V.D.S.P. -Happiness in my hands- <おまけ>

鳴海璃生 




「おい、アリス」
 低い声と頬に触れた指先の冷たさに、私はうっすらと目を開けた。ぼんやりと霞んだような視界の先に見慣れた男前の顔を見出し、二度三度と目蓋を擦る。
「もう10時過ぎてるぞ。さっさと起きろ」
 そう言いながら火村が蒲団を引っ張るので、私はそれをはぎ取られないように身体を丸めて蒲団にしがみついた。
「もうちょっと眠らせてや」
 眠いし身体のあちこちはだるいしで、とても起きあがる気力はない。一体どこのどなた様のせいだ、と原因を突き詰めるのも虚しいが、絶対間違いなく、やたらと機嫌のいい犯罪学者が100%関係していることは言わずもがなだ。
 ころんと身体を丸め蒲団の中にもぞもぞと潜り込むと、ぱしりと幾分強めに蒲団の上から背中の辺りを叩かれた。
「煩せぇ、文句言うな。とっとと起きねぇと、歯医者の予約に間に合わないだろうが」
「あっ?」
 火村の口から漏れた不穏な言葉に、私は蒲団の中で身体を反転させて顔の半分ほどを覗かせた。口許にキャメルをくわえた犯罪学者はニヤリと唇の端を歪め、一瞬だけ抵抗の弱まった隙をついて私の身体を包んでいた蒲団をはぎとった。その見事な手際といったら思わず拍手の一つでも与えてやりたいとこだが、はがされた蒲団の中身が自分では誉め言葉なんぞむかつくだけだ。
「何すんねん、寒いやんか」
「だったら、とっとと起きて顔洗って、リビングに行け。あっちはちゃんと暖房が入れてある」
 しっしっと鶏でも追い立てるように私の背中を押し、火村は寝乱れた蒲団を元に戻し始めた。ベッドの傍らに立ち、じっとその様子を見つめていた私は、諦めたように一つ息を吐きドアへと踵を返した。ここからまたベッドに潜り込むのは至難の業だし、これ以上余計な体力は使いたくない。
「歯医者の予約は11時半だ。どうせ行きつけはないだろうから、森下さんに頼んで大阪警察病院を紹介してもらったからな。ばっくれられないぜ」
 半開きのドアノブに手を掛け、私は足を止めた。まさに小さな親切、余計なお世話だ。じろりと険悪に睨みつけると、ベッドメイクの手を止めた火村がゆっくりと私の方へと歩み寄ってきた。吐息が触れ合うほどの間近に立ち、チョイチョイとパジャマの襟を指で弾く。
「アリスがとっとと虫歯を直さないと、俺にも何かと支障があるしな。それに、お前も毎回毎回これじや嫌だろ」
 ニヤニヤと朝日には不似合いな笑みで綴られる言葉は、意味不明。私はむっと眉を寄せ、パジャマの襟を弄び火村の指をはねのけた。
「もっと万人に判る日本語で話せや。それじゃ助教授失格やで」
 噛みつかんばかりの私の勢いに、火村がふざけた仕種でホールドアップする。だが両手を上げた仕種と相反するように、表情はやたらと楽しげだ。
「朝っぱらからそう目くじらたてずに、早く顔洗ってこい。飯の仕度もできてるぜ」
 一体誰のせいで、私が朝っぱらから目くじらたててるってんだ。原因の全てを占める犯罪学者をじろりと睨め付けて、私は洗面所へと向かった。火村の言葉通りに動くのは本意ではないが、クルルと悲しげな音をたてるお腹の欲求にも逆らえない。ベッドメイクへと戻った火村の背中を洗面所に入る直前に一瞥し、私は小さく舌を出した。
 棚からタオルを1枚取り出し、ふわぁと大あくびを零しながら洗面台へと向かう。昨日は脳天を突き破りそうだった歯の痛みも、今日は余り感じない。恐る恐るというように歯を磨いてみても、ここ数日自己主張をかまし捲っていた奥歯はシンと黙ったままだ。
 ---もしかしたら、自力作用で虫歯が良くなったんやないか。
 だとしたら、歯医者になんて行く必要もない。せっかく優秀な歯科医師を紹介してくれた森下さんには悪いが、虫歯が治ったのなら病院に行くだけ時間の無駄ってもんだ。それに、お忙しい歯医者さんの手を煩わせるのも気がひける。
「あっそれとも、もしかしたら虫歯やなかったのかもしれん」
