V.D.S.P. -Happiness in my hands- <2>

鳴海璃生 




 ブラインドの細い隙間から、時折谷町筋を行き交う車のライトが入り込んでくる。一瞬の輝きに、ベッドで眠る人の横顔が白く闇に浮き上がった。
「ったく、気持ち良さそうに眠りやがって」
 愛用の煙草を口の端にくわえて、火村は器用に言葉を綴った。何の憂いも無く、余りに幸せそうな寝顔に、瞬間殴ってやろうかという凶暴な気持ちが湧き、身体の横でゆっくりと握り拳を作る。が、その思いを紫煙と共に飲み込んで、火村はベッドサイドに置いてある灰皿で短くなったキャメルを乱暴に押しつぶした。
「おい、アリス」
 ペチペチと緩く頬を叩く。僅かに眉を寄せ、心地よい眠りをじゃまするものから逃れるように、アリスが寝返りをうった。が、目を覚ます気配は微塵も感じられない。
「…こいつだけは、全く」
 呆れたような、だがどこか優しさを含んだ声が暗い部屋に落ちていく。
「いい加減とっとと起きろよ」
 今度は幾分強めに、火村はアリスの頬を叩いた。頬に触れてくるものを煩わしげに払いのけ、アリスが顔を顰めるようにして目を擦る。
「ん〜、何やねん一体…」
 掠れたような不機嫌な声。何度か瞬きを繰り返し、ごしごしと目を擦って、私はゆるゆると瞳を開けた。視界の先にぼんやりと黒い影が飛び込んでくる。が、廊下のドアから差し込む光が逆光になって、佇む人の顔を伺い知ることはできない。
「ひ‥むら…?」
 見慣れすぎる程に見慣れたシルエット。顔など判らずとも、一体誰なのかはいやでも判ってしまう。
「人がチャイム鳴らしてんのに、寝こけやがって。お客様に失礼だろうが」
 新しいキャメルを口に運びながら、火村がじろりと視線を落とした。不機嫌な様子がありありと伺えるその口調に、私は敢えて気づかない振りを装った。
 昼間電話を切った後、何とか火村の機嫌をとろうと色々考えていたのだが、襲ってくる睡魔に負けて、どうやら私は眠り込んでしまっていたらしい。ご機嫌の悪い火村先生用の傾向と対策どころか、未だ心の準備さえできてない状態だが、今さら慌てても仕方がない。こうなったら、人間開き直ってしまった方が勝ちだ。
 ---それにしたって、早う来すぎやで。
 八つ当たりを心の中で呟いて、落ちてきた前髪を掻き上げながらゆっくりと身体を起こした。
「誰がお客様やねん。人んちの合い鍵持ってるような奴は、客とは言わへん」
 誤解のないように言っておくが、合い鍵は私が火村に渡したわけではない。そしてもちろん、火村に渡すために作ったわけでもない。
 数年前---ここに引っ越してきてちょうど1年ぐらい経った頃、部屋の鍵が無くなって大騒ぎをしたことがあった。数日後に行方不明の鍵は、リビングにあるソファのシートと背もたれの隙間から無事発見された。だがその頃まだサラリーマンをやっていた私は、1日の半分以上を留守にして過ごしていた。例え数日間といえども、鍵無しの生活などできようはずもない。
 そしてこういう場合、頼りになるのはたった一人しかいない。「合い鍵ができるまで部屋を空けられへん」と、私は無理矢理火村を留守番役に任命した。どうせ1日中部屋にいるのだから、ついでに掃除と食事の支度もやってくれと、厚い友情でもってお願いもした。
 その結果なのか何なのか、無事合い鍵が出来上がった後に五体満足で出てきた鍵は、有耶無耶の内に何故か火村のものになってしまった。---いや、火村のものという言い方は正しくない。あの時火村はニヤリと例の質の良くない嗤いでもって、「二つ共お前が持ってたんじゃ不安だから、1個預かってやるよ」と言ったんだった。
 でも火村の言う「預かる」という言葉と一般的に言う「貰う」という言葉は、私にはどうにも同義語に聞こえて仕方がない。多分、きっと、間違いなく、断言してもいいが、火村が預かっている私の部屋の鍵は、二度と私の手元には戻ってこないに違いない。事実あれから数年経った今も、私の鍵は火村のポケットにちゃっかりとしまい込まれている。
「いつ来たんや? ずいぶん早いやないか。もう事件は解決したんか?」
 欠伸を堪え身体を伸ばしながらの問いかけに、火村は喉の奥で小さく笑った。
