V.D.S.P. -Happiness in my hands- <1>

鳴海璃生 




 遠くから電話のコール音が聞こえてくる。
 最初は遠慮がちに…。が、それはやがて己の存在を主張するように徐々に音量を上げ始め、今や耳元でがなりたてるように鳴り響き、頭蓋骨の中を反響しまくっている。
 微睡んでいた意識が、一気に現実へと引き戻される。いや、眠っていた頭が働きだしたから、コール音が大きくなってきたのか。
 ---そんなことはどうでもいい。今の私にとっては、そんなこと、卵が先が鶏が先かに等しい問題だ。そう…、今の私にとっての大問題。地球の存亡を掛けたと同じくらいに大きな問題なのは、一体いつあの音が止まるかということだ。眠りの淵を彷徨っていた時から数えると、ゆうに15回は越える程に鳴り響く音。全くもって神経に障ること、このうえない。
「ええ加減にせぇ! 煩いっ」
 ぼそりと呟き、俯せに寝返りをうちながら、私は枕を頭の上に乗せた。ほんの心持ちコール音が小さくなったような気がして---あくまで気がするだけ、だ---、ほっと息をついた。
 枕を通して聞こえてくるくぐもった音を、改めて数え始める。
 ---1回、2回、3回…。
 いちおう私の家の電話には、留守電という有り難くもちょっとばかりむかつく機能がついている。それを考えあわせれば、いい加減どころかとっくの昔にこの音は止まっていていいはずなのだ。
 ---まさか、壊れた…なんてことないよな。
 電話機に対する私の扱いがとってもご丁寧様とは言い難いが、壊れるほど乱暴にも扱っていないつもりだ。減価償却じゃないけれど、できればあと2〜3年は元気に働いて貰いたい。
 ---ほんまに何で止まら……。
「あーっ、しまったッ!」
 言葉の勢いに押されたように、私は身体を起こした。イライラしながら癪に障るコール音を21回まで数えたところで、唐突に思い出したのだ。脳味噌の引き出しの片隅にあった事実。それは昨日の夜。留守番電話を再生した私は、それを再度留守電にセットすることをすっかり忘れていたのだ。
「アホやなぁ、俺…」
 枕を胸に抱いて、ゴロリと仰向けに転がる。電話のコール音は、凝りもせずに鳴り響いている。
「ここまで鳴らして出らんかったら、普通は留守やと思うんやないか」
 半ば賛嘆の思いを込めて---半分以上は呆れて---横目に電話機の子機を見つめてみても、一向に音が止まる気配は感じられない。
 ここまでしつこくコール音を鳴らし続ける相手に問題があるのか、それとも出ない私の方に問題があるのか…。---判然と結論はつけがたいところだが、ここまでしつこく電話をかけ続ける相手というのは、59億人いる世界人口の中でもたった一人だけに違いない。それがイヤというほど判っているだけに、よけい電話に出る気も失せる。
「このまんまほっぽっとっても、絶対止まるわけはあらへんしなぁ…。ほんま、しつこすぎやで」
 なんせ電話の向こうの相手は、私自身より私のスケジュールに精通している。きっと私が家にいることなど、お見通しなんだろう。
「あ〜あ、仕方あらへん」
 大欠伸を一つしてだるい身体を伸ばし、私はうっそりとコードレスの子機へと手を伸ばした。
「は---」
『何やってんだ、さっさと出ろよ』
 応える前に、バリトンの声が怒鳴りつけてくる。---59億分の1の大当たり。長年の我が親友、火村英生助教授殿は、今日もとっても元気らしい。今の私から見れば、羨ましい限りだ。知らず知らずのうちに溜め息が漏れる。それにしても---。
 ---ったく。もし間違い電話かなんかで出たのが俺やなかったら、どうするつもりなんや。
 もっともあれだけしつこくコール音を鳴らし続けた時点で、退場ものの礼儀知らずには違いない。間違い電話程度で怯むような殊勝な神経は持ち合わせてないか。
「どちら様でしょうか?」
 態とらしく悠長に返事を返す。礼儀どころか口の悪さも天井知らずの先生は、人を小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
『なにすっ惚けたこと言ってやがる。お忙しい小説家の先生は、まぁだお昼寝から覚めてないのか?』
