鳴海璃生
鍋の中では、おでんの具達が賑やかなダンスを踊っている。大根、じゃがいも、はんぺん、こんにゃく、牛筋、卵に餅入りきんちゃくエトセトラ---。どれもこれも私の好物ばかりだ。
---さぁて…。
鍋の中をじっと凝視し、食べられそうな物を吟味する。
---取り敢えず、はんぺんは大丈夫やな。大根、じゃがいもも柔らかく煮えてるし、平気やろ。こんにゃく‥、は止めた方が無難かな。
鍋の中を見つめ、考えること数秒間---。食べられそうな物を選びとった私は、鍋へと箸を伸ばした。
とその時、火村が掠めるように私の取り皿を取り上げた。何なんだ一体と思う隙もなく、あれよあれよと言う間にひょいひょいとおでんの具を皿の上に乗せ始めた。呆気にとられ見つめる間も無く、私の目の前にはこんもりとおでんの盛られた皿が置かれた。
「まったく何やってんだよ。お前は人に取って貰わないと、おでんも選べないのかよ」
固まってしまった私の耳に、からかいを含んだ火村の声が響く。何を勘違いしたのか、火村は私がおでんの具を選べずに悩んでいると思ったらしい。---子供じゃあるまいし、そんなことあるはずもないのに、だ。何か馬鹿にされたような気がするが、今はそんなことに構っちゃいられない。
「…んな訳あらへんやろ」
固い声で返事を返しながらも、私の意識は皿の上の具に釘付けになっていた。---こんにやく、大根、牛筋、お餅入りのきんちゃく、卵…。ほんわり温かな湯気をたてるおでんの具は、どれもこれも私の好物ばかりだ。いつもなら、火村と取り合いをしてでも口にするそれらが、今日は私を戸惑わせる。
「さっさと喰えよ。お前の好物ばかりだろうが」
「あ、ああ…」
曖昧な生返事を返す。そうは言われても、一体なにから食べればいいのか…。が、このままでいると、絶対火村にへんに思われる。---戸惑いながらも、私は意を決したように皿へと手を伸ばした。
---こん中で1番柔らかそうなのは…。
大根なら大丈夫だろうと判断し、箸をつける。勢い良く口に放り込み噛み締めた途端、私の手からポトリと箸が落ちた。カランと乾いた音が、余り広くもないダイニングにこだました。
「うーっ…」
両手を右頬に当て、私は俯いた。チクチクズキズキと脳天まで駆け上がる痛みに、きつく目を閉じる。
---しもたッ。薬が切れた。
何とか痛みをやり過ごそうと、無駄な足掻きを試みる。その私の耳に、無情なバリトンの声がまるで残酷な天のお告げのように響いてきた。
「薬でごまかすような無駄なことは止めて、おとなしく歯医者に行った方がいいぜ」
弾かれたように、私は顔を上げた。その拍子に、またズキリと痛みが頭蓋骨の中を駆け巡る。美味そうに皿の上で冷やしたおでんをぱくつきながら、助教授殿はゴクリとビールを呑んだ。
「な、何で…」
言葉は上手く声にならなかった。ニヤニヤ嗤いの助教授は、私の言葉の先を察したのか、ガタンと大きな音をたてて立ち上がった。
---何してるんや?
疑問を表情に張り付ける私を横目に、火村はダイニングの片隅で何かをガサゴソと探っている。が、やがて徐に振り向き、つかつかと大股にテーブルへと歩み寄ってくると、テーブルの空いた場所に数枚のラッピング用の袋や包み紙、そして色とりどりのリボンを放り投げた。
「ゲッ…」
まだ記憶に新しいそれらに、私は瞬間、脳天を突き刺す痛みを忘れた。
---しまった。
後悔しても、今となっては後の祭りだった。
火村からの電話を切った後、私は、フィールドワークのあとで火村はもしかしたらここに来るかもしれない。やったらまず1番最初にこれをどこかな隠さな、と思っていたんだった。なのに、なのに…。それを実行に移す前に眠ってしまうなんて、情けないにもほどがある。
自己嫌悪どっぷりの私に追い打ちを掛けるように、火村の声が耳朶をうつ。言葉の端々に含まれる、あからさまに人を馬鹿にしたような色合いに、普段なら文句の一つも言うとこだが、とても今日はそんなこと言えそうにもない。
そう…。不幸なことに、私は己の非を今日に限っては全面的に心得ているのだ。
「お前のような間抜けな奴が犯人だったら、あっと言う間に事件解決で、警察は楽なもんだよなぁ」
スラックスのポケットから取り出したキャメルを口にくわえ、火をつける。ほうっと大きく紫煙を天井に向かって吐き出し、何か言いたいことはあるかとでもいうように、火村は視線を私へと移した。
そして私は---といえば、気分はまるで取調室の犯人のようだ。あれほどズキズキと脳天を駆け回っていた歯の痛みが、今は遙かに遠い。それより何より、何とかこの場を無難にやり過ごすことこそが、今の私にとっての最優先事項なのは間違いない。