「優秀な助手の先生が同行して下さらなかったせいで、事件はあっと言う間に早期解決だぜ」
「何やねん、それ…。日本語へんやで」
 僅かに眉を寄せ、返事を返す。確かに私は火村の建前上の助手として彼のフィールドワークに付いていってるだけで、てんで彼の役に立ってないとの自覚はある。---もっとも役に立つつもりも、私には毛頭ないのだが。
 だが、それとこれとは話が別だ。例え事実がそうであったとしても、面と向かってそれと匂わせられると無性に腹が立つ。
 もちろん火村が本心から言っているわけではないことは、良く判っている。判ってはいるが、今日の私はちょっとしたことにも引っ掛かってしまうのだ。とてもじゃないが、日頃の寛容さなど欠片も持ち合わせてはいない。
 ---でも、我慢や。
 普段なら聞き流すようなことにここでへんに拘ると、際限のない喧嘩に発展しそうだ。私は拳を握りしめて、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。私がフィールドワークに付いていかなかったので火村が拗ねているのだと、拾い集めた寛大さでもって茶を濁すことにする。
 それに、もし余計なことを口走って「それじゃあ、何で来なかったんだ」と突っ込まれたら、私としてはちょっと不味い羽目に陥ってしまう。とにかく、ここは穏便に…。口惜しいが、火村のご機嫌を伺うしかない。
「ところで、飯はもう喰ったのか?」
 唐突な質問に、私は反射的に頭を振った。前髪がバサバサと乾いた音をたて、額に当たる。
 突然火村にそう言われて、気が付いた。今の今まで頭の片隅にもなかったのだが、一体今は何時なんだろう。答を探すように、私はキョロキョロと辺りの様子を見回してみた。
 廊下から差し込む明かりに、ぼんやりと部屋の様子が浮かび上がる。細いブラインドの隙間からは、谷町筋を通り過ぎる車のライトだろうか、時折閃光のような光が瞬いている。
 今さらだが、ずっと眠っていたせいで時間の感覚がまるっきり無くなってることに気づく。取り敢えず夜なのは判るが、何時なのかがはっきりしない。
 ---そんなに眠ってたつもりもないんやけどなぁ…。
「おい、アリス」
 ぼんやりと辺りの様子を見回す私に焦れたのか、火村が再度応えを促す。低いバリトンの声に、私は傍らにいる人物に慌てて意識を戻した。
「あっ、悪い。まだ食べてへん」
 昼過ぎから寝こけていたのだ、食事など摂っているわけがない。そして空腹を思い出した途端、腹の中にある空っぽの胃の存在がありありと判って、何となく情けない気持ちになってきた。
 ---冬眠明けの熊とか狸も、こういう気分なんやろか?
 埒もないことが、頭に浮かぶ。---いやそんなことは、この際どうでもいいか。ここで熊や狸の気持ちを理解したとしても、どうなるものでもない。
「何が喰いたい?」
「えっ! もしかして作ってくれんの?」
 火村の言葉に、私は驚いたように声を上げた。我ながらに声のトーンが、数ホーンは上がったような気がする。
「何だよ。なに驚いてるんだよ」
 男前の顔を顰め、火村が憮然とした表情を作った。
 そりゃ驚くに決まっている。
 火村が自炊にまめなのは良くしっているし、今までにだって何度も美味しい食事を作って貰ったことがある。だがそれは火村が不機嫌でない時に限り、との注釈付きなのだ。先刻のあの電話での不機嫌な様子を思い返したら、とてもじゃないが食事など作って貰えると呑気に思うはずがないではないか。
「だって君、電話ではえらく不機嫌やったやないか」
「フン…。ガキじゃあるまいし、あの程度のことでいつまでも怒ってられるかよ」
 あ〜、そうかいそうかい。それをずっと気にしていた俺はアホかい。---大した労もつくさずに火村の機嫌が直ったことは喜ばしいが、これはこれで何となく面白くない。
「---で、何が喰いたいんだよ」
 このままいくと話がどこまでもずれていきそうな予感に、火村は軌道修正を試みた。私もそれに倣って、話を元に戻すことにする。
「喰いたいもん、ねぇ…」
 小さく呟きながら、私は眉を寄せた。食べたい物は、スラスラと淀みなく並べ立てられるぐらいに一杯ある。だが、それをそのまま口にするのは躊躇された。
 ---う〜ん、困った。食べれるもんて、何やろ?