 めっちゃ嫌味だ。締め切りと締め切りの狭間で私が閑なのはよぉく判っているくせに、普通言うか、そんなこと。---ベッドの上で胡座をかいて、私は見えない電話の向こうの相手を睨みつけた。
「別に昼寝してたわけやあらへん」
 受話器の向こうから、喉の奥で笑ったようなくぐもった声が聞こえてきた。
 ---ほんま、腹たつ。
 そりゃ確かに眠っていたことは眠っていたのだが、私だとて好きで寝ていたわけじゃない。《服用後、車の運転はおひかえ下さい》との注意書きを、物の見事に臨床体験してしまっていただけだ。
 何せふだん病気といえば風邪ぐらいにしか縁のない私は、余り薬というもののお世話になったことがない。まぁ健康的で結構なことといえば、これ以上ないってなぐらいに有り難いことなんだが、如何せんその副作用ってものもしっかりあったりする。
 つまり偶に何かの理由で薬を飲むと、効きすぎるぐらいに薬が効いてしまうのだ。素直な私の性格が身体にもよぉく現れているってわけで、ひねくれ捲った助教授には到底理解できないに違いない。
 そして今日も今日とてちょっとしたことで薬を飲んだ私は、必死で抵抗したにも拘わらず、いつの間にか眠り込んでしまっていたらしい。---らしいというのは、そのへんの記憶が全くもって無いからなんだが…。とにかく自らの意志で眠ったわけでもないのに、それを昼寝なんぞと一緒にされるのは今ひとつ納得がいかない。
『そうだな。昼寝には遅い時間だ』
 だから、言ってる意味が違うだろうが。
『まっ、いいさ。今の内に眠っとけよ』
「---おい…」
 何が言いたいんや、と続けようとした言葉は、火村の声に掻き消された。
『警察からお呼びが掛かった』
 低いバリトンの声。---まるで世間話の一つとでもいうようにさり気なく呟かれた言葉に、私は身の引き締まる思いで眉を寄せた。
 「来るか」とも訊かない、いつも通りの誘いの言葉。きっと事件の内容も私好みに面白い---不謹慎だとは思うが、他に言いようがない---ものなのだろう。
 これがいつもの私なら、いや、せめて薬を飲む前の私なら、二つ返事で「行く」と応えるところだが、今の私はひと味違う。1時間ほど前に飲んだ薬のおかげで頭が別の世界へ行っちゃっていて、世間は全て霧の中ってな状態だ。だから火村の口から「事件だ」と聞いても、何故かいつものように好奇心という名の食指が動かない。
「フィールドワークかぁ…」
 惚けている---。自分でも今の己の惚け具合が良く判る。その私の惚けきった声に重なるように、大仰な火村の溜め息が耳朶に触れた。でも、仕方がない。私だって好きで惚けているわけじゃない。
『何だよ、そのやる気のない声は…?』
 それは誤解だ。やる気はあっても、頭がそれについていってないだけだ。
『まぁだ寝惚けてんのかよ、てめぇは』
 半分---いや、3分の1は当たりだ。さすが火村だ、と妙なところで感心する。---やっぱりこれが、惚けている証拠なんだろうか。
 もちろん私だとて、火村のフィールドワークにはついて行きたい。が、このままの状態でついていったら、足手まといになってしまうこと確実だ。いつも助手として十分に役立っているわけじゃないが、私のプライドにかけて足手まといにだけはなりたくない。
 いやそれよりも、それ以前の問題。果たして無事に現場に辿り着けるかどうかが、今の私はとっても怪しい。
 車---はとても運転できそうにないので、例えば現場の最寄り前まで電車で行くとする。心地よい電車の揺れに抵抗できる自信は、今の私にはない。いつの間にか眠りの国に足を踏みいれ、そのまんま眠りこけて、車掌に揺り起こされて辺りを見回したらどこぞの山奥だった---じゃ、お話にもならない。
 さすがの火村先生も、ここまで間抜けな助手を二度とフィールドワークに誘いたいとは思わないだろう。それは私にとっては、もの凄く大問題で…。
 ---やっぱ今日は止めた方が正解やな。
 あっちとこっちを計りに掛けて、私は丁重に辞退の言葉を申し述べることにする。薬で霞んだ頭で考えたにしては、なかなかに賢い結論だ。
『アリス』
 応えを誘うように、火村が私の名を呼ぶ。それに、私は努めて明るい声で返事を返した。
「せっかくのお誘いやけど、今日はパスや」
