友人との旅行 昭和28年(1953年) 三重県


貧乏旅行 (名古屋〜鬼ヶ城〜白浜温泉〜大阪〜名古屋)

成時代の大学生は在学中に国内旅行はもとより海外旅行や近場へのドライブ等大いに足をのばし楽しむ時間と資金を持っている様子であるが、昭和20年代後半の我々にはまったく縁遠い話だ。今回はわたしの大学時代に友人と行った三重県の旅を紹介したい。所謂貧乏旅行という類のものだ。

  ときは1953年(昭和28年)の夏休み。桜山の寮や下宿でアルバイトに精出している悪友連が集まり、馬鹿話で盛り上がっているとき三重県の津高校出身のY田とY村よりせっかくだから卒業前に一度泊りがけで旅に出てみないかとの提案があった。 行き先は三重県熊野の「鬼ヶ城」。何故ここに決まったか、理由は簡単。誰かが「ここはええぞ」と言ったとか言わなかったとか・・・、記憶は定かではないがそんな程度であっさりと行程が決まってしまった。

【鬼ヶ城概念図】画像は鬼ヶ城センターさんより借用しました。

当初は鬼ヶ城で野営をして帰りに伊勢参りでもするか?程度のいい加減な計画で米と飯盒、米軍放出の携帯燃料、それと缶詰2,3個 を用意した。野営用のテントなぞ誰も持っていないのでごろ寝する予定で出発した。

昭和28年ではまだ紀勢本線は全線開通しておらず(全線開通は昭和34年)尾鷲から鬼が城までは現在の42号線をバスで行くことになった。これがまた予想以上にひで〜〜えガタガタの山道悪路で何時間揺られたかはっきりしないが着いたら三人ともフラフラの車酔いで青い顔! 

鬼ヶ城へ

ともかく目的地の鬼が城に最初に行ってみた。 現在は観光地として整備されているが当時は地元周辺の人位で閑散たるもの。人相の悪い貧乏学生三人がウロチョロしていても誰も居ないのだから、まったく問題なし。あの頃は海の水もとても綺麗で米も海水で洗って飯を炊いた。
ほんのりとした「塩気飯」で味も格別であった記憶がある。今なら焚火と缶ビールで大いに盛り上がるだろうが、昭和28年当時にはそんなしゃれた物はなかった。岩陰でタバコをくゆらせてとりとめのない青春談義をローソクの灯りの元で楽しんだ。寝袋など誰もなくおんぼろ毛布で岩の上で寝た記憶がある。朝飯は 前の晩の残り飯を飯盒から直接ぱくついて終わり。

時効だからここに書けるがこの野営での 「きじうち」は本当に豪快だった。きじうち?あえて説明しないのが味噌!これが何だかは 想像してください。さて適当な場所はお山と違ってあるわけは無い。あるのは波が打ち付ける岩場ばかり。安全で証拠を残さぬ場所を探すだけ汗がでた。ふんばっても海におっこちない岩場の隙間を見つけて さあ「きじうち」開始だ!落下物が真っ白に砕ける波間に消えていく豪快さは経験者しかわからない「秘密の体験」であった。機会があったらもう一度鬼ヶ城に行ってこっそりとやってみたいという思いにふとかられてしまった。

白浜温泉へ

さあ、これからどうするか。
またあの42号線のバスで尾鷲まで戻るというプランは三人とも即座に「やめよう」と合意。結局大阪経由で名古屋に帰ろうと衆議一決。だが、これからどうやって大阪まで行くのか、時刻表なんて誰も持っていないし地図もない。Y田からが大阪にいく途中に 「白浜」と言う温泉地があるからそこに行こうと提案があった。反対するも何もまったく土地勘も知識が全く無いのだから その「白浜」なる所に向かって紀勢西線で出発。道中どうしたかはまったく忘れてしまったが午後遅く白浜に着いて今夜何処に寝るかの場所探し、土地勘が全然無いのでごろ寝する場所がわからず、歩きまわっていた。するとY村がお宮さんの社務所でごろ寝した事があるのでお宮さんを探そうとなって歩き回ったら小さいお宮があり、手ごろな社務所があった。勝手に上がりこむのは失礼だからここの管理人を探して許可を得ようと近所の人にお尋ねしたら「雑賀」さんという方の家を教えてくれた。乞食の夜逃げならぬ「昼逃げ」スタイルの三人が 使用の許可をお願いしたら、 なんとなんと