 自分に都合のいいことを考えながら顔を洗い、洗剤の甘い香りのするふかふかのタオルで顔を拭く。漸くはっきりと目が覚めてきた、と一つ伸びをしたところで、私の視線はガラスの向こうの自分自身に張り付いた。
「な、何やこれ…」
 火村が楽しそうに弄んでいたパジャマの襟の向こうにチラチラと覗く紅い痕。ごくりと唾を飲み、恐る恐るというように襟元を引っ張って中を覗き込む。途端---。
「何やねん、これはーッ!!」
 大声を上げた私の視線に写ったものは、信じられないくらいの紅い痕。キスマークというよりは、殆ど風疹か蕁麻疹かはしかだ。ここまで数があると、色っぽく昨夜の名残を残しているというより不気味のひと言につきる。
「---あのアホぉ〜」
 頬に血が上る感覚は、決して羞恥のためじゃない。
「おい、火村ッ!」
 バタンと乱暴にドアを開け、私はリビングに駆け込んだ。定位置であるソファで新聞を広げていた火村が、ゆっとくり顔を上げた。
「なに朝っぱらから茹で蛸みたいな顔してんだよ」
「うっさいわ。一体どうしてんくれんねん、これ。こんなんじゃ、歯医者なんか行けへんやないかッ」
 つかつかと大股に火村の方へと歩みより、私は火村の手の中の新聞をバシッと叩き落とした。やれやれというように小さく頭を振った火村は、長々とくつろぐようにソファの背に身体をもたれ掛ける。
「内科じゃあるまいし、歯医者で服を脱ぐ必要はねぇだろ」
 確かにそりゃそうだが…。いや、問題はそういうことじゃない。ごまかされるな、俺。
「そうやなくて、何でこんなに痕つけんねん。このド変態!」
 勢い良く怒鳴りつけ、ハァハァと肩で息をつく私を白々とした瞳で見つめ、火村は大袈裟に肩を竦めてみせた。
「しょうがねぇだろ、お前が虫歯だったんだから」
「アホ! 何で俺の虫歯が関係あるんや。ええ加減な口から出任せをぬかすなッ」
 拳を握りしめて怒鳴る私に向かって指先をチョイチョイと曲げ、火村は自分の横に座るように示唆する。むっとしながらも、私は火村の指示に従うように火村のそばへと寄っていった。もちろんこれ以上はないってなくらいに怒っているのだから、火村の言うとおりに隣りになんて座ってはやらない。
 見せつけるように膝を組み、ついでに腕も組んで、火村はふぅ〜と大きく息をついた。
「アリスが虫歯でキスできなかったからな、手持ち無沙汰っていうか、まぁ仕方ないからキスマークでもつけるか---」
「アホかッ!」
 ぬけぬけと理由にもならない理由を口にする犯罪学者の若白髪の混じる頭を、私はぺしりと叩いた。火村が「いてぇな」と首を竦めてみせるが、その様子からは大したダメージなど受けていないのは丸判りだ。
 確かに火村は虫歯は移るとか何とか言っていたし、ことの最中に私が強請ってもキスはしなかった。が、でもだからといって、これはないだろう。もうこうなると、嫌がらせ以外のなにものでもない。畜生、この性悪犯罪学者。
「おい、アリス」
 むかむかと腹の底から湧き上がってくるような怒りを持て余していた私に、火村がニヤリと笑いかけた。
「お前にキスできない俺がかわいそうだと思うなら、とっとと歯医者にいって虫歯直せよ」
「あのなぁ…」
 脱力した私に追い打ちをかけるように、火村が言葉を継ぐ。
「それに---」
 火村がひょいと片眉を上げる。どこか気障にも見えるその仕種は、嫌になる程この助教授に似合っている。
「毎回毎回それじゃ、お前も困るだろ?」
「ふ、ふざけんなぁーーーッ!」
 大声で怒鳴りながら、たった1本の虫歯でこんな目にあうのなら、とっとと歯医者に行った方がましだと、私は心の中で深く反省した。それにしても、たかだかバレンタインのチョコレートがここまで祟るとは…。ついてないったらない。


End/2001.02.01




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