 咄嗟に頭の中で、食べたい物一覧から食べれない物を消去していく。
「えっとぉ、湯豆腐…」
 遠慮がちに、それでも強気でニッコリと微笑んだ。火村が、さもイヤそうに眉を寄せた。
「おい、アリス…」
 低いバリトンの声。そんなに凄まなくても、言いたいことは良く判る。私だとて、火村が一も二もなく湯豆腐を作ってくれるなんて思ってもいない。---となると、次は…。
「…茶碗蒸し」
「おいッ」
 やっぱ、これもダメか。チラリと上目遣いに見た火村のこめかみに青筋が浮いている気がする。---いや、無視や無視。気づかん振りするに限る。そしたら、次の候補…。
「煮込みうどん」
 双眸を眇め、火村が口許を歪める。
「アリス…。てめぇ、俺に喧嘩うってんのか」
 滅相もない。そんな大胆なこと、私にできるわけがない。私だって、自分の身は大事なんだ。---険悪な眸でじろりと睨みつけてくる火村に、私は慌てて頭を左右に振った。
「だって、君が何食べたいって訊いたんやないか。やから俺、食べたいもんを言うただけやで」
「そうかよ。よぉく判った。じゃ、今日の夕食は…」
「夕食は?」
 湯豆腐、茶碗蒸し、煮込みうどん---。どれもこれも火村の苦手な物ばかりを私は連ねたのだが、一体火村は何を作ってくれるつもりなんだろう。期待半分、興味津々で私は火村の次の言葉を待った。
「おでんだな」
「はぁ?」
 思わず素っ頓狂な声を上げる。一体どこから出てきたんだ、そんなもの。---いや、もちろんおでんは好物の一つなんだが、それにしても…。
 唐突な、何の脈絡もない火村の応えに、私は相当な間抜け面を晒してしまったらしい。してやったりとばかりに、火村がニヤリと唇の端を上げた。
「何で急におでんやねん。それに、だいたいおでんと湯豆腐の一体どこに差がある言うんや?」
「大有りだぜ。おでんは湯豆腐みたいに熱くねぇだろうが」
 ---そうだろうか…。どうも今ひとつ火村の判断基準が良く判らない。それとも猫舌の人間にしか判らない微妙な違いが、両者の間にはあるのだろうか。アンチグルメを自称する火村が、そこまで繊細だとは私にはとても思えないのだが。
「何だよ?」
 上目遣いに胡散臭そうに見つめる私に、火村が少しだけ罰の悪そうな声を出した。
「まっ、ええわ。やけどな、君が自分で食べるもん決めてるんやったら、わざわざ俺に訊く必要あらへんやろ」
「フ‥ン。アリスには、俺の優しさが判らねぇのかよ」
 判りたくもない、そんなもの。思わせぶりに訊くだけ訊いてぜんぜん違う物を作るんだったら、それは優しさというより単なる嫌がらせっていうんじゃなかろうか。---やっぱこいつ、私がフィールドワークに付いていかなかったのを相当根に持っているに違いない。
 いつまで経っても子供みたいな奴だと、湧き上がってくる優越感についつい口許が緩んでしまう。ここはやっぱり、大人の余裕で私が折れてやるのが筋ってもんだ。
「何だよ、その面」
 仏頂面の火村先生が自分のことは棚に上げ捲って、人の顔に文句をたれる。だが寛大な気分の私は、余裕でもって許してやる。
「何でもあらへん。それより、今から作るんやろ? 俺も何か手伝うわ」
 よっと掛け声をかけて、私はベッドから飛び降りた。
「そりゃ随分と有り難い申し出だが、残念ながらもう出来上がってんだよな」
「…何やて?」
 耳に飛び込んできた言葉が信じられなくて、私は訝しむように聞き返した。
「食事の用意は出来てるって言ったんだよ。昼寝からお目覚めになった有栖川有栖先生は、すぐに腹の虫を慰めることができるってわけだ。持つべきものは、できた友人。有り難いご友人様に、感謝してもしきれまい?」
 からかうように鼻で笑う男前の顔を見つめていると、何となく頭痛がしてきたような気がした。---こめかみを押さえ、私は一つ力無い溜め息を漏らした。
「だから、そういう状態で、何で夕食のリクエストなんて訊いてくるんや。…ったくもう、冗談やないで」
 ついでにもう一つ言わせて貰えば、一体こいつはいつここに遣ってきたんだ。おでんが出来上がってるってことは、軽く見積もっても火村が来て1時間以上は経っていることになる。
 その事実に、私は呆れはてたように天井を見つめた。---勝手に私の部屋に入って、眠っている家主を起こしもせずに飯を作る。馬鹿馬鹿しくて今さら言うのも虚しいが、一体ここは誰の部屋なんだ。
「だから、さっきから言ってるだろう。俺の優しさだって」
 私の思いに構うことなくストレートに耳に飛び込んできた言葉に、私は家主よりも家主らしい火村へと視線を戻した。
 全くもう何言ってるんだか。嘘をつくな、嘘を。何が俺の優しさ、や。それが優しさだったら、世の中にごまんといる本当に優しい皆様方に申し訳がたたないじゃないか。
 肩にかかる空気の重圧が一気に10倍になった気がして、私は思わずその場にへたり込みそうになった。
「よぉ言うわ。何が優しさや。そんなんただの嫌がらせやないか」
「随分だよなぁ、アリス。胸が痛むぜ」
 勝ってに痛んでろ。火村なんかより、私の方がよっぽどかわいそうだ。こんな奴と10数年も友人でいる私は、何て人間ができた奴なんだろう。
「おい、アリス」
「何やねん」
 応える声にも力が入らない。
「うだうだやってないで、さっさと飯喰うぞ」
「へいへい…」
 先にたって歩き出した火村の背中に、私は小さく舌を出した。ご大層な理由をつけて色々と言ってはいるが、結局腹が空いているのは私よりも当のご本人の火村先生ってわけだ。
 明るい廊下の明かりの中に消える火村の背を追うように、私はのっそりとした足取りで寝室をあとにした。


to be continued




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