「それなら 家に泊まりなさい。遠慮はいらぬ」

との話で、びっくり仰天。  再三辞退したが結局その晩は三人とも雑賀さんの家に泊めて頂き晩飯も朝飯もご馳走になってしまった。昭和28年当時は 大学生と言うだけもまだ信用して貰える古き良き時代だった?今なら見も知らぬ他人を三人も泊めてくれる親切な方がいるだろうか。雑賀さんとは 卒業後も暫く文通が続いたが、高齢で亡くなれてしまった。 (合掌)

白浜温泉から大阪へ

白浜でのんびりと散策してそこから大阪駅に夕方到着した。当時の大阪駅周辺の雑多な賑わいは見て歩くだけでも楽しかったし、駅前の広場ではなんと盆踊りの最中だった。Y田もY村もザックの監視役を私に押し付けて彼等は盆踊りの中に入って一緒にワイワイ。大阪人の良い所はどこの馬の骨が入ってきてもすぐ受け入れてくれて一緒になって楽しむ事だと感じた。

交代で盆踊りの中で時間を過ごしている内に腹減ってきた。ラーメンでも食べるかの話になり、それじゃと 各自の財布を見たら 無計画に使ってしまったので、残金はほとんどゼロ!名古屋までの切符は既に買っていたので困らないが三人あわせてラーメン一杯分の金しか残っていなかった。結局どうしようもないので、一杯のラーメンを順番に食べようじゃないかと決めて文字通り汁一滴も残さず綺麗に3人で平らげた。野郎三人が一杯の丼を互いに交換しながら麺を食べ汁をすするなんて今じゃ 到底出来ない事かもしれないが青春時代はそんな事も至極平然とやれたんだと今思う。

だが、友情あふれるラーメン(?)を順番にすすっているうちに最終の列車が出てしまった!無計画無頓着のノー天気で楽しんで居るうちは良かったが、気が付いたらもう12時過ぎ。うわ〜〜どうしよう、とは言ったもののなるようにしかならん。大阪駅前の芝生で夜明かししようと ラーメン屋のオヤジに相談したら酔っ払って乗り遅れた連中がよく寝る所だと適当な場所を教えてくれた。もうひとつもらったアドバイスは靴の管理の仕方。

寝るときは靴を脱いでザックに入れて寝ろ、さもないと寝ている間に靴泥棒にやられるぞとのことだった。当時はまだ靴は貴重品だったのだ。

その通りにして芝生の上で残り少ないタバコを回しのみしながら夜が明けるのを待って大阪駅構内の洗面所で顔を洗った。だが、朝飯食うだけの金がもう手元に全く無い!三人ともに水だけ飲んでその場はごまかしたが、名古屋駅着くまでの腹の減ったこと減ったこと。到着した名古屋駅でもやたらに食い物の匂いが気になって余計に空腹を感じた事を今でもはっきりと覚えている。

同行したY田 と Y村君。二人の名誉挽回の為に付記するとY田は卒業後川崎に住み某大手建設会社の役員となり業界で活躍中 現役で平成14年の1月に他界した。在学中は豪放闊達で、あいつは「土建や」にぴったりだと言われていたがその通りの建設会社で活躍した好漢。

もう一人のY村は現在鎌倉で悠々自適の生活を楽しんでいるが、卒業後は某銀行に就職してこれまた役員で退職、 Y田とは正反対の冷静沈着で実にまじめな学生で、私はサボった授業のノートをよく借りたものだった。彼とは今でも文通が続いてお互いの消息を交換し合っている。
昭和28年頃の唯一残っている彼との写真を掲載します。少々ピンボケ写真だが。

こうして 貧乏学生時代に裸で付き合いが出来る仲間がいた事は今でも本当に有難い事と感謝している次第である。

平成19年10月9日 


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