「だって、仕方ないやろ」
片手で頬を押さえながら、ぼそりと呟く。やってしまったことの罰の悪さに、真っ直ぐに火村を見つめることができなくて、視線は宙を彷徨わせたままだ。
「俺の本を読んでくれてる人達から贈られてきたチョコレートを、無駄にするわけにはいかんやないか」
この四日間というもの、私は珀友社経由で送られてきたバレンタインのチョコレートを嬉々として食べていたのだ。そして、微かに走った痛みに「あれっ」と思った瞬間には時既に遅く、立派な虫歯野郎が一人出来上がってしまっていた。
今にして思えば、その時点で素直に歯医者に行けば良かったのだ。だが元々歯医者のあのキュイーンキュイーンという金属的な音が大嫌いな私は、歯の痛みを薬でごまかし続け、通院するのを延ばし延ばしにして、ついに今日に至ってしまった。
「さすが有栖川先生、お優しいことだな。だがな---」
意味ありげに言葉を切り、火村は火のついた煙草の先で私の方を指し示す。双眸に浮かぶ質の良くない光に、私は僅かに身を引いた。
フィールドワークについていく度に的はずれな推理を披露している私だが、これから火村が言う言葉を推理するのはとてつもなく容易で、そしてそれは100%の確率で当たっているに違いない。
---こんなん当たっても嬉しゅうないんやけどな。
うんざりした様子で溜め息を吐いた時、灰皿で煙草を押しつぶした火村がゆっとくりと口を開いた。
「俺の記憶に間違いがなければ、2月14日に俺の研究室を訪ねていらっしゃった有栖川先生は、随分なことを色々と仰ってたよな」
言った…。
火村の研究室の机の上に山と置かれたチョコレートの数々を見て、私はここぞとばかりに散々からかったのだ。同じ男として、ちょっと口惜しかったのもある。が、あれは火村が指摘した通り、半分以上は嫉妬だったのかもしれない。---もっとも例えそうであったとしても、私は絶対にそれを認めるつもりはないのだが。
そして最後の止めは、「まさかそれ、食べるつもりやあらへんよな」と「1個でもそれ食べたら、君とは今後絶好やからな」だったような気がする。---恋愛云々はさしおいても、火村に対する私の独占欲は結構強い。
「その顔だと、お前にしては珍しく自分が何を言ったかぐらいは覚えているみたいだな、アリス」
覚えているとも…。だからこそ私は、火村にばれない内にこのチョコレートを食べてしまいたかったのだ。
だが、ばれてしまったものは仕方がない。あとは如何に己のドジを軽くするか、だ。火村を納得させるだけの上手い言い訳を頭の中で組み立て、私はゆっくりと弁明を始めた。本当にマジでこれじゃ、臨床犯罪学者に追いつめられた犯人のようではないか。
「でも…、でもな火村。君のとこに来たチョコレートと俺のとこに来たチョコレートは意味合いが違うやないか。君のとこのチョコは間違いなく君自身に来たやつかもしれんけど、俺んとこのは、俺自身というより小説の中の登場人物宛に来たものなんやで」
言っていて、嫌になるくらい虚しい…。いくら自分で撒いた種とはいえ、何でこんなこと口にしなければいけないのだ。
「有栖川有栖先生へ。…ほぉ、ご丁寧にハートマーク付きだな。---いつも先生の作品は楽しく読ませて頂いてます。先生ご自身もきっと作品同様、温かくて優しい方なんだろうなって思います…だとさ。おいアリス、これは一体誰宛に来たもんなんだろうな」
天使のイラストが入った、いかにも女の子が好みそうなかわいらしいピンクのカードを長い指に挟み、ひらひらと私の目の前で振る。
---くそっ、何て嫌味な奴なんだ。
情状酌量の余地のない確たる証拠を目の前に突きつけられ、言い返すこともできずに、私は恨めしげに火村の男前の顔を凝視した。口許に浮かぶニヤニヤ嗤いが、本当に本当にに憎ったらしい。
「何か言いたいことはあるか?」
「…あらへん」
「だったら、俺に言わなくちゃならないことが色々あるんじゃねえのか。---そうだな、まずはごめんなさい、だな」
この野郎いい気になるな、と思ったが、私はそれを強い意志の力でもって飲み込み、しおらしく頭を下げた。
「このたびは誠にもって申し訳ありませんでした。私が年甲斐もなく、また浅はかにもバレンタインのチョコレートに一喜一憂し、それを食したため、せっかくお誘い頂いたフィールドワークにもお供することができず、長年のお優しい友人である火村先生には、たいへん不愉快な思いをさせてしまいました。それは私にとっても非常に遺憾なことであり、衷心よりお詫び申し上げるしだいであります」
