鳴海璃生
「うっわぁ〜!」
風呂から上がってホカホカの身体にニコニコしながら、冷えた缶ビールのプルタブを引き開けようとした至福の瞬間---。どさりと大きな音をたてて、私は火村の煎餅蒲団に倒れ込んだ。いや、引き倒された。心地よく喉を滑り落ちる予定の缶ビールが、ごろんと畳の上を転がっていく。
「痛いやないか! 何すんねんっ」
大声で怒鳴りつけた視線の先には、見慣れた男前の顔。ニヤニヤと気味が悪い程の機嫌の良さで、私を引き倒した男が見下ろしてくる。
「何って、ナニ…」
クックッと喉の奥で笑いながら、まるで鼻歌でも口ずさみそうな雰囲気に、私は僅かに目を瞠った。その間にも、勤勉な指先は軽いリズムで、パジャマのボタンを一つ二つとはずしていく。風呂上がりのホコホコと湯気を立てそうな膚を、ひやりと冷たい指先が掠める。
---まずいッ!
そういえばこの野郎、とんでもない事を口走っていたっけ。お礼がどうのとか、長い夜がなんたらとか---。聞いた時は本気半分、でもいいかげん適当に聞き流していた---その時の私は、それどころじゃなかったのだ---のだが、どうやら有言実行を常とする犯罪学者は、100パーセントの本気であのとてつもない台詞を現実のものにする気らしい。
くっそー、冗談じゃない。あの魔のひと言は、火村よりも私の方に大きなダメージを与えたってのに、何でこのうえ火村にまでダメージを追加されなくちゃいけないんだ。
「やめんか、アホ!」
器用にボタンをはずしていく指先を止めようと、私は火村の身体の下でジタバタと動かせる部分---足とか手とか頭とか---を、思い切り振り回した。突然の抵抗に躊躇したのか、一瞬だけ火村の指先が動きを止めた。
---よっしゃ。これで何とか…。
火村の魔の手から逃げ出せる、と安堵の息を吐く。もちろん私の上にのしかかった火村を振り落とそうと、ジタバタと暴れながら、だ。そんな私の様子に、火村はスッと双眸を眇めた。そして、ニヤリと口許に質の悪い笑みを刻む。
「冗談言うなよ。お前には、たっぷりとTお礼Uを払わなくちゃいけないんだ。ああ…それにアリスからは、あのひと言のせいで気分が悪くなった分の、慰謝料ってやつも払って貰わなくちゃいけねぇんだったな」
そう言った途端、火村はボタンに掛けていた指を強く引いた。プツンと、糸の切れたような音が部屋に響く。宙を舞ったブルーのボタンは、遊園地のコーヒーカップのようにクルクルと回りながら畳の上を滑っていった。
「あっ、何するんや。この乱暴者。ボタン取れたやないか」
「うっせぇな。ボタンぐらい、あとで付けてやるよ」
パジャマの上着をはだけさせた器用な右手が、滑るように膚を辿った。そして行き着いた先で、下着と一緒にパジャマのズボンを引き下ろした。露わになった素肌に、少し冷たい部屋の空気がひんやりとまとわりつく。
「ちょ、待……いっ…!」
突然下肢の中心を強い力でギュッと握り込まれ、思わず悲鳴のような高い声を上げる。瞬後、私は慌てて口唇を噛んだ。
時間は、既に日付を超える頃---。夜の早い婆ちゃんは、とっくの昔に眠りについているはずだ。だがだからといって、躊躇無く声を上げられる環境じゃない。何せ古い日本家屋のこの家では、二階の音が結構一階にまで響いてしまうのだ。それに窓ガラスだって、防音効果の高いサッシというわけじゃない。おまけに夜は、昼間の何倍も音の伝達を容易にしてしまう時間だ。
学生時代、この下宿にまだ火村以外の学生がいた頃から、「ここに女は連れ込めないよな…」というのが、下宿生達の間での暗黙の了解ごとだった。それはもちろん風紀云々の問題ではなく、女とよろしくやってる間の声や音が、隣りの部屋やその他に漏れ響いてしまうという、切実かつ現実的な問題に由来している。よほどの露出狂か変態、さもなくばそれさえも気にならない剛胆な神経の持ち主でもない限り、そんな状況下で女を抱きたい…などと思う奴はいないだろう。
にも拘わらず、平気でこの下宿に相手を連れ込んで、セックスに励んでいた奴、約一名。それはもちろん変態性欲の権威、今私の上で不適に笑っている犯罪学者だ。その場合、連れ込んでいたのは女じゃなく、私だったのだが---。
火村と抱き合うのは、私だって嫌いじゃない。火村と抱き合うことは単なるセックスの快楽だけではなく、誰よりも彼の近くにいるという不可思議な満足感をも私に与えてくれるのだ。もし私が彼の全てを手に入れ、私を惹きつけてやまない彼の謎でさえも理解する瞬間があるとしたら、それは彼と抱き合っている、まさにその時なのかもしれない。
