体育の授業と軍事教練

昭和20年


和20年に入ると戦雲益々急を告げ、大本営発表も「敵の大攻撃に対して皇軍は果敢に反撃、大損害を与えてこれを撃退せり。わが方の損害は航空機4機自爆の他は軽微なり」こんな発表の連続で、戦場が遂に内地まで押し寄せてきた。このような状況下、神戸三中での体育の授業も次第に本土決戦を意識した戦時色を次第に強めていったのである。

一年生の時の剣道は 防具をつけて正座から竹刀の素振りと面、胴、小手と撃つ基本を大事にした。柔道も正座から受身の姿勢を徹底的にやらされ、そのあと乱取の練習だったが二年生になったら、がらりと変わって、戦争を意識して実に殺伐たるものになった。 

学校には軍事教練専門の陸軍将校が来ており、彼の名前は勢志(せし)少尉殿だったと記憶している。中国戦線経験の万年少尉(当時で40歳位であっただろうか、かなりの「おじいちゃん」という印象であった。その彼から即実戦に役立つ幾つかの訓練を受けた。その一つに今ならと
んでも無いと非難ごうごうとなるだろうが「ナイフ一丁で米兵を殺す方法」があった。爆撃で軍需工場が破壊されて充分な兵器生産がもう出来なくなって、我々の様な予備兵には銃の支給は無い、唯一銃剣だけの支給が可能と言う環境でこの銃剣を使っての人殺しの遣り方を実に丁寧に教えてもらったのである。ここでは公開出切る物ではないが今でもその方法ははっきりと覚えている。お断りしておくがこれを実際に使ったことはありません。

当時は15歳の少年がみんな真剣になってその方法を学んだのである。中学二年で真剣に人殺しや特攻訓練をやっていたなんて戦争というものの恐ろしさを痛感する。戦争なんて絶対にやってはならない。どうしてもやりたければ、先ず代議士どもがどっか無人島で相手の代議士どもと殺し合いやって決着つけてくれればそれで結構だ。  




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