国会答弁かお偉い大臣の先生方も斯くやというような向上を述べ、私はほっと息をついた。2本目のキャメルを口にしていた火村は、呆れたように鼻を鳴らした。
「嫌味にしか聞こえねぇぞ」
「とんでもない。心の底から俺は謝ってるんや」
私の真意を測るように目を眇めた火村が、やがてふと視線を逸らした。
「まっ、そういうことにしといてやるさ。それよりアリス、さっさと飯喰えよ」
鬼か、こいつ。虫歯がズキズキと痛んでいるのを知っているくせに、何でこういう台詞が言えるんだ。
そう思った途端、忘れていた歯の痛みがぶり返してきた。気のせいか、さっきよりも数段痛みが増しているような感じがする。慌てて頬を押さえ、抗議の意味も込めてジロリと睨みつける私の視線を完璧に無視して、火村はいけしゃあしゃあと言葉を続けた。
「飯喰わねぇと、薬も飲めねぇぜ」
火村に言われなくても、そんなこと私にだって判っている。だがズキズキと痛む歯で、一体どうやって飯を喰えというのだ。---視線に込めた無言の抗議に、火村は小さく笑った。
「鍋の中にうどんが入ってる」
キャメルを片手に顎をしゃくる。それにつられたように、私はシンクの横のガスレンジへと視線を移した。そこには、一人用の小さな土鍋がぽつんと鎮座していた。
歩み寄り、布巾を片手に蓋を取る。白い湯気がほわっと広がり、私は一瞬双眸を閉じた。ゆっくりと目を開け、視線を落とす。その先には、見るからに美味しそうな玉子綴じうどんがあった。視界に写っているものが、俄には信じられなかった。が、鼻孔をつく出汁の匂いに、その存在が改めて認識される。
「火村、うどん作ってくれたんか」
弾んだ私の声に、火村のぶっきらぼうな声が返事を返す。
「それぐらいなら食べられるだろう。さっさと喰って薬飲んで、おとなしくしてな」
うんうんと頭を上下に振り礼を述べようとした私を、火村の声が止める。
「いいか、明日は朝一で歯医者に行くんだぞ。嫌だなんて言ってみろ、首根っこ捕まえて引きずってでも連れて行くからな」
歯医者の言葉に思わず凍り付く。それを認めて、火村がニヤリと揶揄するような笑みを口許に刻んだ。
「いい年齢して、まさか歯医者が怖いなんて言わねぇよな」
「そ、そんなことはない」
慌てて応えた声は、どこか固い響きを含んでいた。
「…だよな。だったら明日歯医者に行くのは、何の問題もねぇってことだ。何せアリスが早く虫歯を直さねぇと、俺にとっても大問題だからな」
ガスレンジから運んできた土鍋をテーブルの上に置きながら、私は僅かに首を傾げた。
---俺の虫歯が、何で火村にも大問題なんや?
言ってる意味が良く判らない。それは、今日のように私がフィールドワークについていけないことを指しているのだろうか。
---まさか、な…。
自問自答を繰り返し、それでも一向に答に行き着かない私は、正解を求めるように火村を見つめた。が、火村の口許に浮かぶ楽しそうな笑みに、何となく嫌な予感が背筋を這い上ってくる。もしかしたら、聞かない方がいいのではないだろうか。---私の逡巡を見透かしたように、火村はゆっくりと言葉を綴る。
「アリスが虫歯だとキスもできねぇからな」
露骨に語られた言葉に、思わず身体が引ける。何だってこの男は、こういうことをさらりと口にするんだ。---何か言い返そうにも、酸素不足の金魚のようにパクパクと口が開くだけで、声が言葉を形作らない。
「何だアリス、知らなかったのか。虫歯は移るんだぜ。アリスとキスするのはいいが、虫歯を移されるのは俺もごめん被りたいからな」
だ、だから…。少しは羞恥心てものを身につけろ。
このまま放っておくと何を言い出すか判らない火村に、私はやっきになって話題の転換を図る。
「明日朝一で歯医者に行くから、この話はもう終わりや。ほら、さっさとおでん食べろや」
言いながら、私は慌ててうどんを啜る。なのに、ここで手を抜く気のない火村は、私の健気な努力を丸無視して言葉を続ける。
「だよなぁ…。やることやってもキス無しってのは、アリスだって嫌だよなぁ」
「うっ…」
極力知らぬ振りを決め込んでいた私は、飲み込んでいたうどんを喉に詰まらせゲホゲホと盛大にむせ始めた。目の前にあった缶ビールを咄嗟に掴み、一気にそれを喉へと流し込む。ほうっと息をつき視線を上げると、湯気の向こうに火村のニヤニヤと嗤った顔が見えた。
「こ、この…。ドアホっ!」
勢いにまかせて怒鳴った声が、ダイニングの柔らかな空気の中に溶けていった。
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