だが例えそうであったとしても、私はこの部屋で火村に抱かれることは昔から余り好きじゃなかった。声が周りに漏れないように気にしながら抱かれるなんて、最低最悪だ。しかもそういう時に限って、火村はしつように私に声を上げさせようとするのだ。
抱いている相手が声を上げないことが、如何につまらないか。それは、私だとて経験から想像がつく。だがしかし、抱かれている立場からすれば、冗談じゃないこと甚だしい。
今日も今日とて、極悪な火村先生は一切の手加減ナシだ。しかもいつもみたいに焦らす素振りもなく、私の弱い箇所ばかりを重点的に攻めてくるから始末が悪い。ガキみたいにすぐに夢中になることも、快楽に溺れてしまう年齢でもない。だがそれでも、私自身よりも私に詳しい火村の愛撫は、嫌になるぐらい的確で容赦がない。追い上げ、追いつめ、私を快楽の淵へと誘い込む。
「…ん‥っ…」
口唇を噛んでも、掌で口許を押さえても、漏れ出る声を押さえきることはできない。
むかつく、口惜しい、腹が立つ。
細く眇めた眸で目の前の男を睨みつけてみても、口唇を掌で押さえたような恰好じゃ逆効果だ。迫力なんて欠片もありゃしない。それどころか、火に油を注ぐ行為に他ならない。そうと判ってはいても、火村の思惑通りに好き勝手されるのは我慢がならなかった。こんなシーンでも、私の負けず嫌いはとっても元気なのだ。悪循環も甚だしいが、長年培ってきた性格を今さら変えることはできない。
「往生際が悪いぜ、アリス。とっとと白旗上げろよ」
バリトンの声が、耳元で低く囁く。ついで火村は、耳の後ろを強く吸い上げた。
「あっ…っ」
口唇を押さえた指の隙間から、淡く色づいたような声が漏れ落ちる。ぞくり…、と躯の奥底が疼く。
---くっそぉ。
右耳の後ろ、髪の生え際は私の弱点の一つだ。床屋のドライヤーはもちろん、後ろに人が立っているのさえ苦手なのだ。むず痒いような、ざわざわと躯の内側が沸き立つような、上手く言葉にできないそれが快感なのだと私に教えたのは、目の前の男だ。
少しずつ熱を持ち始めた下肢を、雄弁な火村の指先が緩い動きで上下する。快楽が雫となって、躯の奥からとろりと零れ落ちる。
---このままじゃ、火村の思うつぼや。
何とか火村の手を止めたいのだが、私の忍耐と抵抗もそろそろやばくなってきた。だがそれと認めて快楽に堕ちるには、まだ私の負けん気が勝っている。
「ア‥ホ…。ええ加減にせぇ…」
途切れ途切れに、文句を口にする。少しでも気を抜くと、文句が快楽にすり替わりそうで、私は浅く息をついた。
一点へと集まっていく血の流れを辿るように、火村の薄い口唇が項を下りていく。鎖骨の窪みを嘗め、頭を擡げ始めた乳首を緩く噛む。少しずつ少しずつ、所有と快楽の痕を残しながら火村の口唇は血液の集まる方向へと下りていった。その行き着く先、目的地は---。
---これでくわえられたら、もうあかん。
我慢して我慢して耐えていても、いい加減もう限界なのだ。快楽に流され、火村の手の内に堕ちる瞬間が、目の前近くに迫ってきている。
「このドアホ!」
最後の抵抗とばかりに、私は大きく足を振り上げた。私の下肢に張り付いている火村を、ナイスヒットでけっ飛ばせるとは思ってなかった。ただ少しでも火村の手を止められれば、その隙に抜け出せるかも…、と安易に考えたのだが---。
「おっと…。行儀の悪い足だな」
蹴り上げた足首を、火村がひょいと何の造作もなく掴む。両足首を掴まれ、私はみっともなくも恥ずかしい恰好で、躯の全てを火村の目の前に晒すことになった。しかも、煌々と明るい光の下で、だ。
---冗談じゃないで、こん畜生。
ニヤニヤ笑いの火村の面にこのうえもなくむかつくが、捕らわれの身にも等しい私に為す術はない。
「何だかんだと言う割りに、やる気じゃねぇか。アリス…」
愉しげな笑いを含んだバリトンに、私はウロウロと宙を彷徨わせていた眸を声の主へと合わせた。てっきり私の方を見ていると思っていた火村は---。
「こ…このドアホ! 君、どこに向かって話してんねん」
「どこって…。そりゃ、アリスに向かってだろ。なっ…」
チュッと、火村は熱を持った私自身の先端に口づけた。火村が宣言した長い夜は、まだ始まったばかりだ。End/2001.10.12
明るくおポップなHを目指してみましたが、みごとに玉砕しました。ダメだ、やっぱりHなんて書けない。 ---と言いつつ、プッツンしていたため、もう一つ裏があります。こっちとはちょっと毛色が違いますが、一応エロ---のつもり---です(笑) でもダメなのは一緒なので、精進して出直します。チャンスがあったら…。 |
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