 受話器の向こうで、少しだけ空気が尖ったような気がした。
『具合でも悪いのか?』
 ドキリと心臓が喉元まで飛び上がり、その場で大きな鼓動を刻み始める。
 ---落ち着くんや。火村に判るわけあらへんのやから。
 落ち着け、落ち着けと心の中で何度も唱えながら、電話の向こうの火村に気づかれないように小さく息を飲み込んだ。そうして飛び上がった心臓を、何とか元の位置に戻す。でも鼓動だけは、相変わらず鼓膜の奥でドキドキと反響している。
「何やねん、急に」
 笑って応えたつもりなのに、顔の筋肉が引きつったようで上手くいかない。何となく声もひっくり返っているような気がする。目の前に火村がいなかったのは幸いだが、私と違って火村は妙に勘が鋭いから要注意の花丸印だ。
『締め切りってわけじゃねぇだろうが』
 それなのに私がフィールドワークの誘いを断るなんて、体調が悪い以外に考えられないとでも言いたいらしい。
 ---ほんま、よぉ人のスケジュールを知っている奴やで。
 さらりと火村の口をついて出た言葉に、私は頬をポリポリと掻いた。---私達は殆ど習慣のように違いのスケジュールを報せあっているが、ちょっとこれからは止めた方がいいかもしれない、と己の所行を顧みる。じゃないといざという時、相手に手の内の全てを知られてしまっているようで、めちゃくちゃ気まずいではないか。
『アリス』
 ぐずる子供を宥めるようなバリトンの声。う〜ん、困った。一体なんと言って言い訳しよう。---火村が口を挟めないぐらい完璧に納得するような理由。もちろん一番手っ取り早いのは締め切りだが、これは今日に限っては使えない。
 ---とすると…。
 人間いざとなると上手い嘘なんて、早々思いつかないものだ。それとも私の頭の働きが、今日はいつもより格段に鈍いということだろうか。
「別に締め切りってわけやあらへん。でも、俺にかて色々と都合ってもんがあるんや」
『昼寝のか?』
 だから、そこから離れろって。
「あんなぁ、人を日溜まりの猫か冬眠中の狸みたいに言うんやない」
『それ以外の何の予定が、お前にあるって言うんだよ』
 ほんっとーに失礼な奴だ。私にだって、眠る以外の予定が色々あるわい。
「そんなん何だっていいやろ。君には関係あらへん」
『フ‥ン…。判ったよ』
 突き放すような言葉のあと、乱暴に置かれた受話器の音が耳の奥で長く尾を引く。咄嗟にまずいっ、と思ったが、時既に遅し。後の祭り、だ。ここで火村の機嫌を損ねたのは今さらながらにまずかったが、知られるとそれよりももっとまずい事実が私にはある。
 ---船曳警部、樺田警部、柳井警部…。誰か判らんけど、すいません。
 あっちとこっちとそっちに向かって手を合わせる。今日の臨床犯罪学者様は頭は冴えているかもしれないが、取り扱いは冬眠明けの熊なみに要注意かもしれない。
 そして私の方は…といえば、これで幾ばくかの余裕を貰ったことになる。もし火村がここに来るとしても、早くて今日の夜。電話での様子からすると、2、3日後なんてこともありえる。我が身のためには、インターバルは長いにこしたことはない。
 ---機嫌斜めやったしなぁ…。
 その間に心の準備を終えて、傾向と対策をばっちり考えて、隠したいことは上手く隠したままで、何とか火村の機嫌をとる方法を模索しなければならない。私の斜めになった機嫌を元に戻すことにかけては火村は昔から天才的だが、私にとって火村の機嫌を直すことは早々容易なことではない。
「ねじ曲がり方が、俺とは違って半端やないからなぁ…」
 枕を胸に抱えたまま、ころんと横になる。白い天井を見つめ、一つ大きく息を吐いた。
 通話ボタンをオフにした途端ぼんやりと霞み始めた頭は、未だに眠ることを要求している。だが、ここで眠ってしまうわけにはいかない。何とか斜めになった火村の機嫌を元に戻す方法を見つけ出さないと、日本海溝---いやマリアナ海溝よりも深く後悔する羽目に陥ってしまうこと確実だ。
「食べ物…ってわけにはいかへんやろなぁ」
 はぁ…と大きな溜め息を吐き出し、私はゴロンと怠惰に寝返りをうった。ブラインドから差し込む光の縞模様が、ぼんやりとした頭の中でハレーションを起こした。


to be continued




NovelsContents