。君、特に女子学生の間じゃ随分な人気らしいんや。確かに学生時代からようもててたけどな。---でな、さっきの彼女は、君に面と向かっては言わなかったけど、君、女子学生の間じゃ名前で呼ばれてるんやて。俺も、これからそう呼んでみようかな」
 一気にそこまで喋って、私は火村の耳元に口を寄せた。
「ひ・で・お」
 そっと囁いた途端、ゾクリと背中に悪寒が走った。身体中を走るこのむずむずとした不快感を、一体なんと言い表せばいいのか。まるで身体中の神経が逆立つような、不気味な感覚。生理的嫌悪感というのは、こういうことを言い表すのだろうか。
 ゾクゾクと身体を震わせていると、苦い物が口の中にこみ上げてきた。両手で慌てて口元を押さえ、私は身を屈めた。風邪はすっかり治ったはずなのに、もしかしたらこの不気味な言葉のせいでぶり返したのかもしれない。
「おい、どうした」
 名を呼ばれたことに一瞬固まっていた火村が、私の様子に気付き、慌てて声を掛けてきた。突然鼓膜を震わせたバリトンの声に、私は力無く顔を上げた。が、火村の顔を見た途端、ついさっき自分が囁いた言葉が頭の中を過ぎり、すっと血の気が引いていく。ムカムカと胃袋を刺激する気持ち悪さは、ここに至って最高潮に達していた。
「…あかん、むちゃ気持ち悪い。これほど似合わんとは思わんかった」
 必死に声を絞り出す。その様子を見つめ、火村は呆れたように一つ溜め息を吐いた。どうやら私に名前を呼ばれた時の嫌悪感は、既に吹き飛んでしまっているらしい。私が未だにこれだけの嫌悪感とダメージを抱え込んでいるというのに、何ちゅう神経の図太い奴だ。
「間抜けもここまで来ると表彰もんだな、アリス。自分で言った言葉で自分が気分悪くなって、どうすんだよ」
 呆れたようにそう言いながら、火村がゆっくりと私の背を撫でる。吐き気に身を屈める私は、火村の言葉に反論することもできない。だいいち「どうすんだよ」と言われても、今更どうすることもできないじゃないか。一度口から出た言葉は、どう頑張ってみても取り消せやしない。
 だいたい私にしたって、単に火村の名前を呼ぶだけのことが、まさかここまで不気味な感覚を私に呼び起こすことになろうとは、夢にも思っていなかったのだ。我ながら、本当に莫迦な真似をしたものだ。---と思ってみても、今更あとの祭り。反省をするには遅すぎる。
 ---火村は火村や。もう二度とそれ以外でなんて呼ばへん。
 身を捩り襲い来る吐き気と嫌悪感に耐えながら、私はそう固く心に誓った。
 吐き気を堪える私の調子が戻るのを待って、私達は北白川の火村の下宿へと戻っていった。だが火村の部屋に落ち着いてからも、あの不気味な言葉は思い出したように私の頭の中に蘇ってくる。
 そのおかげで久し振りの火村の手料理を味わう余裕など、まるで無かった。私の好物ばかり---これは火村の仕返しの一つだと、私は睨んでいる---が卓袱台の上に並べられていたというのに、だ。
 そういう状態にも拘わらず、結局その夜は火村言うところのTお礼Uをたっぷりと支払わされた。それどころか、あの台詞の慰謝料なんぞという訳の判らない理由もつけられる羽目に陥ったのだ。
キャメルの香りのする蒲団の中で、痛む身体をそっと宥める。カーテンから漏れる朝陽に眉を顰めながら、今後何があろうと、絶対二度と火村のことを名前で呼ぶのは止めよう…と、私が再度固く心に誓ったのは、もちろん言うまでもないことだ。


End/2001.10.06
Side Himura




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